帰りにもう一度祖母の部屋へ行った。「ほな、帰るわな」と言った。祖母はベッドに腰掛けてぼんやりと床を見ていた。が、はっと顔を上げて僕を見ると、いきなり素っ頓狂な声で「アッ、コリャドウモ、ゴクロウサンデシタ!」と言うのだった。
父の遺灰は自然葬にすると心に決めたものの、その散骨先については決定的なアイディアが浮かばなかった。実家から預かった骨壷は、僕の自宅の床の間に置いたまま、ずるずると時間だけが過ぎていった。
勤め先の中学校で僕は、生徒が次々と起こす事件に巻き込まれ、夕刻から生徒の家に家庭訪問したり、その結果を学校に持って帰ってまた会議の続きをしたり、くさぐさの雑事、難事に忙殺された。
月曜日が開けると一週間の間、骨壷には一度も目が行かず完全に忘れていること
が多かった。週末になってやっとひと心地つき、ふと床の間に目が行く。白い布に包まれたその箱は、「なんだ、まだそこにいたのか」という風情である。もうこのまま骨壷を床の間に置いておいてはどうかと思うこともあった。
父が仕事に使っていた事務所に買い手がつき、売却することになった。金庫の中の細かな書類はまだ整理しきれていなかったので、とりあえず中身をいくつかの大きな袋に詰めて、自宅に持って帰ってきた。それもまた永い間、部屋の隅に置きっぱなしだった。が、学校が夏休みになって少し時間ができると、僕はその中身を一つ一つ確認し始めた。
交通事故の示談書が出てきた。父が五万円を払うことですべて終わりにするというような内容だった。酔っ払って運転することの多かった父が、人に軽く触れるような事故を起こしたのだろうか。五万円で済んだのなら安いと思った。
そんな風にして書類を探っていくと、ひとつの茶封筒の中から、何通もの手紙の束が落ちて畳の上に散らばった。差出人の箇所にはすべて達筆なペンの跡で「池永友子」とあった。あの女の色気のあるうなじや、大きな目が脳裡に浮かんだ。このまま焼却しようかとも思ったが、二人の関係を覗いて知りたいという誘惑には抗えなかった。
その喫茶店の大きな窓からは、舗装されていない砂利敷きの駐車場が見えていた。僕は窓際の席で苦いコーヒーを飲みながら眩しい窓の外を眺めていた。十分ほどして白のクラウンが砂利を踏む音を立てながら入ってきた。そして駐車位置を定めて後退しはじめると、一度もハンドルを切り返さずにぴたりと定位置に車を収めた。
運転席のドアが開くとエスニックなワンピースを着た女が颯爽と降りてきた。サングラスをかけているが、匂いたつような横顔でわかる。女は友子さんだった。
入り口ドアのカウベルが乾いた音を立てる。女は暗い店内に入るとサングラスをとり、さっと見渡した。「いらっしゃいませ」とウエイトレスの声が響くのと、女が僕を見出して軽く会釈したのが同時だった。
女は僕の向かいに座ると毅然と背筋を伸ばし、僕が何か言うのを待った。僕はリュックから取り出した茶封筒を女に手渡した。
「あなたの書いた手紙。お返しします」
女は両手で受け取ると僕の目を覗き込み「さぞかし……」と言いかけて、僕の瞳の意外に柔らかい光に気づいたのか、言葉の行き先を失った。僕はゆっくりと頭を振った。
「あなたと父がそれなりに大切な時を過ごしたのはわかりました」僕が言うと、友子さんは少し頬を緩めてそれでもまだ微かな緊張を残したまま「ありがとう」と言った。
友子さんはアールグレイの紅茶を注文した。気品のある香りが鼻先まで漂ってきた。この女にはどこかただの水商売の女ではない気配が漂っていた。手紙の文体にもそれは感じた。
今改めて聞くと田舎の旧家の出身で、若い頃は企業家の愛人をしていたという。手切れ金をもらってお店を出し、父に出会って初めて自分自身のためにこの男と愛を育みたいと感じたと言う。男が求めるからではなくて、自分自身のために。