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四十一願根欠についての論争 僕のメモだから読まなくていいよ

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  • あび(abhisheka)
  • 2019/10/23 21:38

2017年10月24日 FACEBOOKより

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あび
初歩的なことを質問してすみませんが、四十八願における「他方国土」とは具体的にいうと、どこのことですか?
なぜ大事かというと、41願は、他方国土に6つの感覚器官のどれかが欠けている人がいるなら、私は悟りを開かないと書いているからです。
他方国土にこの娑婆も入るのなら、障碍者がこの世に存在しないことを願っていることになるので、大問題です。
他方国土とは、他の仏の仏国土なら、そこへ往生した人が皆、6つの感覚器官を具足していることを願うのは、大問題ではなく、考えようによって問題だというレベルだと思います。
他方国土とはどこなのかが問題。

コメント欄

A(真宗僧侶)
本願文を見直さずにいうのですが、他の仏国土なんでないでしょうか?

真宗学教授(メッセ)
法蔵菩薩が建立しようとしている「仏国土」以外の「仏国土」の事だと思います。

あび(メッセ)
ありがとうございます。だとすると、私の国土にというときと、他方国土にというときの区別は何でしょうか?ぜんぶ、すべての仏国土にでよかった気もしますが。

真宗学教授(メッセ)
同じ時間軸において、一つの仏国土に「仏は1人」のみです。仏国土=三千大千世界が沢山(無数に)ある、ということです。
他の仏国土に他の仏は干渉しません(できない)。唯一その原則(干渉出来ない)を超えるのは無量「光」です。
「全ての仏国土」ではなく、「他の仏国土」の菩薩でさえ、という意味合いが強いと思います。

あび
考察します。
この世において、感覚器官が具足しない人が存在することを望まないことは、あるがままの存在に対する差別という意味をもつ。
仏国土なら、感覚器官の具足を願うのは、悪いとは言えない。
この世で見えなかった人が、仏国土で花を見る。
聞こえなかった人が鳥の声を聞く。
しかし、仏国土とは、五感による喜びを越えた世界ではなかったか?
感覚器官なしに、完全なビジョンを見て、完全な音楽を聞く。
逆にいうと、それは空ということでもある。
48願の詳細な検討を僕は自分でしたことがないと改めて意識した。


シュタイナー曰く、仏の魂とキリストのそれは、同一体なんですと。
「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」―――これが一番大事な本です。

あび
その本は学生時代に読みました。
シュタイナーがこう言ったことに、注目してます。
「(なすべきことは)彼岸の世界についての様々な興味深い認識を得ることではなく、存在の永遠の法則に照らして澄明な眼差しをもってこの人生を理解することである。」

T(真宗僧侶)
41願、じっくりよんでみます!言われて気になりました。目から鱗です!


浄土真宗の西本願寺の聖典では、この41願の部分に補註があり、
女人・根欠・五障三従の問題としてかなり長めな註釈がされていました。
過去にどなたかがおなじように注目され、議論されてきたのでしょう。あびさんが問題としてはじめて、注意してよんでわかったことなので、本当に感謝しています。
どんな事が註釈されていたか、まとめますと、
天親菩薩の
浄土論に、浄土は平等のさとりの世界であって、「譏嫌の名なし。女人および根欠(障碍の事)、二乗の種」は存在しない。と説かれている。そうです。
ここであらわされようとされていることは、
浄土には差別の実体はなく、女人や、根欠といった差別的な名すら成り立たない絶対平等の世界であるとあらわされたものである。という事です。
その聖典が成立した当時の社会にあっては、女人や、根欠を卑しいものとみる社会通念が支配的であり。そうした中にあって、仏国の平等性をあらわすことによって、差別の社会通念を破り、差別されていた女人や根欠に救いをもたらそうとした教説である。
(註釈文から大雑把に引用)
親鸞聖人は、『男女老少』をえらばずと、受け止められ、阿弥陀仏の本願は男性も女性も障碍者等も、まったく差別なく、ひとしく救済されるとかんがえられた。
(註釈文から大雑把に引用)
という事です。
当時の社会背景の中で、そういった言葉が使われ差別されていた、それを打ち破るために、その言葉を用いた。という事であると思います。
この註釈では、事実として浄土論に、根欠とかかれているので、その言葉を用いてのべていましたが、
いまの社会背景の中では別の言葉で表すべきだと思います。
ここを語る時には、経典の言葉でかたるのでなく、仏の願意にそって、、いまの社会の差別の現実からそれを打ち破る表現で語る必要があるおもいます。
別のスレで障碍という言葉についての考察を拝見しましたが、あびさんがもたれているそういった問題意識と繋がっていると思います。
かなり雑な解説になってしまったので、機会があれば聖典の補註に目を通してみてください。

