「泣いてないや。泣いてたのは自分のほうだったくせしてからに」
「泣いてなどおらぬ」
「泣いておった」
「泣いてなどおらぬ」
「泣いておった、泣いておった」
「泣いてなどおらぬわい」
しばらく、姉と弟が言い合っていました。
やっと、つかれて、ふたりともなにがなんだか分からない、なにを言い合っていたのか忘れたころ、
「そうして、かかさまは、鬼の嫁にされてしまったのだな」
男が、さっきの話にもどしました。
姉は、少してれたように、そそくさとすわりなおし、ごほん、ごほん、と、せきばらいをします。
「そうなのです。鬼の嫁にされてしまってしまったのであります。
わしら、そのときは、なにがなんだか、よう分からず、かなしくもなし、さみしくもなし、とぼとぼ、家に帰っていったのでありやす。なんにもしゃべりやせんでした。
かかさまは、縄をなっておりやした。
急に、なんだか、頭がぐらぐらして、胸がかっかして、泣きたいような気持ちになったのでありやす。
ああ、でも、泣かなかったのでありやす。
(おや。畑にいないと思ったら、どこに行っておったのじゃ)
(かかさま)
(かかさま)
(ああ、なんだい。どうしたのじゃ)
(かかさま)
(かかさま)
(はいはい、かかさまだよ。どうしたのかねえ。ねずみがへそをかじられたような顔をしてるよ)
わしらは、おかしくて、ちょっと笑ったのでありやす。
鬼の話を、おずおず、きりだしやした」
ほろほろ、ほう、ほう、ほろほろ、ほう
鳥が鳴きだしました。夜の鳥です。ふくろうです。夕暮れの色は、ぬぐいとられて、もう夜です。
姉は、そっと、明かりをつけようと、立ちました。
「なるほどな。鬼の嫁になったか。かかさまは」
「へえ」
弟のほうが、こたえました。
「かかさま、なんと言った」
「かかさま、にっこり笑って。
(そうかい、しょうがないねえ。じゃあ、ちょっと行ってくることにしようかね)
そのまま、すたすた、出ていきやした。
それで、それで、それで、わしら、ずっと」
「泣いていたな」
「へえ」
明かりを顔の右半分にうけて、姉は振り返って、
「泣いてなどおらん」
「いや、おれは聞いたぞ。見たぞ。くすん、くすん、泣いておった」
姉は、うつむきました。
「あい。泣いておりやした。泣いておりやした」
「そうだろう。
いや、よく分かった。感心した。
それが、すべて、今日あったことか。いろいろなことがあったなあ。おまえたちは、よくそれをきちんと話すことができた。よく、いままでたえてきた。
ほめてやる。
えらいぞ」
「ありがとございやす」
「ありがとございやす」
「かかさまに、会いたいな」
「へえ」
「へえ」
「ひとりでいいと言うに」
「あい」
「あい」
「ひとりでいい、ひとりでいい。かかさまを、とりもどしたいな」
「あい」
「あい」
「そうだろう。それでは、そうしよう。いいか、おまえたち、鬼はこわくないな」
「こわい」
「こわい、けど」
「けど、かかさま、会いたい」
「かかさま、帰ってきてほしい」
「そうかそうか。それでは、助けてやる。いいか、ちょっとこっちに来い」
姉と弟は、首をひねります。
「おじさんは、誰じゃ」
「おじさんか。おじさんはな、おまえたちに分かるように言うと、そうだな」
「うん」
「なんじゃ。なんじゃ」
「お話屋さんだよ」
ふたり、声を合わせて、
「お話屋さん」
夏の夜は、ふけていきました。
山のなかです。
鬼のすみかです。
里の人々が、おまいりする、神社があります。もう少し行くと、大きな、大きな木があります。ご神木です。神さまが、この木をめあてに、祭りのたびにおりてこられるのです。そこから先は、誰も、足を踏み入れたことがありません。
何十、何百という蛇が鎌首をもたげて、波をうって、目の前を横切ります。
半分くさったような、骨のような山犬が、吠える、のたうつ、牙をむきます。
見たことも聞いたこともない、手のひらを合わせたような、一尺ばかりの羽のある虫が、耳をかむのです。
木々を、かきわけ、かきわけ、崖につきあたります。見上げるような、絶壁です。
日は、空の一番上で、なにも知らないみたいに、ぎらぎらと、ほがらかに緑を照らしておりました。
ぽっかりと、そこだけ、しつこく夜がつづいているかのように、暗い、まるい、ほら穴がありました。
鬼のすみかです。
顔を出しました。鬼です。長い髪が、ちぢれて、額をかくして、まゆ毛をまたぎ、まぶたをおおい、鼻までとどくほどです。が、ぎらぎらとかがやく、目の光は、日の下でもなおくっきりと浮かんでいます。
が、子供たちが男に話すほど、鬼は大きな体をしていないようです。
寝て起きて来たような、ねむそうな目をしております。
いいえ、かなしい目です。さみしそうな目です。
なにを見ているのでしょう。
