夏の夜はみじかい。昼は長い。太陽はなかなかしずまず、夕方の時間が、いつまでもつづくのです。
つつり、つつり、つつり
きしむような、つめたい、かたい音が、かすかに聞こえてきます。虫の声です。なんの虫かは分かりません。ただ一匹、鳴いているのです。
ぎらぎらとまぶしい、昼がいま終わろうとしている。里の百姓たちも、家に帰りました。めしを焚くけむりが、家々からたちのぼる。これから外へ出るものはいません。夏の空気がすすり泣くようです。
つつり、つつり、つつり
それにしても、しずかなのです。
そうでなければ、こんなにもほそい、たよりない、たったひとつの虫の声が聞こえてくるはずがないのです。
つつり、つつり、つつり
その虫の声にまじって、
くすん、くすん、くすん
泣いています。泣いています。
つつり、くすん。つつり、くすん。つつり、くすん
いいえ、夏の空気が泣くのではありません。子供です。ちいさな子供です。村から少しはずれた、山のふもと、指でつまめそうな、かわいらしい、おもちゃのような家が、ぽつりと置き忘れたように立っているのです。聞こえます。聞こえます。子供の泣き声は、この家のなかからです。
くすん、くすん。くすん、くすん。くすん、くすん
聞こえます。よくよく耳をすませば、それも、ふたりぶん。なにがかなしくて、泣いているのでしょうか。
と、家の前、ひとりの男がたたずんで、いまにも戸をたたこうとする手を、あげたり、さげたり。この男も、やはり、気になるのでしょう。なにがかなしくて、泣いているのか、知りたいのでしょう。
「誰かいないか」
ついに、がまんしきれず、声をかけます。くすん、くすん、ともれてくるのが、すんすん、と鼻をならして、あわてて泣きやんだようです。そうして、また虫の声だけが、さみしく響くのです。
「誰かいないか」
「あい」
「あい」
「なかに入れてはくれないだろうか。旅のものです。少し、休みたい。水のいっぱいでももらえれば、すぐに出ていく」
「あい」
「ううん」
「姉さま、あけないのか」
「どうしよう。ううん。どうしよう」
「でも、休みたいと言うておる」
「でも、ぶっそうだって、かかさまが」
もごもご、子供の声で、話し合っています。板戸に耳をおしつけて、子供の声しか聞こえないな、と、男はあらためて変に思いました。
「なかにいるのは、ふたりだけか」
「あい」
「あい」
「ええ、ひとり言えば分かる。子供だけか」
「あい」
「あい」
「ひとりでいいと言うに。姉さまと、弟か」
「あい」
「あい」
「ひとりでいい、ひとりでいい。ととさまは、おらんのか」
「ととさま、死んだ」
「死んだ」
「そうかそうか。かかさまは、どうした」
「かかさま」
「うう、かかさま」
ああん、ああん、ああん
泣きだしました。すすり、ためこみ、しまっていたものを、一度に吐きだしたのです。
男は、思わず耳をふさぎ、
「泣くな、泣くな。ええ、泣いていては分からん」
が、しばらくは、おさまりそうにありません。男は、あきらめて、待つことにしました。
「うう」
「うう」
少ししずかになって、男は、戸を引きました。すらり、と、かんたんに開いてしまいました。
子供がふたり、手で顔をぬぐっているところでした。男は腰をおろして、
「よしよし、おまえのほうが、姉さまだな」
「あい」
「よしよし、それでは、姉さまのほうに聞こうか。かかさまは、どうした」
「かかさまは、いない」
「よし、泣かなかったな。えらいぞ。どうして、かかさまはいなくなった」
「うう」
「おっと、泣くな」
「うう、かかさま、つれていかれた」
「誰に。ゆっくりでいいよ。言ってみろ」
「村の人たちに」
「どうして」
「それは、それは、うう、鬼が出るのです」
「鬼が出る。ほう。えらいぞ。だんだん分かってきた。その調子で、少しずつ、順番に、言うといい」
「順番に。かかさまと、わしと、弟と、畑をつくっていやした。山に出て、きのこをとりやす。木の枝を拾いやす。山菜をつみやす。薬になる草も、ありやす。
それで、そんなものを城下で売って、米、みそ、塩、炭なんかを買って、くらしておりやした。
みんな、なかよしでありやす。もうすぐ、祭りが、里であって、どんどん、ぴいぴい、ぐるぐるまわって、おどって、はらいっぱいめしを食って、たのしいのです」
「花火が、どーん、だよ」
「そうじゃ、花火が来ることもありやす。それはそれは、きれいで、耳がちぎれそうに大きな音がして。みんな、祭りをたのしみにしておるのでありやす。
が、今年は、祭りも、できるかどうか。うう、うう、うう」
「ふむ。なにが、あったのかな」
「からっからに晴れた、風のない日でありやした。空が近くて、畑でしゃがんでおっても、おしつぶされるようで、といって、見上げると、吸いこまれそうに高い、遠い、あんな空ははじめてでありやした。
