小説でもAVでも寝取られ物というのがある。
その本質についの考察をメモする。
たとえば、妻を寝取られるという筋によって、妻が女そのものとなる瞬間。
このときに、夫はその女そのものになる能力に嫉妬しつつこの上なく「感ジル」。
大事なことはそのエッセンスとして起こっていること、すなわち、名前や役割や肩書きを離れて女そのものになるという飛翔は、寝取られなくても起こるということだと思う。
つまり、自分とパートナーがセックスしているとき、その絶頂において、パートナーが関係性を越えた絶対領域にまで昇りつめる。
このとき、パートナーは自分と関係を結んでいる特定の個人を越えて、女そのものになる。
そのとき、女そのものになれるその能力に、男は「嫉妬」に似たものさえ感じる。
しかし、だからこそ自分も男そのものとなって、突き抜けた絶頂に逝く。
これは第三者が介在しなくても起こること。
ただそれが二人だけで起こっているとき、それはストーリーではなく、詩である。
もし、その詩を書くことがうまくいかなければ、女そのものとなるというシチュエーションを設定したストーリーが必要になってしまう。
このときのひとつの安易な設定が寝取られ物なのだ。
しかし、これには生半可でない伝統もある。
D・H・ロレンスも書いているし、韓国現代小説集にも人の生死や戦争や政治をテーマにした重厚な作品に並んでそういう作品があった。
けれども、忘れてはならないのは、そのエッセンスは本当はポエジーであって、シチュエーションではないということだと思う。