僕は劉暁波の書いていることは9割以上賛成だ。
だけど、たとえば『最後の審判を生き延びて』の中では、エロスのカーニバルという章については、少しだけ言いたいことがあった。
ので、以前にこんな文章を書いたことがあった。
(以下引用)
エロスのカーニバル
さて劉暁波の文集『最後の審判を生き延びて』の中、「エロスのカーニバル」という評論には、僕の好きな衛慧などの作家も取り上げられていて、劉暁波がどんな見解を持っているのかが注目された。
衛慧に限っていえば、劉が彼女をいわゆる美人作家、肉体作家のカテゴリーに入れてしまって、詳細な検討をしていないことについては不満であった。今のところ、劉の書いているものの中で唯一、不満な点である。
衛慧が限界のある条件の中で作家として自己実現しようとしたときの試みの全体像を僕は全体として肯定しているし、その作品は文学として成功していると思うから、僕から見ると、劉の見方自体が、卑俗な見方の方にやや振り子が振れているように見えたのだ。
だが、それでも劉は、そのような美人作家たちに対する、「愛国者」たちによる弾圧の方を、より強く批判している。
「女性スターへの言葉の強姦は、道義的な正当性をもち、民族の恨みの発散になったばかりでなく、彼らに幻想の中で言葉の強姦をして、妄想の強姦をする場を与え、女性有名人への言葉の暴力を満足させた。これは愛国主義の名の下で行われた別種の肉体のカーニバルである。美女作家たちの肉体展示と比べると、こうした愛国の看板を借りた肉体のカーニバルは、より破廉恥で、より下品で、より凶暴である」
よく言ってくれたと思いました。
結局、この評論のタイトル「エロスのカーニバル」は、美女作家自身の「肉体展示的な」カーニバルを批判するためのタイトルではなく、美女作家たちに言葉の強姦を行う「愛国者」たちが、「はばかることなく気勢をあげ」「何の責任も負わず」」「良心の呵責も感じない」そんな残酷なカーニバルの在り方を批判するためのタイトルだと思いました。あなたたち弾圧者のやっているのが最も破廉恥な肉体のカーニバルだという批判文だと思いました。
かっこいいと思います。
(引用終わり)
そもそも僕が中国語を勉強しようと思い立ったのは、『上海ベイビー』の邦訳を読んだとき、いつか衛慧と中国語で話したいと想ったからだった。
ちなみに発刊当時『上海ベイビー』は中華人民共和国では発売禁止になった。しかし邦訳やドイツ語訳はベストセラーとなり、日本とドイツで映画化権の争いがあった。
ドイツが競りがち、この小説はドイツで映画化された。しかし、日本から松田聖子が女優として出演しているので、日本でも知っている人は知っている。
ちなみに僕はDVDを持っている。
しかし、映画は原作に比べ、かなり劣る。
そんな僕はいつしか彼女のブログを読んでいたが、あるとき衛慧は「私は中国政府によってスパイ容疑をかけられている」と書き残したまま、ブログが途絶えた。
えええええ。行方不明???
としばらく、心配したが、やがてアメリカに住んでいるという情報が入った。
僕が相当、作家としての衛慧に入れあげていることを知っている、中国人の友人は、上海と日本を往復するとき、上海でその小説の原本を入手してくれた。
「発禁本だから、入手できないと思うよ」と言ったんだけど、香港経由の古本を中国国内でネット販売していた個人を検索して、入手して日本に持ち込んでくれた。
まあ人民は、政府がどう出ようと、なんだってやるんだ。
Facebookだってなんだって、ITに少し強い人は「脱獄」と呼ばれるテクニックを使って万里の長城を蹴破って中国国内からやっている。
『上海ベイビー』のどこがどういいかは、機会があれば、また述べよう。
とても文章が美しいのです。
ちなみに衛慧自身もとても美しい女性です。