クリプト

<小説>仮想通貨な世界 1‐20話 

とけい's icon'
  • とけい
  • 2018/08/13 11:56


※本作を読む前に

Content image

まだ「仮想通貨な世界」を一度も読んだことがないという方も多いと思います。

まず、「仮想通貨な世界」世界観「仮想通貨な世界」あらすじの記事から

目を通してみて下さい。


そこでちょっと興味があるな・面白そうだなと感じた方はぜひ

本小説を読み進めてみて下さい。

<27,793words>


あなたに広がる新たな世界。

「仮想通貨な世界」

筆者・とけいより

Content image
Content image

<プロローグ>

2030年、日本は東京オリンピックを終えて以降、

ゆるやかに、それはそれはゆるやかに

下降線をたどっていた。


景気が悪くなった理由を

各分野の自称プロフェッショナル達が、

やれ

「観光事業が低調だからだ」

と言えば、


「いや、金融政策が悪いからだ」

他の専門家がしたり顔で反論する。


メディアでこのような討論番組をよく見かけるが、

ほんとは皆、原因が心の中でしっかりと分かっていた。


「今までの政策が、もう噛み合わなくなってきている」


人口ボリュームのあった世代が定年を迎え、

労働人口がますます減っていく現状。


終身雇用制度が今の日本とかみ合わなくなっている問題。

さまざまな問題が、日本政府と国民に襲い掛かっていた。


またその流れと逆行するように、

仮想通貨などの電子決済のサービスが、目覚ましく台頭していった。


その影響力は凄まじく、すでに政府が目をつむることが出来ない程、

日常生活に入り込んできていた。


例えば、さまざまなサービスが仮想通貨で決済できるようになっていた。


その代表的なモノはバイト代や給料。

仮想通貨で支払うのが主流になっていた。


その変化は国民にこう結論付けさせた。

「日本円がなくても生活出来るな、これなら。」


このことは、企業に依存して労働を行う従来スタイルの意欲を

根こそぎ奪い取っていった。


このままではいけない、とうとう日本政府は重い腰をあげた。

そして2032年、「評価経済決済法」が制定されることになる。


この政策は、

今までの終身雇用制度や日本円の概念を覆す

異質な政策であった。


当然のごとく、賛否両論を呼んだ。


「第一条. 日本円を使用せずとも電子通貨決済で豊かな暮らしができるよう、各々個人にトークンを支給する」

「第二条. 日本円ではなく、各個人名のトークンで、すべての物品やサービスを享受できるものとする」

「第三条. 支給した各個人名のトークンの価値は、政府規定の基登録した、3つの分野選択によるものとする。また、評価に関する基準は世間に与える影響力などさまざまな評価項目から決定される」


あまりにもこれまでのルールとは、

ベクトルの違う政策に波紋はすぐさま広がった。


「日本円はどうなるのか?」

「評価の基準を明確にしろ!!」

国会議事堂の前では

大衆の怒号が、連日響いていた。


大人たちが必死に怒号を上げる一方で、

若者たちはこの政策を案外すんなりと受け入れていた。


時が進み2040年、


「日本円なんかふりーでしょ」

尾上涼太も、その若者たちの一員となっていた。


この物語は、完全に仮想通貨決済になり、日本円が不要になった世界。


評価経済、loT化が導く未来のカタチに適応しながら、

青春の道を力強く歩んでいく

尾上涼太(18歳)のお話です。


1.目覚めの朝

2040年、ハイテク化が進みに進んだ日本。


20年前には懐疑の眼を向けられていた仮想通貨も

いまや日常には欠かせないモノになった。


車は等間隔で走る無人の箱となり、

電車を乗るにも切符などという紙切れは

もはや存在しない。


何もせずにカード一枚を持ち、そのまま乗車すれば、

目的地で降りることが可能だ。


その一枚に使用されているのが

「マイナンバーカード」である。


ちなみに、日本円もまだあるにはあるが

もはやコレクターが集めるためのモノになっている。


そういう意味では、価値は以前より高騰しているのかもしれない。


「涼太…起きなさい!!今日は入学式でしょ!」

俺は、母親の口やかましい騒音で最悪の眼覚めを迎えた。


「まだ、朝6時じゃねーか」

カーテンをめくりながら、思わず本音がこぼれる。


「口答えしない、早くスーツに着替えなさい!!」

なんで、こうどこの母も地獄耳なんだろうか。

俺は重たい身体をむくりと起こした。


衣装タンスの中にかけてあったスーツ一式と対面する。

ふーっ、なれない手つきで、ネクタイを結び始める。


ネクタイが明らかに歪んている。

難しいな…、

初めてしっかりとスーツを着るのに思ったより

時間が掛かってしまった。

主にネクタイのせいだが。


暗かった街並みは、徐々に明るみを放っていく。

時計の針はチクタクと時を刻む。


ようやくスーツの着こなしに納得いったので、

ゆっくりと顔を上げた。


もうこんな時間か!


集合時間ぎりぎりまで時は滑らかに進んでいた。


「行ってくる!」

大慌てで走りながら、大声で母に声をかける。


「ちょっと忘れ物!!」

カードを母に後ろから、猛烈な勢いで押し付けられる。

おお、まずかった。

いつもは鬱陶しいだけの母だが、この時はさすがに感謝を意を示した。


「ありがと!」

必死に玄関に向かっての走りを再開した。


母は、本当にあきれた表情をしながら

「落ち着いて、行きなさい」

そうなだめるような口調を背中に向けてかけてくれた。


たかが、一枚のカード。

されど、一枚のカード。


マイナンバーカードは、進化に進化を遂げた。

身体情報や住所はもちろんの事、

電車に乗る時や

モノを買う時、サービスを受ける時…

何から何までこの一枚をかざすだけでことが済む。


一度、病院に持っていくことを忘れて大変な目に遭った。


それ以来、母にはこぴっどく

「マイナンバーカードは持ってるの?」

毎回のようにきつい口調で聞かれる。


分かってるっつーの。

このカードがなきゃ、何もできないことくらい。


そーいや、高校の担任も物凄い説教してきたな。


正直、うざかった。

「お前たちいいか、これは本当に大事なカードだからな。

絶対に貰ったことを親に言うように!!」

高3の春だったっけか。


教室には春の温もりが窓から

これでもかというくらい送り込まれていた。


「おーい涼太、聞いてるのか?」

制服が煩わしいので、俺はボタンを一つ開けたところだった。


「いや、桜がきれいだなーって」

「お前の頭がお花畑なんだよ」

担任の一言に教室中がドッと爆笑の渦に巻き込まれる。


いらつく担任だな…

「それより今日は何の授業なんだよ?」


この質問に、

担任はおとぼけ顔から一転、急に真面目な顔になる。


その変わりように、爆笑の最中だった教室が一気に静まり返る。


「いいか、お前たち今日は、マイナンバーと各自のトークン付与に

ついての話をする。

これは、大人になっても絶対に知っとかないといけないことだ。

この選択次第で、お前たちの未来は大きく変わるからな」


…どうせ、担任が話を大きく盛っているだけだろ。


身に染みて、この話の重要性に気づいたのは、大学に入ってからの事だった。


2.マイナンバーカードとトークン


とりあえず、今日からマイナンバーカードをくれるってことだよな。


これで完全に何でもできるな。

あとで、学食で使ってみよっと。

今日は、景気がいいしかつ丼かな。


授業そっちのけで、今日の昼食の事で、頭がいっぱいになっていった。


当時の俺は、個人トークンの意味をまるで分かっていなかった。


そんなことを尻目に、担任は黒板にでかでかと

「マイナンバーカードとトークン選択」

と荒々しく書いたのち、プリントを配り始めた。


一応、トークンがお金だという事は知ってるから大丈夫だろ。


今までも親のトークンで服買ってたし。


ただそうは言っても、トークンに関することはやっぱり気になる。


いつもはくちゃくちゃにして机の中に紙を放り込む俺だが、

そのプリントばかりは

赤ちゃんを介抱するようにそっと持ち上げて、読みにかかった。


…なるほど、全く意味が分かんねえ。


とりあえず、

「18歳の誕生日を迎えた時点で成人となり、

選挙権・マイナンバーカード・

各自のトークンが有効化になります。」

という一文目ですら、なかなか意味を飲み込めない。


各自のトークン?

マイナンバーカードには、

本名である尾上良太の文字がローマ字で記されており、

その横にTOKEN1とつづられていた。


自分の名前のトークンで、これから買い物するってことでいいんだな。

ふんわりだが、プリントからそう解釈した。


「みんな、プリントはちゃんともらったか?