風が吹くのです、急に。
そのとき、わしらは、な」
「うん。畑に出ておりやした。草ひきをしておりやした。かかさまは、家のなか」
「山のほうを見やした。
木の枝が、ゆれておる。
ばさり、ばさり、年寄りの髪をふりみだすように、枝を、ふとい幹までしならせて、うなっておりやす。
空は青いのです。
山のてっぺんから、ざ、ざ、ざ、ざ、と転がり落ちてくる、目に見えない、なにかが、木々の葉をゆすぶり、けちらし、ちぎり捨て、山をこちらにくだってくるのでありやす。
わしは、とっさに、弟をだいて、まぶたをかたくにぎりしめ、顔をふせて、それをやりすごそうとしやした。
風の玉が、わしの体を通りぬけていったのでありやす。
ひんやりした手で、背中をさかなでにされるようで、ぞっとしやした。おそるおそる、顔をあげると、山がある。
その山はもうおだやかで、ゆれるにしたところで、ときどき思い出したように正座の足を組みかえるようなもので、やさしい、いつもの山の木が、行儀よく立っておるだけでありやした」
姉は、男に話すのに夢中になって、頬に残った涙のあとをぬぐうのも、忘れていました。もう、泣きだすこともなさそうです。
弟も、うんうんうなずいて、姉の言うことに、いちいち同意をしめします。
しずみかけた太陽は、それでも柿色に山のあちらでぐずぐずして、ここにもまだ、夕暮れのなごりはかすかにとどくのです。
「風が、な。それで、どうした」
もったいぶるような姉に、男も引きこまれて、じれったくなります。
「それで、それで、これはなにかおかしい、風は、里のほうに吹いていくようじゃった、と、わしら、畑の草ひきはやめて、街道を走っていったのでありやす。
はあはあ、わしと弟と、息を切らして、庄屋さんの家の前、大きな大きな影が、田んぼのまんなかに、立っておりやした。
村の人たちも、何人か、来ておりやした。みんなで、顔を見合わして、なんじゃろう、なんじゃろう、と言うておりやした」
「大きな、か。どれくらいだ」
「へえ。三間もあったじゃろうか」
「おまえと、弟と、手をつないで輪になって、そのなかに入るかな」
「とてもとても。もうひとり、そうじゃ、あんたもいっしょに手をつなげば、なんとかな」
「それは、なんだ」
「鬼でありやす」
弟が、大きくうなずきました。
「鬼か」
「へえ。なんじゃろう、なんじゃろう、と村の人たちと話しておりやしたら、おや、ふわりと足をあげる。その足をおろして、どすん、みんな、尻をついてころがりやしたわ。
これは、いけない。おそろしいものだ、と、そのとき、やっと分かったのでありやす。
(食うもの)
鬼が、しゃべりやした。牛の鳴くような、ではないです、ええと、千頭の牛が、山道に足を踏みはずして、谷に落ちていって、助けてくれ、と一度にわめくような。
体じゅうの毛が一本立ちするほどに、ぞっと、寒気が走りやした。
みんな、蜘蛛の子ちらしたように、宙を走って、あたふた家に帰っていきやした。はじめにもどってきたのは、七兵衛さんというお百姓でしてな、にわとりを一羽、胸にかかえて持ってきやした。
(食うもの、よこせ)
七兵衛さんは、うわあ、と声をあげて、にわとりを投げ捨てたのでありやす。
こ、こ、こ、こ、こ、こけっこ
にわとりは、ひょいと地べたに立って、すぐに、よちよち、歩きはじめやした。鬼の影のなかを、よちよち、歩きまわっておりやした。
鬼が腰をまげて、にわとりに手をのばしやした。二本の指で、にわとりをつまんで、にわとりは飛べやしませんから、あんな高いところにのぼったことはないでしょう、あわれなくらいに鳴きさけんで、
こけ、こけ、こけ、こけ、こけっこ
鳴きさけびながら、ふたをとった鍋みていに大きくあいた、鬼の口のなかに落ちていったのでありやす。
七兵衛さん、足腰立たなくなるくらいにふるえて、まっさおになっておりやした」
「おまえたちは、よく逃げなかったな。えらいぞ」
「へえ。こいつが、腰ぬかして、逃げようにも逃げれんかったのでありやす」
「うそだい、うそだい。自分のほうこそ、小便もらしておったくせしてからに」
「もらしてなどおらぬ」
「もらしてたよお」
「もらしてなどおらぬ」
「もらしてた、もらしてた」
「もらしてなどおらぬ」
しばらく、姉と弟が言い合っていました。
やっと、つかれて、ふたりともなにがなんだか分からない、なにを言い合っていたのか忘れたころ、
「そうして、鬼は、村じゅうの食いものを食ってしまったのだな」
男が、さっきの話にもどしました。
姉は、少してれたように、そそくさとすわりなおし、ごほん、ごほん、と、せきばらいをします。
「そうなのです。村じゅうの食いものを食ってしまったのでありやす。
鬼は、あぐらをかいて、ぼおっとしておりやした。あたりには、鳥の羽根やら、米つぶやら、だしの汁やら、食いちらかしておりやした。
