「美しさ」と「美しい」の来し方行く末

【髪棚の三冊】〜感性とデザインのリテラシー〜
vol.4 「美しさ」と「美しい」の来し方行く末
□『人はなぜ「美しい」がわかるのか』橋本治(ちくま新書) 
□『海・呼吸・古代形象』三木成夫(うぶすな書房)
□『カオスの自然学』テオドール・シュベンク(工作舎)

 

■「美しさ」は概念・「美しい」は体験

 だいたいにおいて「ビヨーシ」なる種族は、たんに職業というよりも、何か特殊なイデオロギーや信条を掲げるアクティビストかの如く世間からは認知されているように感じます。

 なぜって、たとえば初対面の相手に「私はビヨーシです」などと迂闊に自己紹介しようものなら、たいていの場合「あ、今朝は急いで梳かして来ただけなので…」と無用の自己弁護で防衛線を張られてみたり、「私こんど短くしてみたいんだけど似合うかしら?」などと唐突にお悩み相談を持ちかけられたりといった調子で、ハサミやコームやブラシやピンを持っていなくたって、いついかなる場面でもビヨーシはビヨーシとして振る舞うことが暗黙のうちに要請されていたりするものです。(これって“ビヨーシあるある”ですよね?)

 

 要するに、ビヨーシとは「美」のスペシャリストである、または少なくとも「美しい」がわかる人なのだ、と世間一般から思われているということに他ならないでしょう。美学だとか美意識だとか、ファッションだとかコーディネイトだとか、ビヨーシを名乗るからには一家言持ってしかるべきなのであるゾ、と。
 うんうん、まぁそりゃぁそうですよね。何てったってビヨーシは「美」の価値を提供することで対価を頂戴する存在なのですから。

 

 ではそもそも「美」とはいったい何なのか…?というのが今回のテーマです。
 「美」とは、サービスや商品として流通する「消費財」なのでしょうか?。
 はたまた、「美」とはコレコレシカジカのものであると規定され得る「情報」なのでしょうか?

 

 

耳とオウムガイ

◆ものの「かたち」が、最も美しいプロポーションとされる「黄金比」へと収斂されることはよく知られている。
 

◆けれど、私たちは知識や概念として「美しさ」を獲得することを目指して生きている訳ではないだろう。
 

◆「美しさ」を分別することと、「美しい」を体験することとは全く異なる次元の出来事なのだ。

 

 

■「をかし」か「キレイ」か

 美を識別する能力のことを「審美眼」と呼んだりしますが、日本文化史のなかでこの能力をフルスロットルで発揮した有名人と言えば、たとえば王朝時代のカリスマブロガーこと清少納言をあげることが出来るでしょう。
 「これキレイ!」「あれカワイイ〜」と好き勝手に書き連ねた『枕草子』はあまりにも有名ですよね。


 その清少納言は、もともとは中流の下くらいの家柄に生まれた娘でしたが、あるとき天皇の妃に仕えることになって、あろうことか身分の高い男たちと平気でタメ口をきけるようになったシンデレラガールなのでした。
 つまり、当時最高の権威の中枢にスタッフとして紛れ込めたからこそ、「好き=いい=美しい」という価値判断が彼女において成立し得たのです。


 『桃尻語訳枕草子』の著者でもある橋本治は、王朝の美学を得意げに放言し尽くした清少納言の筆致について、「美を判断する権利」を与えられた者による「万全の優越感」による態度だと評しています。
 つまり「をかし」の美意識は、「最上流の社会」にいるからこそ許される特権によって担保されていたということなのです。
 クラシックな美術品や工芸品が高価なのは、同じ理由に依るでしょう。高額のコストが許されるのは、それが王侯貴族のようなセレブリティのために作られるからこそであって、そこで語られる「美しさ」とは何らかの権威によって「価値の高さ」が仲立ちされていることは珍しくないでしょう。

 

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年東宝配給)より

◆王朝の美意識は「春は曙」と朝焼けを愛でたが、夕焼けの美しさにジーンとする感覚は、近代が「孤独」を発見することによって生じた。食って行くことに精一杯だった前近代の人々は制度社会の中で生きる以外には選択肢が無く、人々が一日の終わりに日々の充足を祝福する心情に至るのは「個」の自立なくしてはあり得なかったのだ◆その「孤独」はやがて「自由」という概念へ置き換えられながら、人々は「自分の歌だけを唄っていられる楽園」を指向していく。◆果たして「美」が向かうべきは、「自由」という語によって虚構された閉鎖系の楽園ではなく、自立した「個」が相互に調和し合うような社会なのではないだろうか。