それじゃ、今からマイナンバーカードとトークン付与に関して説明する。

この授業は本当にきちんときいておけ。

そうしておかないと、これから全く買い物が出来なくなるぞ」


この冒頭から先生の説明が始まったこともあり、

珍しく授業中に、寝ることはなかった。


買い物できねーとか絶対嫌だし。


マイナンバーカードの説明は、思っていたよりもあっさり終わった。


何でも、先生が俺たちぐらいの頃からカード自体はあったらしく

このカードで買い物や移動、病院に旅行など

何でもできるらしい。


ただ、紛失すると果てしなく面倒くさい手続きが必要になるらしく、

不安なやつは鎖にでもつないでおけとのことだった。


最後の一言で教室がまた、柔らかい雰囲気になる。


…はやく自分のトークン使いてーな。


窓の近くにある桜の木が強風にあおられて、

薄紅色の花びらが空中に舞い上がる。


その1枚が俺の机の上に、

何かを訪ねてひらりひらりと舞い込んできた。


そういえば、桜トークンってどこかで聞いたことあるな…


かすかに、記憶の引き出しが開きそうな気がした。


ゆっくりとその引き出しに手をかけた。


その時、

「さあ、大事なのはここからだ。

マイナンバーカードに各自の名前がローマ字で刻まれているのは分かるな?」

担任の口調がまた真面目になった。


拍子に頭の中の引き出しは、どこかに消えてしまった。

記憶を辿るが、思い出すどころか、引き出しすら見つからない。


仕方ないか…

この事を諦め、目の前の黒板に意識を戻す。


なんせ、このことでとても気になっていたことがあった。

「せんせー、

名前の後ろに数字が1、2、3とそれぞれついているんだけど

これ何?」


すると先生は何かの獲物を見つけたかのように

「涼太、いい質問だ」

と不敵な笑みで笑った。


3.評価経済と個人トークン


「もう一度、プリントを見ようか。

ここからはトークン選択の話だ。

簡単に言えば、みんなの評価が価値になるんだよ」

先生は何かを確かめて頷きながら、目を細めた。


「どういうこと?学校の成績がトークンになるのか?」


「ご名答。涼太、今日は頭が冴えてるじゃないか。

みんなが学生のうちはトークン選択の一つは絶対に学力になる。

みんな高校1年生の時から学力テストを受けているな?

あれは、全国で統一されているテストだ。

そこから順位に応じた成績が、トークンの価値になるというわけだ」


人生終わったと思った。

勉強は全然得意じゃない。

俺のトークンの価値低いじゃねーか。


その時、

隣の席に座っている背の高い和也がチラリと視界に入った。


そうだ。

「勉強以外で活躍してるやつは評価されねーの?」

先生は目を真ん丸にして、

「どーした、涼太。

今日は鋭すぎるぞ。今日だけか?

さっき名前の後ろに1、2、3と数字が刻まれているトークンの質問があったな。学生の間、1のトークンは学力に決定される。だが、それ以外の2・3のトークンに関しては、君たちが世間で評価されるであろう分野を好きに選んでいい。」

先生はふーと、一息つく。

「ただし、一度決めた分野は5年間変更は出来ない。」

目を細めていた先生が、パッと目を見開いたのが印象的だった。


そして、また悠長に語りだす。


「数字が少ない順番に影響力が大きい。

国家の機密事項だから、計算方式はわからないが、1・2・3の順番に君たちのトークン評価に対して影響力が大きいということだ。

そしてその3つの影響力をひとまとめにしたものが、君たちそのもののトークンになる。つまり、学生である以上、一番君たちのトークンに影響を持つのは学力だ」

ここまで、話しきったところで

先生はゆっくりと

机に手をかけよりかかる態勢を取りながら、教室中を見回した。


「先生の時は、こんな仕組みではなかったんだ。

会社に出れば、お給料として日本円を貰っていた。君たちは違う。

18歳になった時点で、国から各自の名前のトークンをもらう。

そして、その評価は毎月変動していく。

つまり君たちは努力することで、トークンの価値をしっかりと育てていかなければならない。」


外では風が、桜の花びらたちを再び舞い上げる。


「先生には、どちらがいいシステムなのかはよく分からない。


ただ、トークンの価値を上げることは努力次第でいくらでも可能だ。

評価される何かを見つけることがこれからの君たちを大きくする!」


先生は力が入っていたのだろう、額から汗が流れていた。


そこまで熱弁することか…??

とても疑問に残った。


大事な授業か当時の俺にはよく分からなかった。

だけどなんかそれなりには、ちゃんと考えて決めようとは思わせてくれた。


今思えば、とても感謝している。


4.和也はモテトークン?


先生の説明が一通り終わり、トークンを設定する時間になった。


学生だから、第一は学力で決定。

あとは第二トークンと第三トークン。


隣の席で真面目に考えている和也が、

どう考えているのか気になって仕方なかった。


「和也。第二トークンはバスケだろ?」

和也の肩に手をまわしながら、トークンの事を尋ねてみる。


大井和也。


こいつとは、高一からずっと同じクラス。

きりっとした目つきに、スポーツマンらしいすっきりした短髪。

そして、その運動神経の良さ。

バスケ部ではキャプテンを務めていて、全国大会出場の経験あり。

身長も軽く180㎝を越える。


そして、何より女子にモテる。

悔しいかな、モテる。

本当にモテる。


そーいやモテトークンってなかったかな…

広辞苑並みにぶっとい「トークン分類表」で調べてみよう。


「涼太、そこ邪魔。ちょっとどけ」

軽く和也に手をあしらわれた。


「第二トークンバスケで、第三トークンモテトークンで決まりだな」

「そんなトークンねーよ」

「いや、あるかもしんないだろ…?」

トークン分類表をぱらぱらとめくってみる。


色々なトークンを見ながら、確かめる。

語学、スポーツ、芸術、IT、分析、研究、専門、技能…


「うん、ねーな」

何の反応もない。

和也はこちらの方を見向きもせずに、せっせと何かを調べていた。


少し、がっかりだな…、

そのままゆっくりパラパラとめくっていき、

最終ページまでたどりついた。


そこで、手がとまった。


「トークン説明の補足

1. トークンは、誰かに譲渡することが可能です。もらった相手の価値の変動に応じて、相手氏名トークンの価値も変動していきます。


2. トークンは、さまざまな分野に対応しています。どの分野のトークンを選択しても、

基本的に四半期に1度、国家が定めた試験を受けていただく必要性があります。

この試験に欠席すると、無条件に15%のトークン価値が減少することとなります。


3.トークン試験は、ある一定の影響力を有する者には免除措置がございます。

その条件は別ページにて説明がございます。


4.もし、譲渡されたトークンの譲渡主がなくなった場合も、トークンは電子上で残り続けます。その場合、トークン価値の変動は通常通りあるものとし、トークン価値が0になった時点で自然消滅します。


5.特定の相手と婚約を結んだ場合、互いのトークンは1つの財布(ウォレット)で管理することになります。家族の関係である場合、所有者の許可があれば、他の者が自由に家族のトークンを使用することが可能です」


ここまで、読んで頭がとても痛くなった。


ルール多すぎだろ。

俺が知りたいのは、モテトークンがあるかどうかだけだって。


一応、このページだけは頑張って読もうと決めた俺に、

ご褒美があったのか

その下の注意事項にこんなことが書いてあった。

「※よくお問い合わせに、男女の魅力をトークンにしろとございますが

価値判断が非常に困難なため、このようなトークンを設定することは出来ません」


…無いのかよ。


黙々とトークン分類表を読み込む和也に

「モテトークンないらしーわ」

がっかりしながら教えてあげた。

「そりゃそうだろ」

俺の方を見向きもせずに冷静な指摘だけが返ってきた。


さて遊びは置いといて、

俺はどんなトークンを設定しようか…


人生の方向性を決める瞬間が、着実に迫っていた。


5.「俺の夢」


実は、一つ密かな夢をずっと小さい頃から持ち続けていた。


時計技師になりたい。


それは、心の底に秘めた熱い想いだった。


小学校のころに見た、懐かしいようなそれでいて

力強い和時計の数々。


家の近くに時計博物館があったこともあり、

その美しさにすぐ虜になった。


毎日グローブを片手に、寄り道をしていた。


さまざまな技術が奏でる時のハーモニーに、感動した。


この世のモノとは思えない芸術が現前としている。

そう幼いながらに心を打たれた。


そして、通い続けるうちにしだいにこう思っていった。

「あの感動を自分の手で作ってみたい」

イメージは和をモチーフにした腕時計。


この世に一つしかない和時計。


「いつかぜったい作ってやる」

そんな想いを抱いて、早10年近くたった。


想いの強さに反して、周りにこの夢を告白したことは一度もなかった。


なんかダセえとか返されたらそれは嫌だし、

涼太っぽくないと言われるに決まってる。


だから今まで黙ってた。

それでも、

その独特な文字盤・洗練されたデザイン・厳かな和を

醸し出す雰囲気に今でも魅了されていた。


「時計に関する仕事がしたい」

小さい頃からずっと思ってきたことだ。


じっとプリントを片手に持ちながら、目を閉じ、可能性を逡巡させた。

…よっし、決めた。

第二トークンは時計に関することにしよう。


この決断を要するのに、実に20分はかかった。

首筋からスーッといやな汗が流れ落ちた。


なんか、物凄い疲れたな。

でも、そうと決まれば、設定番号を調べるだけだ!