ななめ上に、ふわふわと視線を泳がせて、
じりじり、じりじり、じじじじ、じじじじ
さわがしく鳴きかわす声をたよりに、深い緑に姿をかくした蝉たちを、ぼんやり、さがしてでもいるのでしょうか。
「できました」
ほら穴のなかから、鈴のなるような声が、聞こえました。鳥がさえずるようでもありました。
鬼は、振り返ってそちらへうなずいて、ほら穴の、闇のなかに消えました。
「こんなものしか、できませんでした。山菜を煮て、塩をふって」
「ああ」
「ですが、見てください。兎が、迷いこみましてねえ。かわいそうに。首をしめて、殺してしまいました。かわいそうに。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。かわいそうですが、これで、わたしたちの口に入って、わたしたちは、今日一日は飢えないで生きていけそうです。どうぞ。あなたから、先に」
「ああ」
「どうぞ」
「ああ」
あの子供たちの、母親でした。鬼の嫁になって、毎日三度三度、山のものをとっては、鬼にめしをつくってやっているのでした。
母親は、目をふせて、
「それでは、わたしが先に」
「ああ」
「いただきます」
「ああ」
「よくできました。そんなに、まずくはないようです」
「ああ」
どうも、調子がくるう。
ここにつれてこられたときから、鬼は、ずっとこの調子でした。
なにを言っても、ああ、ああ、と、なま返事をするばかり。かえって、母親のほうが気をつかって、しきりに鬼に話しかけようとするのです。
こわい。
らんぼう。
強い。
わがまま。
おそろしい。
いままで、鬼とはそのようなものだろうと思っていた、ひとつひとつが、こうして目の前にすると、まるでちがいます。
「置いておきますので、腹が減ったら、どうぞ」
「ああ」
「ああ、しかおっしゃらないのねえ」
「ああ」
母親は、たいくつでした。
ふたりの子供をやしなうのにくらべたら、鬼のめしをつくることくらい、かんたんでした。山には、なんでもありました。たまに里のものが、米、みそ、塩などを置いていってくれます。
母親は、たいくつでした。これで、夜、ごはんをつくるときまで、なにもすることがないのです。
母親は、あくびをしました。鬼をちらりと横目でうかがいました。椀のなかのものを、鬼はじっと見つめていました。
「鬼は、たいくつではないのだろうか」
母親は、思いました。
「いままで、ひとりで、こんなくらしをしてきたのねえ」
鬼が、なんだか、かわいそうな気がしてきました。
「たったひとりで」
じりじり、じりじり、じじじじ、じじじじ
蝉が鳴いています。ああ、蝉が鳴いているな、と、そのとき母親が気づきました。きっと、ずっと鳴いていたのです。
じりじり、じりじり、じじじじ、じじじじ
しばらく、ほら穴の外に耳をかたむけていました。
じりじり、じりじり、じじじ
おや、と、母親は顔をあげました。蝉の声が、とぎれたのでした。
人の気配がしました。
「こんにちは」
誰か、来ました。ほら穴の入口で、日の光をせおって、黒い影が、そこにいたのです。
「は、はい」
中腰に立ちあがり、母親がこたえました。
「少し、休ませてはもらえないかね」
「休む。はあ。しかし、ここは」
「こんな山の奥に、人の住んでいるところがあるとはねえ」
「しかし、ここは」
母親は、鬼を振り返りました。まだ、椀のものには手をつけていません。
「あんた。この人が、休みたいんだって。いいでしょうか」
「ああ」
黒い影は、ひょい、とほら穴に足を踏み入れました。
うす暗いところで、かえって、はっきりとしました。ずきんをかぶり、杖をつき、白づくめの、どうやら、おばあさんのようでした。
顔は見えませんでした。よれよれのずきんは、鼻の下までかかっておりました。
「このあたりで、いいのかね。よっこいしょ。こちらが、だんなさま、こちらが、奥さま。やれやれ。このばばは、目がよく見えませんでな。ここは、じゃまではありませんな。よかったよかった。変わったおやしきじゃな。つめたい、暗い、かわいた、石のようなにおいがする。いやいや、ぜいたくを言っておるのではありません」
「ええ。夏は、ようございましょう」
「そうでございますな。なかなか、すごしやすそうでございます」
母親は、ほっと息をつきました。迷いこんできた、このおばあさんを、鬼は殺してしまうのではないか、と、心配していたのです。
おばあさんは、そこにいるのが鬼だとは知りません。だから鬼も、きっと、無事に帰してくれるでしょう。それに、おばあさんには悪いようですが、鬼が食べても、あまりおいしくはないでしょう。
「おばあさんは、どこから来たの」
母親は、ひさしぶりに人に会えて、うれしいのです。ああ、しか言わない鬼ではない、ちゃんと話をしてくれる、人です。
