・ 『古事記』神話における男性神支配
『古事記』は、国家宗教の権威を確立するための書物とは言え、そこには部族シャーマニズムの何がしかの片鱗が反映されているとも考えられる。
今、聖なる表象の性格という側面から考える時、まず着目されるのは、皇祖とされるアマテラスが女神である点である。
すなわち『古事記』神話は、農耕社会の豊穣の女神が、王権の源であるという形を取っているのである。
このことは、先住民の神が、王権を正当化する装置の一部に組み入れられたことを意味している。
だが、これを以って『古事記』神話がシャーマニズム文化の古層を生かし女性原理を重んじた、優れた性格のものであると結論づけるのは早計である。
実はここには、入り組んだ形で隠蔽された男性中心の王権主義がある。
『古事記』冒頭より概観してみよう。
『古事記』冒頭には、独り神の系譜の後に、イザナギ(男性神)、イザナミ(女性神)の二神が交わることを通じて成し遂げる国生みの神話がある。
ところがその際、まず初めに女性神のイザナミが先に声をかけて交わった結果、蛭子が誕生したので葦船に乗せて流すというくだりがある。
この部分は、この島で書かれた書物の中で、最初に男性優位の思想が示された個所でもあり、同時に最初の障害者殺害の叙述ともなっている。
『古事記』が、男性優位思想と障害者差別から始まっていることは、非常に象徴的である。この二点は、国家が軍事的な性格を強める際に、くり返し強まる性格を持っている。明治以降の大日本帝国もそうであったが、ナチスドイツの優勢思想に基づく障害者大量虐殺もその最たるものであった。
だが、このあと、男女二神は協力して島々を生んでいく。さらに国土誕生の後は、水や風や、山や野や穀物に関する神を生んでいく。このように自然の諸力を誕生させていく場面においては、男女二神はとにもかくにも協同している。この場面は、性の豊饒性に対する崇敬を核としたシャーマニックな古層が生かされた場面である。
ところが、女神であるイザナミは、火の神を産んだことが原因となって死んでしまう。火という強力な象徴的存在と女神の死が繋がっていることは示唆的である。
イザナギは火の神を剣で切り殺してしまい、その血からまたたくさんの神が誕生する。
ここで剣で切り殺すという、神の軍事的な性格が初めて現れる。ここには、国土と自然の諸力を生んでいく際の、穏やかな風は消えうせて、怒りや嘆きが支配する、別の世界が展開しているようである。
悲痛な思いに苛まれたイザナギは、イザナミに一目会おうと、黄泉の国を訪れる。シャーマニックな冥界への旅を思わせる場面である。
しかし、イザナギは、約束を破ってイザナミの姿を見てしまい、イザナミに追われて地上世界に逃げ帰る。
そして黄泉の世界でのケガレを身禊する際に、数々の神が誕生するのだが、その中に王権に繋がる三貴子、アマテラス、スサノオ、ツクヨミが含まれるわけである。
つまり、国土や自然の諸力は、男女二神の交わりと協同の中から生まれるのだが、王権につながる三貴神は、男性神が独りで生み出すのである。
ここには、重要な思想が、期せずして正直に語られている。
すなわち国土や自然の諸力を生み出す原理は両性の交わりの豊饒性であるが、王権を生み出すのは男性神の単独の力であることが、明らかにされているのである。
しかし、この三貴神の中に女神アマテラスが含まれる。
そしてやがてアマテラスの直系であるオシホミミ、ニニギが、天孫降臨する。
このようにして、日本神話は、アマテラスという豊穣の女神が王権の源であると語るわけである。
つまりまたしても女神という表象や、自然の豊饒性の原理が、ここに混入されている。何層にも渡ってその原理を統合していこうとするこの神話の構造は、まことに興味深いものである。
だが、ここには非常によくできた「すり替え」のプロセスがある。
実のところ、オシホミミ、ニニギは、アマテラスの直系ではなく、軍神スサノオの直系だとも言える存在である。
なぜなら、スサノオが「アマテラスの左の髪にまいておいた勾玉のたくさんついていた玉の緒を請けて、天の真名井の水にそそいで噛みに噛んで吹きすてる息の霧の中から現れた神」(『古事記』)がオシホミミであるからである。
それをアマテラスの直系であるとするのは、アマテラスが「私の身につけた玉によって現れたのですから、私の子です」と言いくるめたからにほかならない。
その点を見ていくとき、国家宗教の典型的な聖なる表象である征服者としての男性神の権威が、複雑な構造において豊穣の女神の権威にすり替えられて語られていることとなる。
アマテラスはもともと天孫ではなく、土着の豊穣の女神の信仰を表す「聖なる表象」であろう。
だから、オシホミミ、ニニギをアマテラスの直系だと言いくるめることは、あたかも外来の王権の根拠が、土着の女神にあると言いくるめるという意味を持つのである。
このようにして、『古事記』の国家神話は、土着の豊穣の女神の力を巧みに取り入れながら、外来の王権を正統化していった。
その後、アマテラスは敬して遠ざけられ、伊勢に祀られる。こうしてアマテラスとそれに仕える巫女は、天皇中心主義の補完装置として、完成するのである。