第12回「医療界と法曹界の相互理解のためのシンポジウム」が2019年10月9日に東京地方裁判所で開催されました。このシンポジウムは毎年一回開催され、医療事故を担当する裁判官や被害者側と病院側の弁護士、大学病院の医療安全に係わる責任者らが参加して過去の裁判の実例を研究します。今回のテーマは「終末期医療について」で、林田医療裁判が取り上げられました。
林田医療裁判は2007年(平成19年)に89才の女性患者が入院中に亡くなった事件です。病院は患者本人が脳梗塞で意思疎通が難しいとして、長男をキーパーソンに決めたところ、長男は延命につながる医療はすべて希望しないと述べ、患者は死亡に至りました。
日頃から母とコミュニケーションを密にとっていた長女が、母の死後、長男と病院の合意で母の死期を早めたと知り、母は延命治療に対して否定的ではなかったと発言、患者及び長女の意志を確認せず、延命措置を実施しなかったため、死亡に至ったと病院に対して債務不履行にもとづく損害賠償を請求する訴訟を提起しました。私は長女の長男です。
医療問題の患者や遺族の立場からすると「医療界と法曹界の相互理解のため」というシンポジウムのタイトルには抵抗感がありました。医療側からは司法の論理で医療を断罪すると医療が成り立たないという反発があります。『極北クレイマー』など海堂尊氏の医療小説で主張されています。その医療側の主張を理解する一方ならば患者や遺族は浮かばれません。実際、シンポジウムでは病院側出席者から、遺族側敗訴の判決に対して裁判所の判断に感謝するとの発言がなされました。
また、個人である患者や遺族が組織であり、証拠の多くを手元に持つ病院を訴えることは容易ではありません。証拠は圧倒的に病院側にあり、各々が自分達に有利な証拠を提出する民事訴訟の仕組み自体が公正な勝負になりづらい点があります。医療界と法曹界だけで相互理解を進められたら、やはり患者や遺族は浮かばれません。そのためか医療過誤原告の会事務局など医療事故被害者で医療安全の運動を進めている団体の関係者も傍聴を認められるようになりました。
シンポジウムでは複数の大学病院医療安全担当責任者から、医療現場の感覚では、病院の対応に問題があったと指摘する発言が相次ぎました。
・本人の意思確認が出来ず、病院が患者側のキーパーソンを決める場合、患者の意志が最も分かっている家族は誰か確認せず、同居している長男を安易に決めた点に問題があった。
・長男から延命治療を希望しない申し出があったとき、主治医一人が判断して対応するのではなく、チーム医療の多職種や、倫理委員会など、集団で今後の対応を検討すべきだった。
・チームとして対応していれば、終末期医療について、家族間に意見の相違があっても、家族に丁寧にヒアリングすることで、患者の意志を把握できる可能性があったのではないか。
林田医療裁判で長女側は家族の一人をキーパーソンとしてキーパーソンの意見で治療方針を定めることの問題を主張しました。「家族の一人が同意をすれば、高齢者は死なせていいのだろうか」との問題意識です(渋井哲也「母の治療をめぐり兄弟間で食い違い。高齢者の命の尊厳を守る医療裁判は最高裁へ」BLOGOS 2017年08月23日)。
キーパーソンという制度は法律に定められたものでも、厚生労働省に定められたものでもなく、何の根拠もないものです。単に病院が便宜的に定めたものに過ぎません。法律と乖離した医療実務がまかり通ってしまうことに問題を感じます。
家族への説明義務を論じた最高裁判決では、医師が家族の一人と話せば説明義務を終わりとしていません。一人の家族を通じて更に接触できた人々から適切な人を選択して説明すべき義務を負わせています(最判平成14年9月24日判時1803号28頁)。
「患者が末期的疾患にり患し余命が限られている旨の診断をした医師が患者本人にはその旨を告知すべきではないと判断した場合には、患者本人やその家族にとってのその診断結果の重大性に照らすと、当該医師は、診療契約に付随する義務として、少なくとも、患者の家族等のうち連絡が容易な者に対しては接触し、同人又は同人を介して更に接触できた家族等に対する告知の適否を検討し、告知が適当であると判断できたときには、その診断結果等を説明すべき義務を負うものといわなければならない。なぜならば、このようにして告知を受けた家族等の側では、医師側の治療方針を理解した上で、物心両面において患者の治療を支え、また、患者の余命がより安らかで充実したものとなるように家族等としてのできる限りの手厚い配慮をすることができることになり、適時の告知によって行われるであろうこのような家族等の協力と配慮は、患者本人にとって法的保護に値する利益であるというべきであるからである」
これに対してシンポジウムではキーパーソン選任手続・方法に焦点を当てました。特に同居の長男を安易に決めた点に問題があったという意見は、家長意識の残存する昭和の庶民感覚よりも進んでいます。