M(真宗僧侶)
酔ってます。
厳密には、言えんけど。
他方国土は、22.41.42.43.44.45.47.48に出てきます。他にも、33.34.35.36.37.の十方無量不可思議の諸仏世界の衆生(諸菩薩)も、広い意味で、他方仏国土の衆生になると思います。
論註には、「仏 本 何がゆえぞ この荘厳を起こしたまへる。ある国土をみそなわすに、、、」ということが、度々出てきて、「ある国土」とは、この娑婆のことで、「娑婆ではこういうことがあるので、浄土はそうではない世界にしたい」ということ、と習いました。
そうすると、「他の仏国土」とは、この娑婆のことになります。
この娑婆で、女であること、障碍があること、尊貴の家の出自でないことつまり差別に苦しんでる人たちが、差別のない国に生まれたい、と思った時、私の国には、一切の苦しみはありません、私の国に来てください、ということだと思っています。
長年、戦闘の地に生きる人が、戦争のない国に行きたい、と言う。
日本は二度と戦争をしないという憲法を持つ国です。日本に来たら二度と戦争に巻き込まれる心配はありません、ときっぱりいえるか。
言いたいけれど、今の日本は、危ない。また、戦争を逃れてきた難民を数人しか受け入れていないのが日本。
阿弥陀様の国は、無量の衆生がみな無上正覚の心をお発し、12000那由他の人が清浄法眼を得、22億の天人人民が阿那含果を得、80万の比丘が漏尽通を得、40億の菩薩が不退転を得る。
どんだけの難民ごいても、ゼーーーーンブ受け入れるのが阿弥陀様の国。
しかも、そこに来る前に、男ったとか女だったとか、人だったか、天人だったか、虫だったか問われない、
そんな風に頂いています。

あび
TさんとMさんの調べたこと、聞いていることでは、他方国土は娑婆ですね。
で、41願は、私の国土に根欠があるなら悟りを開かないと言っているのではなく、他方国土に根欠があるなら悟りを開かないと言っているのだから
そんじゃあ、娑婆に根欠があるなら悟りを開かないと言っていることになりませんか。
じゃあ、娑婆に根欠があるんやから、まだ法蔵菩薩は阿弥陀になってまへんで。
それと娑婆に根欠があるのは悪いことじゃないと僕は思います。
ありとあらゆる障碍の中で、いろいろな人々が、それぞれの光を放つのが娑婆なので。


十劫の昔に正覚を得た阿弥陀如来になぜ永劫修行が言われるか、やっぱり、救うべき衆生に終わりがないから、阿弥陀如来は永遠に法蔵菩薩から卒業しないんじゃないかしら。

あび
なるほど!
で、娑婆に障碍があるのは悪いことじゃないという考えはどうしましょ?
他方国土は、他の仏国土と回答してくださった真宗学の教授は間違い???


なくなってしまったら、救うべき衆生がいなくなってしまって、阿弥陀か阿弥陀でなくなる。
七地沈空。

あび
煩悩に関してはそれで納得しないでもないですが、
根欠に関しては、そもそも、娑婆に根欠をなくすべきという考えが差別的ではないかという問題が・・・・。
「私の国土に」なら、そういう思想として受入れられます。
「他方国土=娑婆」にだと、差別性が際立ちます。


お釈迦様は、「そのすごい法蔵菩薩さんは願いを成就され仏となられたんですか?」の問いに、すでに仏となったと答えられているので、本願は成就しています。お釈迦さまが、成就といったのは方便だという見方もありうるでしょうが。
七祖と親鸞聖人の見方にならい、私は成就していると見ます。
根欠が根欠のままで根欠にならない悟りを完成されたのではないですか?

あび
なるほど。
「根欠が根欠のままで根欠にならない悟りを完成されたのではないですか?」
これは大変魅力的な思想ですが、解釈の余地によって意味がよいようにとられるという面が大きすぎるように思わないでもないです。(もともと大乗にはそういう面がありますが。)
文字どおりにとると、やはり根欠はマイナスなことであり、それがなくなってほしいという願いを立てているわけで、根欠のまま根欠とならない悟りとは、どこかに書いているわけではなく、解釈ですよね?
うーーーーーむ。
しかも娑婆で悟るわけではなく、娑婆では正定聚を得るだけで、まだ悟ってはないとすると、根欠のまま根欠とならない悟りが娑婆で開けるわけではないですよね。
阿弥陀から見てそうだということなら、わかるんですが、それならそう書かないと、このままの本願文では、本当に根欠がなくなってほしいと願っていると読むのが、読みとしては素直ですよね。
解釈の広がりで、現代の人権思想の水準に合わせているだけのように見えるのは、僕だけ?