ただ、そもそもそんなトークンあるのか…?


分厚い「トークン分類表」との格闘が始まる。

何分、格闘したか分からない。

でも、あった。

技能の29番目。

時計修理師および時計技師に関するトークン。


「このトークンでは、時計の専門知識に関する技能を評価対象として査定する。


なお、独立時計師に認定されているものは、試験の免除対象となり得る」


独立時計師…、初めて聞いた言葉だ。


でも、俺の夢はこの独立時計師ってやつだ。


この仕事が出来れば、俺のトークンの価値もぐーんと急上昇だ。

「いけるな、これは」

トークンを設定しただけであるのに、

自信が言葉になってこぼれた。


「何がいけるんだ?」

その言葉に、じっと分類表を眺めていた和也が反応した。


「和也みたいに、夢を決めたんだよ」

「夢?涼太ならバンドマンとかか?歌うまいし」

「ちげーよ。俺、時計を作る職人を目指すわ」

沈黙が二人の間に生まれる。


「…ん?なんとか言えよ?」

返事が一向に帰ってこなかったので、言葉を継ぎ足した。

少しイラっとした。


夢を馬鹿にしてくんのか、こいつ。

何とか言えよ。


だが和也は言葉を返すことはなく代わりに、

まるで動物園のパンダを見るみたい俺を凝視していた。


…なんだ?

「いや、気持ち悪いことすんなよ」

和也はまだ固まっている。


「悪い、涼太の夢が想像以上にまともでさ。びっくりした」

「俺にも夢の一つくらいあるぜ」

鼻をフンと鳴らしながら、胸を張った。


見ている感じだと、和也は驚いてはいるものの応援してくれていると感じた。


…やっぱ、いいやつなんだな。

こいつには嫌味が全くない。考えをすぐに改めた。


一応、確かめるように、

「和也はやっぱりバスケットボールのトークンか?」

と問うと

「ああ、プロを目指すよ」

そうさらりと返ってきた。


まっすぐその想いを言ってのける和也はほんとうにすごいと思った。


「お互いがんばろうぜ」

気持ちを吐露するように、しっかりと目を見ながら伝えた。

「おう」

和也の眼がいつにも増して、輝いて見えた。


6.母の一言


とりあえず、第三トークンの設定もひとまず終えた。


ほーっと息をなでおろす。


その時、なぜか先生と目が合った。


先生は俺をじっと観察した後、少し安どの表情を浮かべていた。

その意味が、当時の俺には分からなかった。


しばらくして、教室に賑わいが戻ってくる。

みんな、トークン設定がひと段落したのだろう。


わいわい、ガヤガヤ。

教室の賑わいが次第に明るさを増す。


その様子を見た先生は頷きながら、手をパンっと叩き、

「みんな大体決まったみたいだな。

これは、宿題でもあるから、親とは一度はこの件について話し合うように」

皆を眺めるようにしながら、話を続けた。

「そして、大学に進学する者・企業に就職する者、色々な道に分かれると思うが、みんなこのトークンの価値を向上させることに、全力を尽くすことになると思う。黒板の図を見てくれ」


そこには、白線で大きな棒グラフが

上下に2つ描かれていた。


「上のグラフには、

これから大人になってお金が掛かるものの内訳が書いてある。

まあ、だいたいは家賃と食費だな。

そして、注目してほしいのが、下のグラフだ。

みんなの個人トークンの将来の平均の価値はこんなもんだな」


必要な金の半分以下しかないのか。

これじゃ生活できないじゃねーか。


「足りない部分は、企業などのトークンを仕事してもらうことで

埋め合わせていく。先生が何が言いたいか分かるか?」


確実に俺に目線を合わせて、質問してきていた。


その意図はくみ取ったつもりだ。

ゆっくりと考えを述べてみる。


「個人トークンの価値を増やせば、自分の力だけで生活できる」


正解と言わんばかりに先生は、満面の笑みを浮かべた。

「その通りだ、みんなこれからどんな道を歩もうと

この事だけはしっかりと頭に入れておいてくれ。

大学に進む者は、その価値をしっかり磨いてこい!」


まあ、俺なら出来るでしょ、

自信はたっぷりだった。


学校から帰宅して、一応母さんにトークンのことをしゃべった。

時計トークンの事なんか寝耳に水だろう。


「あら、そうだろうと思っていたわよ」

この反応に、逆にこちらが面食らってしまった。

「気づいてたの?」

「そりゃ、気づくわよ。

あんだけ、毎日時計博物館に通って、

いまでも時計のパンフレット本棚にこっそり隠し持ってるじゃない」

今まで、隠してたことが逆に恥ずかしくなった。


それでも一応、母に一言

「俺、時計技師になるわ」

まっすぐ力強く宣言した。

「がんばんな」

その一言にどれだけ背中を押されただろうか。


自然と、顔の表情筋がほころんだ。


それからは、他愛のないことを久しぶりに母さんと話した。


和也はバスケの国体選手だから、

既に余裕で生活できるほどの個人トークン価値を有していること。


これから、どんな大学に進みたいかのプランの事。


担任が、やたらトークンの授業に熱が入っていたこと。


母は、俺の言葉に呼応するように「うん、うん」と頷きながら


「あんたはあんたの道をすすめばいい」

力強い一言で締めくくった。


俺の意志はさらに固くなった。

トークンを決めただけだけど、なんだか少し大人になった気がした。


7.個人トークンと評価格差


「高校時代から、俺は成長したんだ」

玄関の姿見から映るスーツ姿の自分を見て、

呪文を唱えるように呟いてみた。


これから、価値を磨いてやるぞ!

やる気だけはあった。


靴ひもを今一度しっかりと結びなおして、玄関を飛び出す。

「行ってきます!」


18歳の誕生日を迎えて、今日大学の入学式の俺はもう立派な大人だ。


こうやって、これから通学する時も

もう親のトークンではなく、

自分のトークンを支払って大学へ通う。

なんだか自立した気がして、嬉しかった。


「よっ」

なんとか集合時間に間に合った。

いつも、和也が絶対先だよな…


「遅れてすまん」

挨拶もそこそこに、急いで改札にカードをタッチする。

「ピッ」

電子音が無人の改札に鳴り響いた。


「急がないと、間に合わないぞ」

「わかってるよ」

和也にせかされるようにして、モノレールに乗り込む。


俺たちの後に乗ってくる客はいなそうだった。

「ピー」

人体検知センサーがそれを感じ取り、電車の扉は閉まった。


そして、ゆっくりと動き出す。

思っていたより、移動時間はかからずに済みそうだった。


今日は前の電車との距離が開いているようだ。

そのためか結局、予定より20分早く着いた。


そんなこんなで

大学最寄りの駅で、結構な時間を持て余した。


早く向かっても、特にすることが無いので、

とりあえず他愛もない話をしていた。


「なあ、和也。今の電車賃で何トークン消費した?」

新大学生のあるあるトークである。


「120トークンかな」

さらっと言ってのけた背の高いバスケットボール選手に圧倒される。


俺の二分の一じゃねーか…

今さっきの電車賃で、確かに俺は240トークン消費した。


これが評価経済の社会か。


和也は日本代表候補に選ばれるほどのバスケットボール選手。

俺は、時計技師になりたいただの人。


その評価の差が、このトークン価格にしっかりとあらわれていた。


「ははは」

「どうした?」

和也が明らかに気味悪がっている。


「評価経済上等だよ、絶対俺は評価される能力を大学で身に着けるからな」

込み上げる想いに身を任せて、近くにあったコーンを勢いよく蹴飛ばした。


コーンは今日が寿命だったのか、俺の蹴り一発で粉々に砕けた。


「ピー、器物破損。540トークンタッチして弁償して下さい」

後ろで警察帽を被った2mは超えるロボットがすぐさま駆け付けてきた。

そして、電子音で弁償しろと囁いてきた。


「あーあ」

横で和也が頭を抱えていた。


自動警察に

「ちっ」

と舌打ちしながら、カードをかざして泣く泣く弁償代を支払った。


最悪だ…。

テンションはだだ下がりのまま、入学式会場へと向かった。


キャンパス内では1年前と同じく桜がきれいに咲き誇り、

その花びらたちの結晶は、新入学生たちを温かく迎え入れていた。


ただ、その包み込むような優しさをぶち壊したいほど、

はらわたが煮えくり返っていた。


「自動警察め…」

ぶつくさ愚痴が自然とこぼれた。


横で和也は、

あきれるような表情を見せながら、大きな足をスライドさせていた。


いよいよ大学生活が始まる!!

