「それで。それで、どうした」
母親をおしのけて、鬼が、四人目のおばあさんにつめよりました。
「それで、鬼は、山のなかを、さまよう。もう、けものたちの気配も、鬼にはこわくなかった。なるほど、狼、山犬、猿、蛇、みんな、鬼がこわがる前に、鬼をこわがって逃げていくのでした。
まっ暗になりました。
月の光もとどきません。
鬼は、考えるのをやめていました。ただ、ただ、さまよっていました。
「どこへ行くのですか」
木々のすきまから、白い光がさしていました。やっと、鬼は足をとめました。
「どこでもない」
「あなたは、誰ですか」
「誰でもないようだ。あんたは」
「わたしは」
と、白い光は、もう鬼の鼻の先にいて、だんだん、かたちをとりはじめました。女のようでした。
「わたしは、あなたの妹です」
「なに。妹だと」
「そうです。もしかしたら、生まれていたかもしれない、あなたの妹です」
光は、羽虫たちが、人の気配にあわてて散っていくように、かすみのように、ひろがって、うすれて、消えていってしまいました。
鬼は、くずれ落ち、膝をついて、胎児のようにまるくなって、すわりこんでしまいました。
「元気そうだね」
やわらかい手が、肩に置かれたような気がしました。
「誰だ」
「かかさまだよ」
「か、かかさま」
「そうだよ。おまえを生んだ、かかさまだよ。もしかしたら、おまえが立派な大人になるのを、ずっと見守っていることができたかもしれない、かかさまだよ」
「かかさま。かかさま」
手にふれようとした瞬間、もう、その感触は消えていました。鬼は、あたふたと立ちあがって、きょろきょろしていました。また泣いてしまいそうなのを、こらえているようで、きびしい顔つきは、なぜかかなしそうだったのです。
「ここにいたのか」
声が聞こえました。が、姿はありませんでした。鬼は、すがりつくように、たずねました。
「ここは、どこだ」
「おまえが言っただろう。どこでもないよ」
「助けてくれ」
「助ける。助けるとは、なんだ」
「おれを、もとにもどしてくれ。たのむ」
「もとにとは、なんだ。それがおまえじゃないか。おまえが選んで、そうなった。おまえは、おまえだよ」
「誰だ」
「やはり、おまえだ。おれは、おまえだ」
「なに」
「おまえがうしなってきたもの。もしかしたら、そうであったかもしれない、おまえだよ」
「おまえは、おれ」
「おれは、おまえ」
「おしえてくれ。おまえは、いま、なにをしている」
「妹がいる、かかさまがいる、それに、おれはおれだ。明日、おれはいくさに出る。きっと、手柄を立てるだろう。これから、おれは立派な武将になるだろう」
おおう、おおう、おお、おお、おおう
鬼は、泣きました。
「あなた、なにをしているの」
別の声がしました。女です。
「いや、なんでもない」
「さあ、早く」
「ああ」
「どうかしたのですか。わたしの顔に、なにかついていますか」
「いや、なんでもない」
「ほ、ほ、ほ、ほ。あとでゆっくりごらんにいれます。こんな顔でよろしかったら」
姫の声に似ていました。
ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ
姫は笑っていました。山に響きわたり、どんどん遠ざかっていくようで、林にしみこんでいくようで、やがて、消えていました。
鬼は、顔をあげる前から、もう、ひとりなのだと知っていました。
どれくらいの時間がすぎたでしょう。
また朝がやってきました。
鬼は、さまよいつづけました。
里の人々が、おまいりする、神社があります。もう少し行くと、大きな、大きな木があります。ご神木です。神さまが、この木をめあてに、祭りのたびにおりてこられるのです。そこから先は、誰も、足を踏み入れたことがありません。
何十、何百という蛇が鎌首をもたげて、波をうって、目の前を横切ります。
半分くさったような、骨のような山犬が、吠える、のたうつ、牙をむきます。
見たことも聞いたこともない、手のひらを合わせたような、一尺ばかりの羽のある虫が、耳をかむのです。
木々を、かきわけ、かきわけ、崖につきあたります。見上げるような、絶壁です。
日は、空の一番上で、なにも知らないみたいに、ぎらぎらと、ほがらかに緑を照らしておりました。