「どこといって、ずっと遠くさ」
「どこに行くの」
「さて。やっぱり、ずっと遠くさね」
「ずっと遠くで、なにをしてきたの」
「お話をしていた」
「お話」
「ずっと遠くへ行って、これからも、お話をするのだろうねえ」
「お話を、どうするのですか」
「どうすると言って、聞かせるわね」
「聞かせて、どうなります」
「わしの話がおもしろければ、おもしろかった、と言ってくれるねえ。そうして、なにか、お礼にといって、ものをくれるのさ」
「へえ。お話をねえ」
母親は、どんなお話が聞けるのだろう、と、そればかりが気になりはじめました。母親は、さみしかったのです。これからも、ずっと鬼とふたりきりで、つめたい、暗い、ほら穴でくらしていかなければならない。せめて、少しでも、そのさみしさを忘れられたら、と思ったのです。
「あのう、おばあさん」
おばあさんは、分かっているというように、
「はいはい。お話だね」
「ええ、もしよければ」
「休ませてもらったからねえ。もちろん、お聞かせしますよ。なにがいいかねえ」
おばあさんは、しばらく考えていました。
じりじり、じりじり、じじじじ、じじじじ
また、蝉が鳴きはじめました。
おばあさんが、やっと、口を開きました。
「それでは、お話をはじめましょう。夏のことでございました。今年の夏のように、暑い、暑い、夏でした。
山のなかの、小さなお城で、
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ
元気な泣き声が、響きました。男の子でした。みんな、ひどくよろこびました。殿さまのはじめての子供で、それも男の子。お城のなかは、お祭りのようでした。
小さなお城で、城下もこぢんまりとしたものではありましたが、まわりをかこむ山はゆたかで、いろいろなものを人々にあたえてくれました。やがて、城下にも、ご出生のよろこびはつたわりました。
笛を鳴らします。
たいこをたたきます。
じりじりと蒸し暑い、その夏のうさをはらそうとでもするように、おどりまわって、練り歩いて、人々はうかれています。
酒を飲む。
大声で歌う。
三日三晩、城下は、めちゃくちゃなさわぎです。ひとしきりさわぎが終わっても、往来ですれちがう顔、あいさつをかわす顔、みんな、どこか、しあわせそうにほほえんでいるのでありました。
その子は、扇丸、と名付けられ、すこやかに育っていきました。
ある日のことです。
扇丸が三歳になった夏でございます。
乳母の手をはなれ、家来の目をぬすんで、扇丸は、お庭に出ておりました。
りっぱな松が、扇丸を見下ろすように、そびえています。さかさにその松をうつして、鏡のようにひっそりとした、大きな池が深い緑色の水をたたえています。その池のなかで、赤、黒、白、銀色、金色、鯉はあざやかにそれぞれの背中をかがやかせていました。
扇丸は、鯉がすいすいと池の水を割って、すずしげに、泳ぎまわるのを見ていました。
と、黒い一匹が、ぱしゃり、水をはねて、飛びあがりました。
扇丸は、目をまるくしています。にこにこしながら、手をたたき、もう一度、もう一度、と鯉におねがいするようでした。
それにこたえるように、また、一匹、今度も同じ、黒い鯉が飛びあがります。
ぱしゃり、ぱしゃり、何度も繰り返すうちに、鯉も、調子にのりすぎたのでしょう。池に帰れず、うっかり外に落ちてしまい、ばたばた、ぴちぴち、もがいておりました。
扇丸は、片手でその黒い鯉をつまみあげて、ひょいと池にほうり投げてやりました。
ぱしゃり、もうしくじらないぞと、ひとつちいさくはねて、黒い鯉は、扇丸にありがとうとでも言っているようでした。
「これ。これ」
急に、うしろから声をかけられ、扇丸はびっくりして振り返りました。
「坊、いい子じゃの。坊」
「うん。わしは、いい子じゃぞ」
白づくめの婆アが、杖をついて、まがった腰に手をあてて、立っておりました。
お城には、たくさんの家来がおります。扇丸は、まだ、みんなの顔を覚えてはいませんでした。きっとめしたきの婆アであろう、とひとりで決めて、おかしいとは思いませんでした。
「坊はな、みんなによろこばれて、生まれてきた。しあわせな子じゃぞ」
「ふうん」
「みんなが、待っておった。坊が、生まれてくるのを、待っておった」
「ふうん」
「分からんか。まあいい」
「まあいいのじゃ。ばばは、なにしに来た」
「ほ、ほ、ほ、ほ、ほ」
「わしと遊べ。ばばが、わしを追いかけるのじゃ。わしは、逃げるのじゃ。ばばが鬼じゃ。ばばは、わしより足がおそいじゃろうから、てかげんしてやるぞ。どうじゃ」
「ほ、ほ。坊は、やさしいの。やはり、なにかごほうびをあげねばならんの」
「ごほうびか。つまらんものは、いらんぞ」