そんな晴れやかなスタートでは一切なかった。


8.変人?狂人? 金井京一郎


「OO大学 入学式」

会場に入り、入学式のパンフレットを手にとる。


「俺は技能学部で、和也がスポーツ学部か」

「そうだな。会場の場所が違うみたいだから、終わったららまた落ち合おうか」

「了解」

和也とはここで別れた。


学部は各自のトークン設定をした時点で、自動的に絞られていく。

昔でいう文系、理系ってやつだな。

今はそんな分け方しないけど。


俺は、時計技師になるための勉強をするために、大学に来た。

早く勉強がしたい。

これは嘘偽りのない心の底からの本音である。


なぜなら…

早く技能を習得しないと、個人トークンの価値が一向に上がらないから。


それだけである。

もちろん夢のためでもある。

ただ、普通に遊びたい気持ちも強い。


そのためには金がいる。


金はトークンと同義だ。

そのトークンは、俺の評価にかかってくる。

となると遊びたければ、勉強を嫌でもするしかない。


単純な理屈である。


以前、父さんの大学時代について聞いたことがある、

「いやー父さんの頃は遊び惚けてたよ。大学は人生の夏休みだった」

「それどういう意味だよ?」

思わず聞き返した。


「いや、そのままの意味だけど?」

トクトクと日本酒をとっくりに注いでいる。


「勉強しなきゃ、トークンの価値が落ちるじゃんか」

「父さんが学生の頃は、個人トークンなんてもんはなかったからな」

「じゃあ、どうやって遊ぶ金を手に入れてたんだよ」

「アルバイトか親の金かな」

「ずりー」

本当に昔って最高だったんだなと

父さんのほろ酔い顔からすぐ想像出来た。


評価を上げる必要も特に無かったみたいだし。


さて、俺の学部はここか。


式にまだ時間があったが、早めに学部の指定イスに座った。

横には既に座っている人がいた。


まあ、いいか。

とりあえず、横の席に腰をかける。


座った瞬間、

「君は時計技師になりたいのかい?」

隣に座っていた丸渕眼鏡の背の小さそうな男子が、話しかけてきた。


「そうだけど…」

思わず面食らう。

「そうなのか、金井京一郎。よろしく」

「はあ、どうも」

とりあえず、差し伸べられた手を握り返す。


「ところで君さ、腕時計ってつくったことある?

あのねじの細かいところを

作るのが、なかなか尺でさ…あっ、でもそこがいいんだよね。あの苦労の後に

小さな部品を組み合わせて時計に息を吹き込んでいく感覚がさ…、

あっそういえば

最近時計用の工作機械を買ったんだけどさ…」


長いし、話が分かりづれえ。

途中で話題変わりまくってるし。


それに、髪の毛がベッタベタでぼさぼさの黒髪。

どこで、買ったんだ?それはそれは丸い縁の眼鏡。


いろいろ聞きたいことはあったが、

その饒舌ぶりに

話の隙間を与えてくれない。


なんなんだこいつは…


とりあえず、適当に相槌でかわしながら様子を見ていると、入学式が始まった。


色々な演目があったが、予想通り入学式は退屈でつまらなかった。


先ほど、冗長に自己紹介してくれた金井君に視線をやると

頭をコクン、コクンとさせていた。


…こいつ寝てやがる…!


そのインパクトの強さから

入学式の印象は、彼の存在が全てになってしまった。


そんな変人・狂人、金井京一郎とのかかわりは、こうして始まった。


9.トークン評価はこの世の全て


入学式は結局、退屈なまま

時間だけが過ぎて終わっていった。


その時間、実に2時間。

隣の金井君の瞼はまだ重たそうだった。


あんまり、こいつとは関わらないほうがいいな…

そう心が叫んでいたので、

別れの挨拶をせずに、そっと会場を後にした。


昼食を和也とともにした後、また別々で学科説明会に挑んだ。

横には見たことのある丸渕眼鏡が、朝と同じように座っていた。


「初めまして、この学科2人だけらしいね。

僕は金井京一郎。

よろしく」

スッと手を差し伸べてきた。

どうりで、ずっと隣同士になるわけか。


「いや、さっきの会場でもあったよ」

ものすごく、こいつの事を不審な目で睨んだ。

「あれ、そうだったけ?」

彼の眼はまっすぐ俺を見ている。


さっきの出来事をびた一文、本当に覚えていないようだ。

なかなかの曲者のようだった。


だが本当に、彼が曲者だと知ったのは

説明会の最中のことだった。


登壇で話していた教授が、

「毎年入学式恒例だが、

個人トークンの価値が高い優秀評価者を

3名紹介する。」

突然、眠気が吹っ飛ぶようなことを言い始めた。


俺も入っているんじゃないか、

少し期待した。


「まずは、第3位。バスケットボールのトークンを有する

大井 和也君だ。前へ」

見覚えのある長身がすっと前へと向かう。


俺じゃなくて、和也じゃねーか。

やっぱりすげーよ、あいつは。


和也はさわやかスマイルで他愛もないことをさらっとしゃべった。

さわやかを盾にあいつ、手を抜いてやがるな。


長い付き合いの俺には、すぐ分かった。


他人行儀な和也の挨拶が終わると、


「キャー」

黄色い歓声がバスケットボール選手に向けて起こった。


…いや、なんか反応ちがくね?

違和感しか感じなかった。

会場は、熱気を帯び始めていた。


2位は、メジャー注目の野球選手。


知らない奴だったが、もうすぐ、渡米するんだろう。

こいつなんで、大学進学したんだろうな?


そんなことをふわっと考えていると

「キャー」

先ほどより更に強い黄色い歓声が起きた。

…いや、ここはコンサート会場じゃねーよ。


2位までが終わり、いよいよ残すは1位のみになる。

会場の空気感が打って変わって、異様な空気に包みこまれる。


もったいぶるかのように教授が、やたらとゆっくりに事を進める。


「そして、今学年の最優秀個人トークン保有者を発表する。

今年は素晴らしい学生がわが校に来てくれました。

わが校の歴史を少し振り返ってみましょう」


そこから教授は大学の歴史を長々と語り始めた。


あまりの勿体ぶりように関心から眠気に変わり始めた。


眠い…


夢の世界に変わり始めた時、

「…金井京一郎君だ。おめでとう」

それだけははっきりと聞こえた。


ん?

聞き間違いか?


しかし

「はい」

と横の髪の毛ぼさぼさの彼が、とぼとぼと前へ歩いていく。


あいつ個人トークン1位なのか?


急に彼が眩しく見えた。

それと同時に、彼に畏怖の念を覚えた。


教授はやたらと笑顔だった。

「金井君は、齢18歳にして独立時計師に認定されております。

本当にすごいことです。

また、作品を5品すでに公開されており、彼の名は世界にとどろいています。

はい、拍手」

割れんばかりの拍手が会場内を包み来む。


小さく手をたたきながら、

教授のくせになんで金井に敬語なんだよ…

そこが気になって仕方なかった。


彼は、ぼさぼさの髪をクシャクシャと掻きながら

「えー金井京一郎です。よろしくどうぞ」

一言だけマイクにボソッと呟いた。


明らかにまだ眠たいのだろう、

饒舌は彼の眠気の前に息をひそめた。


ぶっきらぼうの一言、

一瞬空気は静寂に包まれたが、

「キャー」

今まで一番、黄色い歓声が起こった。


…いや、あいつ髪の毛ぼさぼさだぞ?

この時から身に染みて感じだす。


外見や容姿じゃない。

評価のトークン価値がこの世の全てなのだと。


10. 五月雨

ぶっきらぼうなスピーチが終え、トボトボと彼は帰ってきた。


彼はゆっくりとイスに腰がふれるかどうかくらいで、

「それより、君の名前聞いてなかったね」

再び、声をかけてきた。

「尾上涼太だ、よろしく」

先の情報もあり、丁寧に挨拶せざるを得なかった。


「うん、よろしく。それより、君はどんな時計が好きなんだい?