 現代に生きる私たちにとって、「美しさ」が多様であることはあらためて申し上げるまでもないでしょう。
 個々の価値意識や生活環境のなかで「美」は様々に花を咲かせており、もう少し踏み込んで言えば、現代社会における「美」は「個」の自立によって権威や制度の呪縛から解き放たれてきた筈なのです。


 ですからビヨーシは、ともすると「美の魔法」をかける者と思われがちですが、私はむしろ「美の呪縛」を解く側に立つ意識が求められているのだろうと考えています。

 

■「あたま」か「こころ」か

 と、今回もやや哲学的な切り口から語り起こしましたが、何はともあれビヨーシは髪型という「かたち」や「すがた」を作らなくてはなりませんから、現実に立ち戻りつつ「形」ということについて調べてみることにいたしましょう。


 手始めに辞書を引いてみると、「かたち」とは「五感によってとらえられる物や人の外見的なすがた」のことで、さらに「かた」と「ち(=いのち、ちから)」が結びついたというような説明も添えられていたりします。
 また、漢和辞典によると「形」という字の左辺「开」は「型」、右辺「彡」は「色彩や光沢などの美しさを示す記号的な文字」なのだそうです。


 ふむふむ。たしかに「型」は鋳型のように「同じ形をくりかえし生みだすもの」という意味ですし、「命」もまた「生物を連続させていくものになる力」ですから、「かたち」や「いのち」の本質を掘り下げて行けば自ずと「美」ということに辿り着きそうに思えてきます。

 

いのち」の波 『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院)より

いのち
(1) 生物を連続させていくもとになる力。生命の波のなかから、ごく自然に浮かび上がってくるひとつの“すがた”。
(2) そこから切り離された個々の波の長さ。個体の生存期間。

多層多重に織り成された「いのち」の波の連なりの中に、ヒトは「美」を見出し、郷愁や憧憬を抱いてきた。

 

 生物発生の研究等で知られる解剖学者の三木成夫は、人間の「いのち」に対する態度には二種類あると書いています。
 一つは、自然の意に逆らってでも生存期間を伸ばそうと考える「あたま」による態度。もう一つは、生命の波を通して自然の面影を「こころ」で感得しようとする態度。
 そしてこれらはそれぞれ、前者は発生学的な見地から言うところの「体壁」の世界、後者は「内臓」の世界に照合できるというのです。


 体壁の世界とは、脳を中枢に戴く神経網に象徴され、とりわけ五感のうちの視覚に代表されるような“目先の動きに振り回される”世界のことで、内臓世界が遠い宇宙の運行や自然の律動と同調共振して機能を営むこととはあまりにも対照的です。

オーギュスト・ロダン『考える人』

「近」との接触

腸菅の入口である口は手で塞がれ、出口である臀部も石の座面で圧閉され内臓の両端が閉ざされており、全身の筋肉は緊張感に満ちて鬱屈した表情で「近」(=体壁)の感覚に集中している。

国宝『弥勒菩薩半跏思惟像』

「遠」との交流
 

右足を左膝に乗せて静かに瞑想する坐像には穏やかなアルカイックスマイルが口元に浮かび、その頰には小宇宙を象るような指の輪が添えられ、反動を準備する緊張はどこにも見られない。
兜率天で修行するその姿はまさに、「遠」なる宇宙の律動と秘めやかに共振する内臓世界との交響が見てとれる。

 

 ここでビヨーシにとって大切なのは、“触れる”感覚こそが体壁と内臓の二界を橋渡ししていることだろうと思います。
 たとえば幼児が“舐め回し”や“撫で回し”を好むように、考えることは感じることによって支えられ、感じることは考えることによって補完されるのですね。


