都会の人は冷たいという考えはどこから来るのでしょうか。田舎の人が温かいといわれるのはなぜなんでしょうか。
アメリカに来てテキサスの友達と話していても、ニューヨークの人たちはMean(競争社会で生きるために人々の態度のようなもの、意地悪)で寛容でないと聞きます。
私はその要因の一つが気づかいにあると考えています。気づかいというのは、おそらく人間だけができる素晴らしい文化です。
一般的に、資本主義では金銭的価値を求めて競争し、社会主義では地位を求めて競争します。都会での生活は競争で成り立っているというのは真実でしょう。それらが最も顕著に表れるのが都会と言ってもよいからです。
都会といえば、先進的というイメージがつきます。効率的、テクノロジーというのも田舎と比較した時に湧いてくるイメージでしょう。
先進性や効率、テクノロジーを重視するということが、気づかいを自然と淘汰しこれまでの発展があったように思えます。
気づかいを、これらの概念と相容れるものにすることはできないのでしょうか。私はそれができるのが、ブロックチェーンだと考えています。とくに、ブロックチェーンによって形成されるトークンエコノミーが今のところ一番近いモデルのように思います。
要するに、何らかの報酬をインセンティブとして、気づかいを推奨するトークンエコノミーが成り立てば、人々が他人を気づかう動機が生まれ、進んで行うようになるのではないか。
報酬を求めないから気づかいと言うんだ、といわれればその通りかもしれません。報酬をもらうためにボランティアに参加しているなんて、ばかげていると。
緊急事態におけるボランティア、例えば被災者に対する支援などは、人の生命の自由を保障するためで無償で行われるべきでしょう。
しかし、重要度の低いボランティアはどうでしょうか。例えば、好きなアーティストの投稿した動画を別の言語に翻訳するという行為。誰かが翻訳して投稿するから世界中の人に利用してもらえるようになります。
まさに気づかいの概念に近づいてきますよね。
たしかに、対面での気づかいに対して報酬をもらうことには、気が引ける思いがするのはあると思います。日本人ならなおさら報酬をもらうために気づかいをするのに抵抗を感じるでしょう。
ですが上記の動画翻訳の例のように、デジタルな場所での匿名的な貢献とトークンエコノミーは相性がいいです。
また正直なところ、対面についてもこのようなエコノミー不在による気づかい総数の減少よりも、多少抵抗ありきでも気づかいの総数が増えるほうが、結果的に良い方向に進むのではないかとも考えています。
ちょっとした思考の吐露でした。
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