僕は、ジュルヌのグランソヌリなんかすごいいいと思うんだよね。

あの個性の権化っていうのかなぁ…好きだなあ、

あとは、トゥールビヨンなんかも痺れるよね。

あの複雑さを兼ね合わせた簡素さ。

やっぱり美ってのは全てをムダなモノを取り除いてこそなんだよね。

涼太くんはどう思う?」


何言ってるのかほぼ分かんねえ…

呪文を唱えているようにしか聞こえなかった。


でも、このまま分からないと素直に言うのも尺だったので、

少し意味ありげな頷きを、間たっぷりに入れた後、

したり顔で

「やっぱり、フィリップのモデルは最高だよ」

ありったけの知識を彼にぶつけた。



すると俺の眼をまっすぐに見つめて、赤ちゃんのように無邪気に笑った。

「君もそう思うかい?」

その後、また彼はおそろしく饒舌になった。


10分くらい説明会そっちのけで時計の事を話していたが、

1割も金井の言っている内容を理解できなかった。


悔しかった。


その悔しさから、

説明会の休憩時間に、独立時計師のことをこっそりと調べることにした。

今まで、自ら学ぼうとしたことは無かったかもしれない。


「独立時計師とは主に1985年に結成された国際的な組織である独立時計師協会のメンバーである時計技師を指します。ブランドに所属することなく、個として独立しながら時計技師として働く職人の中でも、「天才」と呼ばれる一握りの人たちが参加を認められる団体です。」

天才というフレーズだけが、頭の中に染み込んだ。


「昨今、3Dプリンタなどの電子機器で、腕時計など簡単に作れてしまいます。

ですが、独立時計師協会の天才たちが製造する時計は、オリジナルのギミックや他に類を見ない超複雑機構など、それぞれに個性があります。

そのため、コピーした腕時計などはるかに凌駕します。

ファンにはたまらない逸品となっており、その作品を制作できる

天才たちの評価はすさまじいものとなっています。」


天才か…。その響きしか最後まで読んでも残らなかった。

独立時計技師になりたい。

その想いが強くなった。



そういえば、さっき金井も5作品

腕時計を発表しているって教授が言っていたな。

彼のページをしらみつぶしに探してみる。


お、このページか。

「金井京一郎。その独特かつ洗練された作品の数々に、目の高いコレクターたちも絶賛しています。

特に、最新作である「五月雨」はその儚さと四季の情景を時計の盤面に最大限表現されており、至高の一品と名高いです」


「五月雨」

なんか、もう名前がカッコいいもんな。


俺も、いつかこんな作品をつくってやろうと思う。

いや、絶対に作る!!

そんな決意をしながら、画面を再び見やる。


「五月雨の価格は、現レートで約10BTCとなっております」

俺は、今晩、金井に晩飯をおごってもらう事を勝手に決めた。


11.変人から天才へ


「なあ、今日の晩ひまか?」

説明会が終わり、先ほどの想いを伝えてみる。

おごってもらう気満々の下心全開だった。


「いや、今日は時計制作をしたいからすぐ家に戻るよ。

あ、そうだ。せっかくだし

僕の作業場見に来るかい?」


この言葉に夜ごはんなど頭の中から消え去った。

誘い文句が思わぬ方向に繋がった。


「ほんとか、いくいく!」

俺は、独立時計技師の作業場がどんな感じか、気になって仕方なかった。


説明会後、金井の後ろを付き人のようについていった。


日はすでに落ち、真っ暗な世界が俺たちを包み込む。

金井の家は、見るからに豪邸だった。


暗闇のせいで奥行きまできちんと見られないのが

残念なくらい、壮大な佇まいをしている事が

雰囲気からなんとなくだが伺えた。


さて、この中にどれだけ立派な作業場があるのだろうか。

覗き込むように、外観を見渡す。


あまりの家の大きさに見とれていると

「はやく、入りなよ」

手招きをしているようだったので、少し名残惜しいが、

中にはいらせてもらうことにした。


「おじゃましまーす」

挨拶が、家の奥へ響いていった。


一般の家では見たことがないほど

立派なシャンデリアが、天井から迎え入れてくれた。


その荘厳さに唖然としてしまい、声が何も出てこなかった。

「僕の作業場はこっちだよ」

ぶっきらぼうな声は反響のせいか、少し味のある声になって

こちらに届いた気がした。


「ああ、いくよ」

彼の後ろを促されるままについていく。


2階にあがり、まっすぐ突き進む。

奥の角部屋が彼の作業室のようだった。


他の部屋の光景が、廊下からチラッと目に入る。

なんだ…この広さは。


その状況があまりに凄すぎて、

しっかりと事態が飲み込めないまま、作業部屋に吸い込まれた。


二部屋で実家くらいの広さだな…

違う世界の住人だと悟った。


案内されたのは、こじんまりとした6畳一間の和室。

時計制作に使わるであろう機材が、大量に詰め込まれていた。


そのため、2人でいると少し窮屈に感じた。


「どうだい、いい場所だと思わないかい?

これが、最近手に入れた機材なんだよ。なかなか入手が困難で一苦労したよ」

「俺には、良さがわからんが高そうだな。

あそこに山積みに置かれてる本も全部時計関連か?」

「そうだね、この部屋には時計に関する物しか置いてないからね。ちょっとモノが増えてきたのが最近の悩みの種だね」


奥には本棚が縦に3つ建てつけてあるのが見えた。

いや、ちょっとどころではないけどな…


「本棚の中の本も?」

「そうだね、この部屋は全部、腕時計に関する物しかないよ」

彼は部屋の床一面に、大雑把に置かれた本を流し読みしていた。


身動きが取れない状態をどうにか打破出来ないもんか。


とりあえず、床に転がっている本を整理するがてら、俺は居場所を作り始めた。


作業に入ると言って、無造作に部屋の隅に置かれた長方形の机へ

金井は向かっていった。

机の大きさが目視では分からない程、上には機材が煩雑に置かれていた。


イスに座ってしばらく、時計職人は目を瞑っていた。


そして目を見開いた次の瞬間、

時計の世界へと潜り込んでいった。

傍から見てても、その変化が伺えた。


集中しているというより別の世界へ行っているように感じた。

仮想の世界に。


もう俺が、この部屋にいることすら、彼の頭の中にはないんだろうな。


佇まいの変りようから、そう察した。


天才と呼ばれるモノづくりとはこういうものか。


現前と室内に座っている人はもう同級生ではなく、

世界から賞賛される名高い天才時計技師だった。


数時間、職人の様子をじっくり見たのち、

声をかけずにその場からそっと立ち去った。


厳密には、声をかけたのだけど、彼は時計の世界で躍動しているようだった。

帰り道の途中、ゆっくりとその光景が浮かんできて脳内をまわりだす。


彼の作業の手つきがあまりにも鮮明に脳裏に焼き付いていた。


種火のようにジワーと、

心にこびりついていくのが自然と感じ取れた。


天才と評される者の作業現場を初めて見た衝撃。

この感覚は、おそらく一生忘れないんだろう。


12.サークルはトークン磨きの場


天才への衝撃の興奮は冷めずにいた。

それでも、大学へと歩みを進める。


俺は天才になれるのか…?