「娑婆に根欠をなくすべき」というのが、そもそも差別、ということは、その通りです。
女であること、障碍があること、尊貴の出自でないことが「苦」であることが、前提です。
そもそもそれが、、、、と言われれば、それが、時代の限界でしょう。
そこを、どう乗り越えるか、あくまで、仏教徒として、乗り越えたい、と私は思っていますし、僧侶でも門徒でもないあびさんなら、「お経」には限界がある、とおっしゃってもいいと思います。
私はよう言いませんけど。
38願には、染めたり、縫い直したり、洗濯したりしなくていい、ということが誓われます。
染物や裁縫や洗濯などが下位カーストであったから、と言われています。
今の私たちがきいても、それを「苦」とは思いません。
苦とは何か、何を苦とするか、という根源的問題になります。
そもそも、障碍は「苦」か⁈


あび
38願は私の仏国土ですね。
娑婆では裁縫、染め物、洗濯があっていいのね?
この私の仏国土と他方国土の使い分けもわからないです。
そして他方国土が娑婆のことか、他の仏国土のことかも今回の質問へのコメントやメッセの中で、僧侶や仏教学者の中でも一致を見ていません。
どこから手をつけたらいいのか、わからなくなりますがな。
「そもそも、障碍は「苦」か⁈」
障碍という言葉でくくるなら、そもそも時空の制限の中で生老病死することが障碍であって、その反意語が無碍だと思います。
僕は「臨死体験であの世がわかった著者が訳した 超簡単訳 歎異抄・般若心経」のはじめに「私の臨死体験より」にこう書きました。
「澄み渡った融通無碍なる覚醒だけのその世界に私は何の不満もありませんでした。いや、そこには私という意識すらありませんでした。
しかし、この世に戻ってきてから考えると、その世界は何の物質的な障碍もないがゆえに何ものにも具体的に働きかけることのできない世界です。」(引用終わり)
つまり、障碍がないと無碍のままでは時空の中に生老病死できないし、何もできないということです。(^_^;


解脱の光輪きはもなし
光触かふるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ  
ーーーーーーーーーーー
さとりの光にはしっこはない。
光にてらされるものは、  
有るも超えるし無いも超えるし、有る無しも超えるぜ。
そんな平等の悟りを帰命しよう。
(乱暴訳もうしわけありません)
親鸞さんの言葉です。
「根欠が根欠のままで根欠にならない悟りを完成されたのじゃない?」
は魅力的だが、ただの解釈じゃない?
とありました。そうかもしれません。
古来より阿弥陀様のお経にはさまざま解釈が、されています。
無量寿経の話からずれてしまいますが、
中国では観無量寿経の研究が流行りました。
有名な仏教学の大家の慧遠さん、や天台大師智顗、名だかい仏教の指導者の方々も、観無量寿経を読まれ註釈されました。
そのみかたは、阿弥陀仏の極楽浄土へいく行法は定善や散善等のむずかしい精神修行を修していって立派になっていくこと。
というような事である。と見ました。
観無量寿経を普通に読んだらたしかにそう見えます。
しかし、その見方は間違いだ。という、ぶっとんだ見方をする人があらわれました。
善導大師とよばれる方です。
善導大師は当時あたりまえとしていた、いままでの見方を間違っている。とされました。
観無量寿経は、むずかしい修行ができる聖者の為に解いたのではなく。お釈迦様がそんな修行ができない一切の凡夫の為に称名念仏をすすめられているお経である。と見られました。
こんな見方はそれまでの人からいわせれば、拡大解釈なんです。ありえない、へんな見方なんです。
しかし、その善導さんの言葉にあい、一切の衆生が救われていく仏道をみていかれたのが、
法然聖人です。その著述に、ひとえに善導に依る。というような言葉がでてきます。善導さん以外の中国仏教の指導者や仏教学の大家の見方はとらないぜ。という事です。
私は立場上、親鸞聖人が真実とよろこばれた見方を宗とさせてもらっています。それは、ほかの見方からいうと、拡大解釈にしかみえないのかもしれません。けれども法然聖人や親鸞聖人がみていかれた、阿弥陀観、や、浄土観は、めちゃくちゃ魅力的です。大好きです。
そして、親鸞さんや法然さんは、釈迦の本意はこの見方だ。と力強くおっしゃっています。(どうみればそれが成り立つのかという論証は、著述で論理的に説明されています。)
私が私なりに経を読むと、それなりにいろいろありますが、法然聖人などの七祖を通して、親鸞聖人を通して広がる世界はすごいです。
時代を超えて親鸞聖人や法然聖人が多くの方から宗祖と慕われているのはそういった理由があるからです。
これは私の立場で本気で思ってることです。
あびさんがそういったあるいみしがらみというか、教学的な歴史を抜きに、あびさんの問題意識をもってよまれてどんな研究をされ、結果、無量寿経や41願はどんなお経で、どんな願いとみていかれるかも興味があります。

