今回は、ちと禅問答(?)など。 大悟した弟子が、いまだ覚醒せざる師匠に尋ねた。「お師匠さま、瞑想をしているとき、タバコを吸コってもかまいませんか」
師匠は応えた。「バ力を言ってはいけない。瞑想しているときは、タバコなど吸わず瞑想に集中しなさい」
「では、瞑想しているとき、食事してもかまいませんか」
「バ力を言うな。曝想に集中しなさい」
「では、瞑想しているとき、愛するパートナーと喧嘩してもかまいませんか」
「そんなこともってのほかだ。最悪だ。瞑想に集中しなさい」
この問答にて、弟子は師匠がいまだ悟りを開いておらぬことを確信した。
そこで翌日、弟子は今度は次のように質問した。
「お師匠さま、タバコを吸っているときに瞑想してもかまいませんか」
師匠はしばし沈思黙考した後、応えた。
「タバコを吸うという体験すら、完全に醒めて、観て、味わえば、それは瞑想になる。タバコを吸っているときも瞑想しなさい」
弟子は重ねて尋ねた。
「食事しているとき、瞑想してもかまいませんか」
師匠は初めて気がついた。自分が食事しているとき、その繊細な体験のすべてを珠わい、気づき、観るといっことを怠っていたことを。
だが、師匠は威厳を失わないように気をつけ、さも以前より知っていたかのように応えた。
「もちろんだ。食べるという、究極の融合体験を通じても、深く瞑想しなさい。精進料理はそのためにある」
食物を収穫し、料理し、そして食べるという過程のすべてに完全に醒めているということ。それが「食べる瞑想」だ。
素材を活かしたおいしい食物は、 味覚の微細な覚醒をより深く目覚めさせ、私たちはあまりにも深い歓びを覚える。しかし、その味に執着せず、その味わいが舌の上で静かにフェードアウトしていくにまかせる。
こうしてひとつの味が虚空の中へ消え去ったとき、おもむろに次の小鉢に箸を進める。・・・僕はそのようにして食べるのが好きだ。
さて、弟子はとどめの質問を師匠に差し出した。
「では、お師匠さま。 愛するパートナーと喧嘩しているときに瞑想してはいけませんか」
師匠は、はっと気づいて赤くなり、 青くなり、それから師匠の座を降りて、弟子にその座を譲ろうとした。
弟子はその座に座ることを拒み、「寺を辞して、裟婆に帰る」と言った。 愛するパートナーと喧嘩しているときも、そのプロセスに完全に醒めて、気づいて、観ていることは、究極の瞑想だ。(従って、究極の瞑想の反対語はDV?)
禅寺の中でではなく、裟婆の争いごとの真っ只中で、それができるようになったとき、 人は大悟する。
弟子と師匠は、互いに手をつないで、「かっかっかっ」と笑いながら、 スキップして山を降りた。