ムリだというもう一人の俺を必死に抑え込んだ。


今日は新入生にとって非常に大事なイベントを迎えていた。

サークル選びである。


強制ではないけれど、大体の人はここが大学での主戦場になってくる。


和也のような優れた技能で進学する者は、

部に入ることが、すでに入学の段階である程度決まっている。


一方で、残り大多数の普通の人たちは、

サークルに加入して

そこで自分のトークンの価値を磨いていく事が定石となっていた。

サークルに入ると、毎月のように全部員の個人評価を、特殊な式で数値化されて、そこから総合値が導き出される。


その総合値は定期的にサークルランキングとして、表に張り出されるらしい。

ちなみにサークルトークン自体には、何の価値ももたない。


だけど、このサークルトークンが上位であればあるほど、

企業の方からお声がかかりやすくなる。

自分を売るチャンスは、

自らが所属するサークルがランキング上位であればあるほどチャンスが増えるという関係性である。

このようなルールがあるため、原則一人に1サークルの暗黙の了解が存在する。


ということは、つまり…

嫌な予感がする。


新歓ロードの序盤で、嫌な予感は現実となる。


金井に和也。そしておまけの俺は、

先輩たちのハイエナのような目から逃れることが難しくなっていた。


和也は全体で個人トークン価値が3位。

金井に至っては1位。


先輩たちからしたら、幽霊部員でもなんでも入ってくれたら大勝ちなわけだ。

サークルトークンが急上昇するから。


「金井くんだよね…英語に興味はない?」

「大井君、きみならサッカーでも輝けると思うんだよね!」


…おい、おれのことも誘えや。

だんだん腹がたってくる。


「そういえば、そこの君もどうだい?見た目運動神経よさそうだね」

ついでと言わんばかりに、気味悪い顔のセールスマンが一応近づいてくる。


「誰がそんなサークル行くかよ、おい和也。金井。いくぞ」

上級生を睨みつけながら、二人を促す。


なんだ、こいつら。

「まあ、和也。ちょっと落ち着けって。仕方ないだろ、目立っているんだから」

「ぼくは、サークルなんか興味ないけどね。涼太が行くっていうからついてきただけだよ」

「あー、くそ。お前らの注目度なめてたわ…ちっともまともに見れやしねえ」


俺たちが歩けば、周りの群衆もどっと動く。

さながら、大名行列のようだった。


そして視線を集める理由はもう一つあった。


隣の背の低い職人が、和服を身にまとっていることだ。


それでなくても目立つのになんで金井は和服なんだ…

お前は昭和か平成の人かよ…


ただ、その服装のことに、強く突っ込める気にはならなかった。

歩くたび和服から垣間見える、独創性が光る腕時計。


「時計技師」金井京一郎の最新作、「五月雨」である。

この腕時計と和服のバランスが非常にマッチしていて、見ていて心地よい。


便利になった現代に、どこか違う世界からフッと現れたようなその姿。

浮世離れしていて、独特だが色鮮やかに光る彼の存在感。


こいつは、トークン評価なんかなくても輝けるのかもな…

「キャー」

「金井君、ちょっと寄っていこうよ!」

「大井君、バトミントンに興味はないかい?」

雑音がだんだんと大きくなってくる。


周りの大群の猛追を逃れるために、

「いくぞ」

俺は合図を出した。

一斉に走り出して、目の前のキャンパスに逃げ込む。


群衆も走ってついてくる。


途中、館内の廊下を何度も曲がりながら、群衆をかわしていく。

後ろばかり気にしながら走っていた。


ふー、ようやく振り切ったか…

そう思った時には、よくわからない場所にたどり着いていた。


「疲れた…」

彼の和服は、走った影響か皺まみれになっていた。

彼自体もぐったりしている。


しかし、どこかで休憩したいな。

辺りを見回していると、

「おい、涼太。金井君。ここによさげな部屋があるぞ!」

和也が探してくれていた。

ナイス和也。


休憩したい気持ちが3人とも強く、

何もしらずに傍にあったある部屋へと入り込む。


これは一つ、神様からの道しるべだったのかもしれない。


部屋の扉の横には、風流な文字で綴られた木目調の看板が。

「絵画印象派研究会」


13.桜舞い散るトークン交換


部屋の中には

油絵の独特な匂い、スケッチキャンパスのおびただしい数。

おそらく万人受けしないであろう抽象的な作風。


「おお、このデザインはなかなか興味深い。

この作成者に話を聞いてみたいものだね」

金井はこの部屋の世界観に少し胸を弾ませているようだった。


すると、

「ああ、これはね、もう卒業された先輩の作品だよ」

言葉に呼応するように、部屋の奥から部員らしき人の返事が聞こえた。


だが、周りは作品だらけで声の主を肉眼で確認することは出来ない。


ああ、あの奥だな。

恐る恐る部屋の隙間を進んでいく。

部屋の角には小さな机が一つ、ポツンと。


おびただしい数のキャンパスに埋もれる形で、

小汚い机を挟んで、物静かに男女が向かい合わせで座っていた。


「君たちも、入会希望者かい?」

物腰柔らかそうな感じの男性がこちらにゆっくりと微笑みかける。


「いや…、たまたま入っただけで」

「あの、作品は誰が書いたんですか?」

俺の返事をかき消すように金井が質問を入れ込む。

「これは、卒業された先輩の作品でね、大分前の作品だから、もう誰のか分からないな…」

その答えに、露骨に金井は落ち込んでいた。

何か聞きたいことでもあったのだろうか。


「そんなことより、君たち新歓サークルの恒例行事をしておかないと!」

先輩はそそくさと俺たちを部屋の中央に集まるように促す。


奥のテーブルに座っていた黒髪が綺麗な女子も、

その重たそうな腰をゆっくりと上げた。

「さあ、トークン交換会だ」

先輩は上機嫌そうだった。

トークン交換会。


それは、個人トークンを1トークンずつあげ合うことで、

名前と評価を覚えてもらう。昔の名刺交換みたいなもの。


俺たち3人は既に交換済みだったので、

実質は、黒髪女子との交換会だった。


「ピッ」

特に、会話することもなく電子音だけが室内を木霊する。


「ムカイ サクラ 2トークン」

マイナンバーカードにそう表記された。

あれ?

2トークン、おかしいな。


同姓同名でも別々に記録されるはず…


ということは。

不思議に思って、相手の顔を見やる。

彼女も不思議に思っていたのだろう。

お互いの視線が一つの点に結びつく。

…、

ムカイ サクラ

ムカイ 桜

向 桜。


以前、手をかけるところまできて消失してしまった

記憶の引き出しが再び出てくる。


今度は逃さない。

ゆっくりと慎重に引き出しを開く。


その引き出しの中には古びた針と桜の花びら。



「あの時計博物館の時の…!」

嬉しさのあまり

そこまで声に出したが、途中で針を進めることを自ら制した。


俺の言葉とは裏腹に、彼女はまだキョトンとしていたから。


見るからに、思い出してくれてはいなそうだった。


なんとも切なくなった。


「ああ、桜くんじゃないか、久しぶり!」

「京一郎くん!」

黒髪の女性はもう一人の方に

後ろ髪をひかれるようにして、

俺のもとを去っていった。


窓から地面に落ちた桜の花びらがとても儚げに見えた。


なんでも、金井と桜は中学生からの同級生だそうだ。


俺は小学校の時に転校しているから、そのあとに出会ったのか。


二人が楽しそうに談笑しているのを見て、なぜか少しむしゃくしゃした。

桜の木が外で揺れ動いている。


しばらく時が経って先輩が、神妙な顔つきで話し出す。


「来てもらったところ悪いんだけど、君たちには残念な話があるんだ。

サークルは3人以上じゃなきゃ存続できないんだけど、見てもらって分かる通り

今は僕一人なんだ。

そして、僕も個人的な都合で4月いっぱいで辞めるんだ。

だから、君たちには悪いけど、このサークルはもう終わりなんだよ」


もの悲しげにキャンパスを見つめながら、懺悔のように語った。

瞳の奥には、大粒の結晶が込み上げてきている事がはっきりと分かった。


その先輩の言葉と表情に、心から込み上げるものがあった。

響く何かがあった。

「じゃあ、俺が部長になって引き継ぎます。金井と桜を入れて」


14.金井「教授」


その一言に、皆がそれぞれの表情をみせる。

先輩は、驚きを。

和也は戸惑いを。

金井は好奇心を。

桜は不安を。

その感情のキャンバスが、部屋の空気感を新たにデザインしていく。


不思議な空間が形成されていく。


「金井と桜がもし入部したい気持ちがあればだけど」

そっと、そう付け加えといた。


誰も何も言わなかった。


結局一週間後の今日に、

入部希望の者はまたここに集まることにしようということになった。

全員が集まれば、部として活動。

誰かひとりでも欠ければ、部としての活動は出来ない。

それでも、恨みっこはなしと。


「考えさせて」

去り際の桜の一言に、ひどい既視感を覚えた。


幼い頃にも言われた気がする。

記憶の二段目の引き出しは開きそうになかった。


期待と不安が入り混じる一日は、あっという間にすぎていった。


数日が経ち、いよいよ大学での授業が始まった。


そういえば、時計の技師に関する学科は俺と金井の二人だけ。


今時、コピー機で腕時計なんかすぐに作れるし人気ないよな。そりゃ。


時計技師の先生って、いるのか?