あび
「解脱の光輪きはもなし
光触かふるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ 」 
ここは、私の『浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本』では
「解放された光の輪は無限に広がりつづける
その光に触れるものはすべて
有限な時空を超えていく
おお、あらゆるものを等しく解放する目覚めよ」
となっています。(^0^)
去年、書いて、今読むともう推敲したくなりますが。
ところでおっしゃることは、僕も修士まで6年間仏教学を学んでいた間、真宗学を無視していたわけではないので、わかります。
しかし、少なくとも
「根欠が根欠のままで根欠にならない悟りを完成されたのじゃない?」
ということに該当する親鸞の言葉を引用したとき
おっしゃっていることと整合性があると思うんです。
あれば、提示をお願いしたいんです。
もしないなら、
現代の人権思想の水準に合わせて現在の教学において拡大解釈したものであって、
それは現代の人権思想なのであって、
(親鸞までの経典の拡大解釈も含めた)真宗の教えではないと言えるのではないかと思うのですが・・・。


それはやはり、言葉の限界と時代の限界の部分が生まれてきます。
蓮如聖人の御文章は、当時の社会背景の中で当時の人に向けて言葉をかたられましたが、
そのなかに、現代の人権思想でみれば差別と見える言葉がみえてくることがあります。
現代の人権思想をもって、蓮如さんをみて、蓮如さんは差別をした人だ。というと、、、(現代の人権思想からみると、当時はここまでしかいえなかった。という見方はたつかと思います。) 
蓮如さんが差別を超えることが本意でその時代でその言葉を使っているなら、蓮如さんの用いられている言葉は差別じゃないし、
現代の人権意識で差別と見える言葉は実は差別じゃないから、現代の意識で差別と見えるまま語っていいか?
というと違うと思います。親鸞聖人は自らの事を愚禿となのられましたが、俺ハゲーとおっしゃってる訳ではありません。
過去から紡がれた言葉から、その言葉があらわそうとしている思いを読みとり、その思いを現代の言葉で語る必要があると思います。
これは上で引用している補注の女人往生の部分でもでてきましたが。(釈迦の時代ではあたりまえだった女人の悟りが、後に差別的な見方がはいり、女人は悟れないという見方がとりこまれていった、それにたいし、大乗仏教の教説ではうんぬん、かんぬん)
後の人が後の人の人権意識で、私の事を差別と論じるかもしれませんが、、私は私の時代背景の中でしか言葉を使えないので。

あび
いろいろ真剣に考察してくださってありがとうございます。
ひとつ、僧侶の方と僕とでは立場が違う。
真宗の文献や思想が差別的であっても、僕は困らない。
そのまま見て、自分はこう思うと言うだけの話。
真宗僧侶だとどうしてもどこかでバイアスがかかり、これはこう解釈することで差別ではなくなるのだからこれでいいのだという道筋がないものだろうかと、できる限りは考えてみるということがあると思います。
でも、とにかく僕は自由なので、その後の教学や戦時教学や蓮如や今の教学などに欠陥があっても自分は困らないし、最終的には親鸞や仏教に欠陥があっても困らない立場なのです。
自分はこう思うと言えばいいだけなのです。そのことは「よくも悪くも」立場の違いとして、意識しております。(^_^;

M
一闡提」の意味での「根欠」と、41願の「諸根闕陋」と、今まで別々に考えていたのですが、どうなんでしょう。

あび
「一闡提」って仏性とか信が欠けているという意味で、41願のは普通に感覚器官が欠けているという意味じゃないんですか?


今までそう解釈しているんですが、どちらも漢訳は「根欠」なんです。
天親の浄土論(往生論)の「女人及根欠二乗種不生」は両方含む解釈をしています。
浄土論が大経の論なら、41願と解釈が違うのはおかしいし、、、。考えてみなくてはなりません。
今まで当たり前に聞いてきたことを、どうなんだ、と問い返されるのは、ほんまにありがたいことです。

あび
うーむ。
僕にしてみれば、どこまで仏教に沿って、はっきりさせるかは僕の自由です。
それがややこしい回り道になりそうなら、スルーして、
直接、自分の考えを追求することも、選択の余地があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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10代より世界放浪。様々なグルと瞑想体験を重ねる。53歳で臨死体験。31年の教員生活を経て現在は専業作家。https://note.mu/abhisheka

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