ぽっかりと、そこだけ、しつこく夜がつづいているかのように、暗い、まるい、ほら穴がありました。
鬼は、そこをすみかにしようと思いました」
四人目のおばあさんに、鬼が、のしかかるように、さらに、つめよりました。
「それから。それからどうした」
おばあさんは、おほん、とせきばらいをして、つづけました。
「すぐに、鬼は、さみしくなりました。嫁をもらいに、里へおりていきました。
嫁がやってきました。よくできた嫁でした。やさしい女でした。
ある日、鬼とその嫁の住むほら穴に、ひとりの婆アがまよいこみました。その婆アは、休ませてもらった礼に、おもしろいお話を聞かせました。が、婆アは、途中までで、その先を忘れてしまいました。
次の日、ふたり目の婆アが、ほら穴にまよいこみました。その婆アは、休ませてもらった礼に、おもしろいお話を聞かせました。が、婆アは、途中までで、その先を忘れてしまいました。
次の日、三人目の婆アが、ほら穴にまよいこみました。その婆アは、休ませてもらった礼に、おもしろいお話を聞かせました。が、婆アは、途中までで、その先を忘れてしまいました。
次の日、四人目の婆アが、ほら穴にまよいこみました。その婆アは、休ませてもらった礼に、おもしろいお話を聞かせました。
四人目の婆アは、話しつづけます。
お話をここまで聞いたとき、鬼は、やっと、自分がなんなのか、分かりました。
さみしい、さみしい、というあやふやな気持ち、なにがさみしいのかさえあいまいな、胸のうちのもやもやだけを持たされて、鬼は、気がついたら、ほら穴に置き去りにされていたのです。
思い出しました。
鬼は、扇丸という、自分の名前を思い出しました。
「それから。それから、どうなるのだ」
婆アをゆすぶって、鬼は、その先を聞きたがります。
婆アは、
ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ
と、笑いました。
「お話だよ。お話だよ。これは、お話。どんなふうにでも、お話をつくることができる。なんでもできる。おまえが聞きたいお話を、わしは、聞かせてやれる。
たとえば、こんなつづきがある。
婆アは、かぶっていたずきんを、さっと脱ぎ捨てました。
そこにあらわれたのは、しわくちゃの婆アの顔ではありませんでした。つやつやと、たっぷり汁をふくんで、うれたりんごのような、みずみずしい女の子の顔でした。
「鬼、かかさまを返してくれ」
「子供か」
「そうじゃ。かかさまの子供じゃ。お話屋さんにお話をもらって、鬼に聞かせてやったのじゃ。わしと、弟と、かわりばんこに来たのじゃ」
「どうする気だ」
「かかさまを返せ」
「だめだ。また、おれがひとりになってしまう」
「それじゃあ、お話をつづけるぞ」
「なんだと。つづけてみろ。それがどうした」
「おまえを、お話にしてしまうぞ」
鬼は、なぜか、どきりとして、女の子からはなれました。一歩しりぞいた、その足もとは、ぐにゃり、と、ひずんでしまいました。
落ちていくような感覚だけがありました。
まっ暗になりました。
鬼は、目を開けようとしました。しっかりと、見なければならないと思いました。女の子が、鬼をにらんでいました。
その女の子の顔には、見覚えがあるような気がしました。
妹の顔でした。
母親の顔でした。
そして、自分の顔もすけて見えました。
目をまるくして、ほそめて、そのたびに、くるくると誰にでもなってしまいました。
鬼は、はじめからやりなおしたい、と思いました。お話のなかだから、なんでもできるのだと思いました。
ああ、人に、かぎりはないのだ。
やりなおそう。
しかし、時間をもとにもどしたりすることではないような気がしました。
すでに、いまここが、すべてでした。
見たいものが見えました。
聞きたいものが聞こえました。
会いたい人に会えます。
ここにいる自分が、すべての自分でした。どれかひとつではありませんでした。なにも選ばなくていいのです。
生まれた瞬間の自分がいました。
それを見ているのは、死んでいく自分でした。
なにをしよう、と、鬼は思いました。
なんでもできる、ということは、なにもしなくていいのだとも思いました。
鬼は、その心を入れるうつわが、どこにあるのか見うしないました。