ふと、そんなことを考えながら指定された教室にとりあえず入る。


ひどくせまい教室だな。

しばらくして、金井が入ってくる。

「おはよう」

「はよー」

挨拶もほどほどに、始業のチャイムが鳴る。


一行に誰も来る気配がない。

「…あれ、先生おせーな」

少しいら立つ。


するとスーッと、金井が教壇の方へ歩いていく。

和服が床に擦れている。

彼は、和服の悲鳴には気づかない。


教壇に立った彼は

「言ってなかったか。涼太の先生は僕だ」

うん。意味が分からない。

「は?金井も生徒だろ?」


「そうなんだよ、生徒だけど先生なんだ」

おもむろに教員給料用のトークンを見せてくる。


意味をすぐには飲み込めなかったけど、

よくよく考えたらこいつ以上の先生なんか

早々いるはずもないなと納得した。


「金井先生、何かルールはあるか?」

「先生はやめてくれ、あと京一郎でいいよ」

それが、このクラスに決められた唯一のルールだった。


「あと、この教室じゃ何にも出来ないから、明日の授業から僕の作業場ね」

あくびをしながら無頓着な先生はそうぼそりと呟いた。


こうして、京一郎の自宅の作業場が授業の場となった。


昼間の豪邸と初めて対面する。

暗闇の中で見た時よりも大きく感じた。


作業部屋に入ると、金井はすぐに職人の世界に入り込んでいった。

なるほど。

見て学ぶしかなさそうだ。


基本的に、彼は何も教えてくれなかった。

じっと、京一郎の作業の様子を眺める。

疑問に思ったことをメモする。


その疑問を、そこらへんに転がっている専門書でひたすら調べていく。

この繰り返しが授業の日常となった。


この日々は意外にもすごく楽しかった。

一流のモノがカタチになっていく過程を見ることが出来たのは本当に大きかったのかもしれない。


時計技師に対する情熱は、以前にもまして燃え上がっていった。


15.真の評価者


教科書も指導も一切ない授業。

その授業に最初は戸惑いがあったが、徐々に慣れてきた。


そそくさと取っ散らかっている時計制作に関する本を片付けつつ、

自分のスペースを確保しながら、知識を取り込んでいく。


授業時間中は一切互いに言葉を発さない。


というより、京一郎のその研ぎ澄まされた集中力に圧倒される。

その、時計に潜り込む姿勢。

深く深く入り込む。


同じ部屋にいるのに、別の世界にいるような感覚。

今までに味わったことが無い職人の空気感。


その臨場感を背に

俺は、俺なりに必死に勉強していた。

先生がもはや先生の機能を果たしていないので

どう勉強しようか、最初はもがきにもがいた。


まず、勉強の教材はこの部屋に幾らでも転がっている。

宝の山だ。

これを見てみるか。

目の前にあった分厚い本をおもむろに取って読んでみる。


…、…。

全部英文じゃねーか。


まあ、今時マイナンバーカードにかざせば

速攻翻訳してくれるから問題ないけど、面倒くさい。


といってもこの勉強法しかない、

観念してマイナンバーカードを取り出す。


「ピッ」

ほれ、すぐ日本語だ。

「コンプリケーションウォッチとトゥールビヨンが同義でありながら、同義でない」

…何を言ってるんだこのカードは。


それからも、いろいろな本を翻訳して気がついた。


翻訳はきちんとしてくれているらしい。

それは間違いない。


ただ、専門用語が多すぎて何を言ってるのかさっぱりわからない。

結局、英語も日本語も暗号文にしか見えない。


どうしたものか…


別の本を翻訳する。

お、これは少し意味が分かるぞ。


この本で、専門用語の意味を探そう。


結果的に、難しい専門書の原文を日本文に翻訳して、

そこから出てきた分からない言葉をさらに

他の本で調べるという方法をせざるを得なかった。


世の中、全然便利になってねーじゃねーか。


その愚痴を夜ごはんの際に、京一郎にボソッとこぼした。


他の話題では、

「そうだね、実に興味深い」

とニコニコしていた京一郎の表情が、

この愚痴にだけは歯を見せなかった。


「いいかい、涼太。世の中にある情報はこの世の全てじゃないんだ。

評価がものすごい高い人はごくまれにいる。その人たちはみな共通して、教科書のない茨の道を駆け抜けて、孤独に打ち勝って得た名声なんだ。

教科書だけで完結している人間は、永遠に一流になれないよ。

時計制作も最後は自身の感性が奏でるほうに突き進むといい」


真面目に京一郎はそう語った。


夜が更け、吸い込まれそうな暗闇を背景に、

月の光でやんわりと照らされた夜道の京一郎を

ぼんやりと眺めながら、


「やっぱり京一郎はなんかすげーな」

感想を吐き出してみた。


「涼太もこれからすごくなるから大丈夫さ」

返す刀、彼は更に暗闇に溶け込みながら、

俺の率直な感想に応えた。


「そうか?」

思わず、表情筋が緩んだ。


16.運命の日


ドタバタしながらも一週間は、矢のように過ぎていった。


時計制作にのめり込めた。

その充実感に、身体は喜んでいた。

一方で前に進んでいるという感触はなく、心は震えていた。


京一郎との差に、焦りばかリが募っていた。

身体と精神のバランスは不思議なくらい解離していた。


桜は全て地面に還り、新緑が芽生えだしていく。


今日は久しぶりに違う方面の電車に乗り込んだ。

図らずも、京一郎と偶然同じ電車に乗り合わせたみたいだな。


何も言わずとも、覚えてくれていたことに安堵した。


視線を外に移し、

ボーっとドアから景色を眺めていた。


すると

「コツッ、コツッ」

下駄の音が近づいてきた。


「京一郎、忙しいのにすまないな」

視線は内に戻さなかった。

下駄の音だけで、彼と判断した。


「おはよう。無知の知を教えてもらった抽象絵画には非常に興味があるんだ。

僕はいつまでも無知の賢者でいたいんだ」

横顔の俺に、また呪文のような言霊を時計職人は放った。


景色が移り変わっていく。


天才の知識もこのくらいの早さで移ろい、蓄積されていってるんだろう。


「絵画印象派研究会」の部室につくころには、

下駄の音がこの世界と同化し、

耳障りだと思っていた音が

聞き心地の良いハーモニーに変わっていた。


終盤は下駄の音に合わせるように、俺も歩みを進めていた。


扉の前にようやく差し掛かろうという時

ふとよぎった。

「あれ、そういや部室の扉が開いてないんじゃないのか」

その懸念は内側から聞こえる物音で、一瞬で払しょくされた。


足音が聞こえる。


「誰かもう居るみたいだね?」

「ああ、そうだな。桜であってほしいよな」

「そうだね」

和服に引っかからないようにドアの取っ手を掴んでいるのが、

なんだかおかしく思えた。


部室に入ると

背の高い男性が、そそくさと段ボールを作っていた。

「なんだ部長か…」

思わず本音がこぼれた。


「なんだ部長かとは失礼だな。

せっかく君たちのために部室を開けて待ってたのにさ」

柔らかい笑顔だったが、

手つきは忙しそうにせかせかと動いていた。


「部長、忙しいんですか?」

「ああ、来週渡米しなくちゃいけなくてね。

ちょっと部室の物も持っていこうと整理していたんだ」


「へえー、結構外国とか行かれるんですか?」

コツコツと下駄の音は、俺の耳から遠ざかっていく。


「これで、記念すべき10回目だね。

何か今回は、成果が得られればいいんだけどねー」

困り顔を浮かべながらも、部長はその手を休めなかった。

「部長の絵に関する都合ですか?」

「もちろん、そうだよ。トークンの価値をしっかりと上げていかないとね」


トークンの価値について深堀りしようとしたその瞬間、

「なんだ、桜くんいたのか!」

下駄の主が、部屋の奥の方で突然叫んだ。


向 桜は、まるで自身も作品になったように静かに

それでいて情熱的な絵画を黙々と

部室の片隅で描き続けていた。


17.同じ匂い


「なんだい、金井君。突然大声上げて。

彼女は、君たちよりずっと前に来ていたよ」


部長はようやく作業が終わったのか、

優雅にインスタントコーヒーを注ごうとしていた。


彼女の方に近寄ると、キャンバスに集中していた。

その雰囲気を見て、京一郎の時計制作を初めて見た時を思い出した。


何か近くにはいるのだけど、

オーラを纏った薄い膜が彼女の周りにあるような感覚。


決して、問いかけを無視しているのではなく、

その世界に没頭しているという目つき。


もしかしたら…。

何か同じ匂い。


匂いという表現で合っているのかは分からないけれど、

俺にはたしかに桜から「天才」の匂いがした。


「京一郎」

「ん?」

「邪魔したら悪い、部長と一緒にコーヒーでも飲んでおこう」

「そうかい」

桜の肩に伸びかけた京一郎の手をそっと遮るように、コーヒーの席へと誘った。


コーヒーの香ばしい風味が部屋中から逃げ去った頃、

「あれ、みなさん来てたんですか?」

ようやく桜は俺たちの存在に気付いた。


「やっとかい、桜くん待ちくたびれたよ」

扇子をパタパタと仰いで送られてくる風は気持ち悪かった。


「桜はこのサークル入部してくれるのか?」

気になって仕方がなかった。言った後に少し早まったと後悔した。

髪をクシャクシャにして、前かがみになった。


「ははは」

「ふふふ」

向かい側に座っていた2人が突然笑い出した。


何がおかしいのかとムッとなり、

顔を上げると

「入部届  向  桜」

部長が紙を前に突き出していた。


横から気持ち悪い風が相変わらず俺の髪を揺さぶる。

「京一郎くん。涼太さん。これからよろしくお願いします」


お辞儀を深々とした後、満面の笑みを向けてくれた。

それだけで俺の心はとても穏やかになった。


「僕ももう書いたよ」

ようやく気持ちわるい風がやんだ。

知らぬ間に、京一郎も入部届を出していたらしい。


慌てて、入部届を書いた。

和也は練習で来れない事は知っていたので、勝手に彼の分も書いておいた。


新体制の絵画印象派研究会がこうして無事、誕生することとなった。


18.動き出す時間


目まぐるしく月日は流れていき、

5回目の研究会の活動の時だっただろうか。


「なんか、私たちのサークルが噂になっているらしいよ」

桜から良からぬことを聞いた。


その真相を辿るべく、久しぶりに大学のキャンパスを歩いてみると

張り出された紙が目に入った。

「サークルランキング(新入生入り最新版)」

こんな張り紙もう出されていたのか。


「桜知ってた?この紙のこと?」

「いや、私あんまりこっちこないから知らなかった」

「それより、見てよ私たちの順位!」

彼女は興奮していた。


どうせ、下位だろ…

少し寒い春風くらい、俺は冷めていた。


「1位野球部(前回1位)