 このことは全くもって「美」の構造と似ているように見えます。
 ものごとの美しさは、感じなければ分からないし、分別できなければ体現することも出来ないのですから。

植物と動物

◆動物のからだから腸菅を一本引っこ抜いて、これをちょうど袖まくりするように裏側にひっくり返して出来た形が、すなわち植物である。

◆植物の根は太陽を心臓に天空から大地へ向けて、葉は大地から天空へ向けて、果てしなく廻る巨大な循環路の毛細管の部位に相当する。

 

 

 

 

◆生命にとって外(体壁)と内(内臓)は、一対であり一体なのである。
 

 

■「ツムジ」も「銀河」も

 ところで、独シュタイナー学派のテオドール・シュベンクは、流体力学の立場から「水」のユニークな特性に注目して興味深い考察を行なっています。一言で言えば、水は、宇宙の神秘と生体の器官形態を媒介する普遍的な物質であるというのです。


 なぜなら、水はまず何より(1)どれほど微細な状況の変化をも知覚する感覚器官として機能し、それゆえ(2)あらゆる生命の新陳代謝を扶助し、かつ左様な活動力を発動する際には例外なく(3)律動的な文様を描いてみせる、という訳なのですね。


 つまり、「われわれの肉体が形態化された流体であることには疑問の余地がない」と詠んだノヴァーリスを引用するまでもなく、水は地上のあらゆる有機的な“かたち”と宇宙の現象とを結びつけており、すべての生命過程は水を通じて星々の変化と緊密に関係しているのです。

 

流動水が静止水の中に送り込まれると、
渦は律動的な文様を描く。
『カオスの自然学』(工作舎)より

水による、高次な力の具象化


◆水は、およそ宇宙に作用するあらゆる力(物理・化学・電気・重力・時間)の差異を感覚器官のように知覚し、律動的作用のうちにそれらを平衡と融合へと導いてしまう。

 

◆とりわけ「渦」は、大いなる星界の雛形をあらわすシステムとして自律した形象を表出している。

樫の木の幹

 

◆木目などに見られる形状は、材質の硬さにもかかわらず、その起源が液体相にあることが明確に痕跡されている。シュベンクはこれを「水によって媒介された宇宙意識の刻印」なのだと説いた。

 

◆とするなら、私たちのツムジの渦巻きやクセ毛の捻転は、銀河の回転運動と呼応し合った「聖なる文様」と呼ぶべきだろう。

 


 私がシュベンクの『カオスの自然学』と出会ったのは美容師3年目の頃でしたが、それはそれは衝撃でした。なぜって、髪型をデザインするということは宇宙開闢140億年の歴史にハサミ1つで対峙するということなのですから!
 これはもう宗教だとか哲学だとかを遥かに超越した、神々しく美しい営みなのだと感じ入るしかありません。

 

 さぁそろそろ話を着地させましょう。今号の発端は「ビヨーシ」の機能についての“あるある”でしたね。
 再び辞書をめくってみると、「美容師」の「容」には“すがた” “かたち” “いれる” “ゆるす”などの意味があって、その字形は“祝祷によって廟中に神があらわれることを願う”という状況を意象したものなのだそうです。


 とすれば、今あらためて「美容師とは何者なのか?」という問いに、私たちはどう答えるのが相応しいのでしょう。
 美容師は「美なる価値」を体現する者なのでしょうか。あるいは「美の流儀」を伝道する者でしょうか。いえいえ、「美の遍在」を媒介する者なのではないだろうかというのが今の時点での私なりの考えです。


 美とは何なのか。美容師とは何者なのか。さて、みなさんはいかがお考えになりますでしょうか。

 

【髪棚の三冊】〜感性とデザインのリテラシー〜
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□『カオスの自然学』テオドール・シュベンク(工作舎)

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2019/05/31 11.60 ALIS 0.30 ALIS
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切ったり結ったり、触ったり編んだり、語ったり書いたりしています。(試験投稿中)
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  • abhisheka
  • 1ヶ月前

これは素晴らしい論評です♪

返信
  • Sakky
  • 2ヶ月前

清少納言シンデレラガールのこと初めて知りました。

わたし美容室が凄く好きなんですけど


ですからビヨーシは、ともすると「美の魔法」をかける者と思われがちですが、私はむしろ「美の呪縛」を解く側に立つ意識が求められているのだろうと考えています。



↑ここを読んで、わたしが美容室を大好きな理由がわかった気がしました。

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