2016年1月17日
「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」蓮池透 読了。
この問題には関心があった。
小泉の日朝会談のあと、マスコミによる北朝鮮バッシングが始まり、この国は子どもがチマチョゴリで歩けない異常な国になった。
すなわちチマチョゴリの制服が刃物で切られる事件がいくつも起こった。
マスコミの姿勢を問う活動を始めた在日の友人のブログは一日10万アクセスの罵詈雑言でパンク。
舞台は2CHに移り、毎夜深夜まで論戦ともいえない論戦は続き、僕もいくつものハンドルネームで参加していたが、そのうち僕の偽物も現れた。
偽物だと言っても信じる人はいないし、何がなんだからわからなくなってきて、そのうち僕は不思議な酩酊感にとらわれ、はじめてネットの本質を見たと思った。
つまり、すべての発言が僕の深層意識からあふれてくる泡に見え始めて、実際に僕がタイピングしたかどうかは枝葉末節のように感じ始めたのだ。
この酩酊感に陥るまでに2CHにはまったのは、あとにも先にもこのときだけだが、あのとき、見えたことは、ネットの可能性と危険性を余すところなく露呈していたと思う。
僕は誰でもなく、すべての声でもあった。だが、このような内面的な狂気の話はしばらくおいておこう。
本に戻ると、僕は日朝会談以降、しばらくの間、この蓮池透という人が嫌いだったことは告白しておかねばならない。
被害者の気持ちという聖域を盾にして右翼を支援しているではないか。
しかし、なにしろ、そこは聖域だから何もいえないではないか。これほど困った存在はない。
しかし、蓮池透さんは自らを顧み、内省する力をもった人だった。
今ではこの人は、拉致問題という領域に点ったひとつの光だと言ってもいい。
家族会を救う会が乗っ取っていくプロセス、権力闘争やナショナリズムの思惑、そのような有象無象の勢力が、拉致被害を利用する形で力を得ていく様子をこの本は明らかにしている。
蓮池さんはそれへの怒りを、なかんずく、安倍晋三という男が拉致問題を梃子に人びとのナショナルな鬱憤を引き出し、利用する形でのし上がっていったことへの怒りを、この本ではっきりさせている。
それでいて安倍晋三が実際には何もしないこと、抽象的に力強いことを言ったり、制裁だ制裁だといって、人びとのナショナルな気持ちを刺激するだけで、むしろ事態を悪化させていっていることへのこれほどの痛烈な批判はないだろう。
そしてその批判が政治的な思惑からではなく、被害者の家族の立場から発せられている言葉だからこそ、この書物は説得力を持っているのだ。
同じ考えを書くことは、この問題をつきつめて考えている他の人にもできたかもしれない。
しかし、この本は蓮池さんが書くことによってこそ、最も注目を浴び、効力を発することは間違いない。
日朝会談直後の蓮池さんもまたナショナリズムに利用された面について、真剣な反省を内白しているからこそ、この本には嘘のない力があるのだ。
拉致問題の解決とはなにか。
それを定義することが大事だと蓮池さんは言う。
そうでないと北朝鮮はこの問題で無限に攻撃される立場になるという(加害の事実からくる)被害意識からぬけだせない。
(この気持ちは戦争加害者である日本人ならイヤというほどわかるはずだ。)
実際、右派にとっては拉致問題は解決しては困るものであり、北朝鮮批判、日本を戦争のできる国にするために利用しつづけるコマのひとつにすぎないのではないかという指摘は当たっている。
その上で拉致問題を解決することが北朝鮮にも利益になる道筋をつけていくこと。
韓国とは戦後補償の問題は一応終わっていることになっているが、北朝鮮とはそれさえ済んでいないのだ。
さらに、僕自身はその北朝鮮の利益にもなるヴィジョンとは、日本と北朝鮮はじめアジア各国との関係を正常化し(安倍政権は反対の方向に走ろうとしている⇒米国を利するほかには何の意味もない)、東アジアを平和的に発展させ、北朝鮮と中国の独裁政権を軟着陸させ、日本、統一朝鮮、中国、ロシアが仲良くなって、米国の付け入る隙など与えないことではないかと思う。
この本はそんな夢のような話(?)までぜんぶは書いていないが、少なくとも、そのための出発点を描いている、とても誠実な本であると僕は読んだ。
追伸。
北朝鮮への経済制裁経済制裁という勇ましい(?)言葉には、もはや何の意味もない。
日本にはそんな力などない。
北朝鮮はアメリカ、日本、フランス以外のほとんどの国と国交を持ち、レアメタルなどの鉱工業も発展途上にある。
日本がなんぼのもの?