阪神・淡路大震災から25年。
午前5時46分、大阪東部に住んでいた僕も大きな揺れに目を覚ましました。
揺れが収まるまで、布団の中から出ることができませんでした。
布団の中からただただ天井の照明が揺れているのを眺めていましたが、少しずつ揺れが収まってきました。
部屋から出ると、すでに起きていた母親がテレビをつけていました。
我が家はとりあえず、少しタンスの上から物が落ちたぐらいで、特に壊れたような場所もなく、電気もガスも水道も異常なし。
朝の情報番組を見ると、どうも大阪北部から神戸方面で大きな被害が出ているらしいと報じていました。
被害が大きかった地域を空から写した映像が流れていました。
あの時、学校に通う準備をしながら見た、阪神高速がミニチュアのように横倒しになっている映像は、今でもはっきりと覚えています。
今では考えられないことですが、そんな映像をテレビで見ながらも、なぜか本数を減らして運行されていた電車に乗って、いつもどおり登校しました。
学校の授業も午前中は休みでしたが、午後からは普通に授業や部活があったと思います。
何日か経ってから、兵庫の西宮と三田に親戚がいましたので、父親と二人でリュックいっぱいにガスボンベとミネラルウォーターを詰め込んで出かけました。
西宮あたりはまだ電車が復旧していたので、車窓を眺めながら親戚の家へ。
屋根にブルーシートをかぶせた家々の合間で、いつ倒れるかわからない傾いたままのビルが点在している光景が衝撃的でした。
西宮の親戚の家に立ち寄った後、三田のおばさんの家に行くには、普段は神戸市内から周っていくルートを使うのですが、この時は電車が復旧していませんでした。
なので、大阪の方から余計に2時間ほどかけて、なんとか到着。
おばさんは一人で寝ていた部屋で、自分の上を部屋の右から左へとテレビが飛んでいく様子を目の当たりにしたそうです。
そんなことがあるのかと、驚きました。
電車に乗って父親と二人、持てるだけ持っていったといっても全然足りなかったガスボンベとミネラルウォーター。
それでも喜んでもらえたのは、それだけまだモノが足りていなかったタイミングだったんだと思います。
そんな大きな震災を体感してから4年半ほどが経った1999年9月21日。
僕は台北にいました。
台湾の大学に留学し、大学の寮で暮らしていました。
部屋の2段ベッドの上の段で眠っていた夜中の1時47分。
4年前の1月17日の朝を思い出すほどの大きな揺れを感じました。
「フラッシュバック」というのはこういうことを言うのかな…と思うほどに、あの時の揺れが思い出されました。
電気は止まってしまったようで真っ暗。
部屋に置いてあった懐中電灯を手にとって外へ。
今度はとっさに「あぁ、これはどこか大きな被害が出たな…」と思いながら、まだ知り合ったばかりの台湾人の友人や、同じ時期に留学していた日本人の友人の無事を確認するために、学校中をぐるぐると周っていました。
とりあえず、周囲の知り合いの無事は確認したので、一度部屋に戻って少し休むことにしました。
今思えば、余震とかがあるので気をつけないといけなかったんですが、意識が低かったんでしょうね。
この地震、のちに、震源地となった地域の名前をとって「集集大地震」とか、「921大地震」と呼ばれる大きな地震でした。
翌朝に、いつも国際電話をかけるために通っていた近所のコンビニの公衆電話から実家に電話すると、母親が慌てた声で受話器に出たのを覚えています。
とりあえず無事だと言うことを伝えて、大学にも連絡してもらうことにしました。
電気は当日の朝までに復旧していたようでしたが、ここから3日間、水道がまったく出なかったので、暑い夏の台湾でシャワーができないことと、寮の共用トイレが大変な惨状になっていたのが辛かったです。
留学から帰国後、なんとなくネットで台湾の地震に関する情報をいろいろと検索していると、ネット上で行方不明者を探す掲示板みたいなものが日本で開設されていたのを見つけました。
その掲示板を見てみると、僕の高校時代の友人が、僕の身を案じる書き込みをしていました。
その友人とは高校を卒業してから少し疎遠になっていたのですが、これをきっかけに久しぶりに連絡を取りました。
その後の友人との付き合いは、十数年経った今も続いています。
どちらの地震でも、多くの人が亡くなり、傷つき、たくさんの人たちの心に大きな傷を残しました。
そのことを思うと、僕や僕の周りは大きな被害を受けることはありませんでした。
それに、何かの力になろうと意識的に何かをやろうと動いたわけでもありませんでした。
大きな地震が発生した近くで過ごしながら、なんと意識の低い日々を送ったのだろうと思ったりすることもあります。
ですが、あれから25年、そして、あれから20年と半年。
この時期が来ると、自分が過ごした「あのとき」を思い出します。
ただそれだけですが、これからもきっと変わらないでしょうね。