鬼は、いまここに、本当にいるのか、分からなくなってしまいました。このまま消えてしまったほうがいい、と、思いました。
が、やはり、ここにいたい、と、思いました。
鬼は、いま、自分で自分を語りはじめました。
「夏のことでございました。今年の夏のように、暑い、暑い、夏でした。
山のなかの、小さなお城で、
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ
元気な泣き声が、響きました。男の子でした。みんな、ひどくよろこびました。殿さまのはじめての子供で、それも男の子。お城のなかは、お祭りのようでした。
小さなお城で、城下もこぢんまりとしたものではありましたが、まわりをかこむ山はゆたかで、いろいろなものを人々にあたえてくれました。やがて、城下にも、ご出生のよろこびはつたわりました。
笛を鳴らします。
たいこをたたきます。
じりじりと蒸し暑い、その夏のうさをはらそうとでもするように、おどりまわって、練り歩いて、人々はうかれています。
酒を飲む。
大声で歌う。
三日三晩、城下は、めちゃくちゃなさわぎです。ひとしきりさわぎが終わっても、往来ですれちがう顔、あいさつをかわす顔、みんな、どこか、しあわせそうにほほえんでいるのでありました。
その子は、扇丸、と名付けられ、すこやかに育っていきました」
お話のなかの鬼と、お話をする鬼と、お話を聞く鬼は、しっぽをかんでぐるりと輪をつくる蛇たちのように、手をとりあって、まるく、ちいさくなっていって、女の子も、母親も、なにもかもをまきこんで、玉になって、やがてそれは、お話という、ひとつのかたまりになってしまいました。
わしは、落っこちていた、そのお話をたまたま拾ったから、あなたたちにこうして聞かせることができたというわけさ。
これでおしまい。めでたしめでたし」
四人目のおばあさんが、お話を終えました。
日は、空の一番上で、なにも知らないみたいに、ぎらぎらと、ほがらかに緑を照らしておりました。
山のなかです。
じりじり、じりじり、じじじじ、じじじじ
蝉が鳴いていました。
が、こんな山のなかで、その声を耳にしたものなどいません。
ではなぜ、蝉が鳴いていた、と言うことができるのかというと、これがお話だからなのです。
「おしまい」
男は、子供たちの目の前で、ぱん、と手をならしました。姉と弟、ふたりの子供は、夢からさめたように、おどろいて、すわったまま、ぴょん、と飛びあがりました。
「ふわあ」
「ふわあ」
「おもしろかったか」
「う、うん」
「うん」
「よく分からなかったか」
「う、うん」
「うん」
「は、は、は。まあいい。これで、本当におしまい。さあ、おれは、そろそろおいとましよう。休ませてくれて、すまなかったな。ありがとう」
男が立ちました。
それを追いかけるように、
「まあ。なにもおかまいできませんで」
母親が、戸口で男を引きとめて、しきりに頭をさげます。
「なに。休ませてもらったお礼です」
「そうですか。すみません。お話屋さん、なのでしょう。なにも出さずにすましては。子供たちがねだるものだから」
「いや。本当にいいのです」
と、そのとき、姉と弟が、母親の腰にだきつきました。
「かかさま」
「かかさま」
「なんだい。どうしたの。ほら、おまえたちもお礼を言って」
「かかさま、帰ってきたのか。鬼のところから、逃げてきたのか」
「かかさま、だいじょうぶか。だいじょうぶか」
「あら。この子たちは、なにを言っているのかしらねえ。鬼なんていないよ。おかしいねえ。それは、お話だったじゃないか。本当とお話をごっちゃにして。おかしいねえ」
「かかさま」
「かかさま」
「まあまあ。泣きだしたよ。かかさまは、ずっとここにいるよ。心配しなくていい。ほら。あれは、お話だっただろう。ねえ」
つつり、つつり、つつり
男は、里のほうへ、てくてく歩いていました。祭りの、にぎやかな気配が、もう、すぐそこです。どんどん、ぴいぴい、おはやしの稽古でもしているのでしょう。
男は、にしめたような、ぼろぼろのきんちゃくをとりだして、手のなかでもてあそんでいました。
「これでまた、お話がひとつ」
なんだか、うれしそうにつぶやいて、
つつり、つつり、つつり
口を鳴らしながら、てくてく歩いていくのでした。