おずおず、庄屋さんが、鬼の前に出てきやした。
(あのう、そのう)
(なんだ)
(ご満足、いただけたでしょうか)
(そうだな)
(へへへ。そりゃあ)
(満足はしておらんぞ)
(えっ。そりゃあ、まだ、食いたりないとおっしゃる)
(おれは、食いもののために山をおりてきたのではない)
(へえ、さようで。それでは)
(嫁をさがしにきたのだ)
庄屋さんが、こっちを振り返って、みんながざわざわしやした。
それから、鬼を田んぼに待たせて、庄屋さんの家で寄り合いがはじまったのでありやす」
「いいぞ、いいぞ。分かってきた」
「ありがとございやす」
「誰を鬼の嫁にさしだすか、話し合ったのだな」
「へえ。そうでありやす」
「なるほど。分かってきた、分かってきた。つづけてくれ」
「若い娘はかわいそうじゃから、年寄りでもやっておけばいいじゃないか、と、若い衆が言っておりやした。
いや、それでは、鬼さまに無礼だ。きっと怒って、村がつぶされるにちがいない、と、庄屋さんがあわててなだめやした。
(若い娘か)
(そうだ。若い娘でなくてはならん)
(かわいそうに)
(どうやって決める)
(鬼の嫁になりたい娘など、おるかな)
(おるわけがない)
(ふむ。こまったな)
わしら、大人たちが話し合っておるのを、すみっこでずっと見ておりやした。そうして、すみっこで、
(なんじゃろうな)
(なんじゃろうな)
(鬼かあ)
(うん)
(鬼はどこから来たんじゃろうなあ)
(山)
(山か。そんなことを言うておったな)
(うん)
(どうして、山からおりてきたんじゃろうなあ)
(嫁っこ)
(そうじゃなあ。嫁っこほしいから、鬼は山からおりてきたんじゃな)
(うん)
(どうして、鬼は、嫁っこがほしくなったんじゃろうなあ)
(知らん)
(あんな鬼が、山におったのじゃなあ。どこにかくれておったのじゃろう。どこに住んで、寝て、起きて、めしを食うて、また寝て、くらしておったんじゃろう。鬼も子供の鬼がおるのじゃろうか。なにをして遊ぶんじゃろうか。鬼はたのしいんじゃろうか)
(ううん)
弟は、考えこんでしまいやした。
そのうち、大人たちの話は、だんだんまとまってきたようでありやした。
(しかたない)
(それしかない)
(あたったものには気の毒だが、しかたない)
はあ、と、みんなそろって、ため息をつきやした。魂がぬけそうな、大きな、なまあたたかい、大きな、大きな、ため息でありました。
それから、それから、それから」
「どうした」
「かかさま」
「なるほど。かかさまが、鬼の嫁になったというわけか」
「うん。そう」
「くじでもつくったのかな」
「うん。そう。お寺から、おしょうさん呼んで、村の女の名前をな、書いてもらったのでありやす。誰も字を書けんもんでな。年ごろの女は、みんな、紙に名前を書かれてしもうたのです。
そで。
あさ。
いわ。
きく。
りゅう。
りん。
ひとり、ひとり、あがった村の女は、みんな若い、みんなびんぼうじゃが、祭りのときは、それでも着飾って、ああ、きれいじゃなあ、と思いやす。わしも、あんなふうになるのかなあ、とわくわくしておりやした。
名前といっしょに、目の先に、ちらちら、女どもの姿が浮かびやす。
おしょうさんが、筆をのたくらかして、にょろにょろ字を書きやす。蛇が泳いで、鰻がねぼけて、なにがなにやら分からんかったのでありやすが、それが字だ、と思うと、なにやらすごそうな気がしてきやす。
かかさまの名前が、呼ばれやした。
ぎょっとしやしたが、かかさま、まだ二十二であります。若いのでありやす。ととさまが死んだから、だから、かかさまも、くじのなかに入らなけりゃいかんのは、そうじゃろうなあと思いやした。
ごそごそ、かごのなかに、紙をまとめてほうりこみやした。ひとりずつ、腕をつっこんで、かきまわしやした。
千枚どおしみたいな、長い針を持って、おしょうさんが、ぐさり、紙のなかにつきたてやす。
(はじめにささった紙、この、かさなったなかで一番上の名前じゃな)
と、五枚くらいささっておったのをとって、一番上の一枚を、おしょうさんが鼻の先に持ってきやした。
ちらり、と、わしらのほうを見て、顔をくしゃっとにぎりつぶして、変な、泣きそうな目をしやした。
ああ、ひょっとすると、ひょっとするぞ。わしは、きっとそういうことなんじゃろうなあ、と思いやした。
おしょうさんの口から、かかさまの名前が、読みあげられたのでありやす。
紙をこっちに裏返して、わしらに見せやしたが、字を知らんから、分からんものは分からんです。が、ちゃんと、かかさまの名前が書かれたとき、覚えておかなけりゃと思うて、何度も蛇と鰻を床になぞっておりやしたから、ああ、うそじゃないなあ、と思いやした。
弟が、泣きだしやした」