考えてみれば、谷川俊太郎の若いころの詩は、
学生時代からいっぱい読んでいるけど、
晩年といえる時期のはそれほど読んだとは言えない。
僕はたぶん自分が大人の本を読むようになってからの
同時代の日本語の書き手としては、
小説家としては宮本輝
詩人としては谷川俊太郎を一番愛読してきたと思う。
だからその違いはよくわかるのだけど、
宮本輝には生死を超えていくポエジーが確実にあるけれども
この世の泥にまみれた娑婆の描写が必ずつきまとって
若いときはそれがちょっとめんどくさくて
このポエジーのところだけでいいんだけど・・・と感じていた。
だから短編の「星々の悲しみ」が一番好きだったと言えるのかもしれない。
中編の「錦繍」でさえ、後半の商売に精を出す部分がなくてもいい気がしていた。
だけど、自分が年老いてやっと
その一瞬のポエジーのための膨大な娑婆の描写が小説というものなんだと
諦める?に至った。
ところで谷川俊太郎はというと
その同じことを年老いてからの詩集で言っている。
だけど、その娑婆を書くことにエネルギーをけっしてそそがないんだ。
ただ、自分は詩人だから、その娑婆を飛ばしてしまっていると自省する。
自白する。
ひさかたに、ふと谷川の詩を読んでみたくなって
「世間知らズ」(象徴的な題名だなあ。娑婆知らズという意味だとも思った)
という還暦前後の頃の詩集を開いたら(今は90前で現役詩人だから、すごいなあ)
どんな詩が並んでいたかというと、
自分は詩を書いている、娑婆のことはスルーしている、これでいいんだろうか、と
そんな詩ばかり並んでいて面食らった。
しかも、殆どの詩は最初の一連と最後の一連を読むと
そのことをモチーフにしていることがわかり、
その間に何がサンドイッチされていようと、結局は同じことではないかと思えたのだ。
たとえば、「紙飛行機」は
たとえ満足のいくものでなくてもいくつかの言葉が
何もない所から化合物のように形を成してくると僕は落ち着く
ではじまり、
だがそれが夫婦喧嘩の悪口雑言よりも上等だという保証はないのだ
詩は何ひとつ約束しないから
それはただ垣間見せるだけだから
世界と僕らとのあり得ない和解の幻を
で終わる。
「いつ立ち去ってもいい場所」は
何をしに来たかもはっきりせずにぼくはここへやって来て
で始まり
ここがいつ立ち去ってもいい場所のように思えることがある
で終わる。
その間に娑婆の話が書いてあることは書いてある。
でも僕は読むには読むが、読んだ尻から忘れてしまう。
僕にはその間は真っ白なのだ。
真っ白を味わうために読んでいるようなものだ。
谷川はその間に言葉を書いているが、
たぶん、それが真っ白になってしまうことを知っていて書いている。
自由な遊びだなあ。
宮本輝はその間のことを、つまり娑婆のことをこれでもかというぐらい書いている。
それを這いずり回るようにして書ききらないと、真っ白なポエジーに、生死を超えた世界に飛ばないのだ。
だけど、宮本のどの作品にも僕は生死を超えたポエジーを感じる。
で、どっちかというと、僕は、谷川俊太郎はいいなあとか、ちょっとズルいかもとか思う。
谷川俊太郎のような詩を書いているだけで生きていけるなら、その方がいいなあと思う。
でも宮本輝は娑婆のことを書きたかったんだ。
僕が学生の頃、デビューした彼は、もう40年以上書き続けている。
サザンオールスターズと同じぐらい長きにわたり、なんとたくさんの小説を書いてきたことか。
彼は書きたくて書いたんだから、彼も谷川も同じぐらい幸せなんだという気がする。
そして結局、宮本輝の小説も、谷川俊太郎の詩と同じように、生死を超えたポエジーの瞬間を見つけるために僕は読みふける。
たぶん、サーファーが完全に波に乗り、自分の心身など消えてしまった瞬間のために波に乗り続けるのと同じだと思う。
さて、どうしよう。
もう僕は詩だけでいいんだろうか。
それとも娑婆のことを小説に書きたいんだろうか。
自分でも時々、わからなくなりながら、谷川俊太郎と宮本輝を読んでいる。