2位サッカー部(前回2位)

3位絵画印象派研究会(前回268位)」


あ、天才2人を部に招いたのすっかり忘れてた。

まじまじとその張り紙を確認した。

なんでも部員のトークンの平均値が、そのまま順位になるらしい。


天才二人を入れた我が部の飛躍はそれはそれは凄まじかった。

うん、これは噂になるわな。

少し府に落ちた。


帰ろうと振り向こうとした時、たまたま横の紙が視線に入った。

その内容に、少し固まった。

「おい」

「ん、どうしたの?」

「京一郎は、全学年含めても評価価値が一位なのか?」

「そうだよ、知らなかったの?」

どうりで、教授が京一郎に敬語なわけだ。


…京一郎はなぜ大学に来たんだろうか?

いつか尋ねてみよう。


「なぁ」

「今度はなに?」

「京一郎は昔からすごかったのか?」

「凄かったかは分からないけど、昔から全く変わっていないよ」

あれで変わっていないのか。すごいやつだな色々と。

彼女はゆっくりと、前に歩き出した。


「涼太も全然変わってないよね」

「大分変ったと思うけどな」

彼女の後を追いかけるようについていく。

「全然変わってないよ」

前を歩きながら弾むように、桜は快活にそう答えた。



それは部活動初日のこと。


和也はバスケ部の練習があるので欠席は容易に想像がついていたが、

まさか、京一郎も休むとはおもっていなかった。


後に休んだ理由を聞くと、

「目が覚めたら、もうその時ではなかった」

実に彼らしい返答だった。


ちなみに部長も渡米していなかったので、初活動が2人という

非常に心地の悪い空間となった。


桜はその日もキャンバスに想いを伝えていた。


静かな空間が部室の中を支配する。

うん、気まずいな…


特にすることもないし、

まず勢いでこの部に入ったはいいけど、

活動内容すら決めていなかったな。


今さら成り行きで入部したことを後悔する。


とりあえずインスタントコーヒーでも飲もうか。


瓶に手を伸ばしながら、

チラッと彼女に目を向ける。


コーヒーは、…いらなそうだな。


桜が絵の世界に潜り込んでることが、

その目つきからすぐにうかがえた。


それにしても、気まずいな。


桜、多分昔のこと思い出してないだろうしな。


ひとまず、

コーヒーを飲みながら彼女がこちらの世界に戻ってくるのを待つことにした。


しばらく時間が経った気がする。


「おーい」

遠くから少女の声がする。

周りは時計だらけで、独特の館内の香り。


野球帽に使い古されたグローブ。

肩をトントンとされているが、

身体はまだ動きたくないと叫んでいる。


寝返りを打つと、グローブがころころと床に転がっていった。


野球をした後の帰り道のようだ。

いつものように博物館に来たようだ。


横の少女は、笑いながら俺の頬を引っ張ることをやめようとしない。


その感覚になぜか懐かしみを覚えていた。


身体はふわふわとした感覚をさまよう。


「いった!」

頬に激痛が走って、急に世界が部室に引き戻される。


部屋には、油絵の山。

絵描き部屋の独特な香り。


「こんなこと昔もよくあったよね」

目を開けると、桜が頬を引っ張っている。


「あったっけ?」

「初めて出会った時もこうだったよ」

「初めて?」


「覚えてないの?」

俺に激痛を起こした張本人は

頬から手をどけずに喋り続ける。


「逆に、以前出会ってたこと覚えてたのか?」

鮮明になってきた頭をフル回転させる。


「ううん、今起こそうとしたときに思いだした」

見覚えのある笑顔に書き終えた絵が一枚。



気まずさは天気雨の雲のように、

スーッと流れ去っていったように思えた。


「そうか」

思わず目の前の表情につられた。



少しずつ思い出を話していると、

話題が止まらなくなった。

桜と話せて嬉しいというよりも

懐かしいという気持ちが強かったことが

自分自身でとても驚きだった。


彼女は初活動の日の終わりを

笑顔でその時もこう締めくくっていた。


「全然変わってないよ」


19.すがり寄る評価の養分たち


初活動の日のことを話しながら、

部室にゆっくりと戻ると、

部室の前には

さっきはいなかった大勢のガヤが集結していた。

「絵画印象派研究会の新入部員の追加募集はやってないんですか?」

「今から入部したいんですけど!」


今日いることが

外に出たことで噂として広まったのか。


完全に、あの張り紙のせいだな。


「うちは新入部員募集していないんで」

バタン。

とりあえず扉を思いきり閉めた。

その音だけでもしっかり威嚇をしておく。


「頼むよ、単位が足りないんだ!在籍だけでも!!」

「お前じゃなくて、金井の許可が必要なんだろ?金井を呼んで来いよ」


見るからに集まっている奴は、俺より年上だ。

上級生がこんな乞食みたいなことしてんのか。


「知るかよ」

吐き捨てるようにドアを少しだけ開き返答したあと

さっきよりでかい音が鳴るように扉を閉めた。


その事が、彼らの琴線に触れたのだろう。

部屋の外の声はさらにうるさくなった。


「本当にしつこいね、あの人たち」

「まったくだ、自分の評価を他人だよりか、終わってるな」


皆、評価が欲しいんだろう。

目が必死な事だけはよく伝わった。


評価を求めたその群衆は、

さながら墓場から這い上がろうとするゾンビのそれに見えた。


大学在学中に、努力をしなければ俺もああなるのか。

一瞬よぎった想像に、ひどく武者ぶるいを覚えた。


部室の外があまりにもうるさかったので、

「新入部員お断り」

というゾンビに効くであろう張り紙を部室の扉に貼っておいた。


ゾンビ共のざわつきが一瞬で静かになる。

この紙を貼っておかないと、

承認欲求の権化どもには永遠に伝わらないらしいな。


このお札がじわりとじわりと、ゾンビには効いたようだ。

少しずつ、人影が少なくなっていった。

次の活動の時には、もうゾンビの面影は全く無かった。


「なあ」

「ん?どうしたの?コーヒー淹れようか?」

京一郎は今日も不参加だった。

何でも、展覧会がとても忙しいらしい。

部室は二人が、もはや当たり前のような空間になっていた。


「俺たちもあんな風になるのか?」

無数に転がっているキャンバスを見つめた。

この転がっているキャンバスの数だけ、桜は努力を積み上げている。


「そんなわけないでしょ!さあ活動するよ!」

屈託のないまっすぐな桜の説教が心に響いた。

コーヒーを一気に口に流し込んだ。


ゾンビ共を眺めていて、

一番心に残ったことは物乞いのような入部希望の声でも、

俺に対する罵声でもなかった。

ゾンビが、無邪気にゾンビ同士で電子トークン交換をしていることだった。

こんなところに来るやつらの中に評価が高いやつがいるとでも?


まだ、こいつらは他人の評価にすがっているのか。

思い出すだけでも哀れで、少し腹も立ってきた。


いつもはキャンバスを前に何も思い浮かばずに瞑想から入るが、

この日ばかりは筆が勝手に走った。


今日の絵のタイトルは、既にイメージが出来ていた。

「すがり寄る評価の養分たち」

それなりの禍々しさを帯びた作品にそれは仕上がった。


20.憤怒


出来上がった1枚を睨みつけるように凝視した。

こんな風にはならない。


いつもはイラストを電子化するまでが流れだが

この絵だけはしなかった。


ゆっくりとだが着実に日は流れていく。


湿気っぽい風が煩わしくなってきた季節に

とうとうその日は訪れた。


「第一回個人トークン評価試験」

初めての試験は、大学監修のもとオンライン有で行われた。


どれほど、自分の実力が伸びたのか楽しみで仕方なかった。

試験内容は直前まで知らされず、教室に入ってから初めて知ることとなった。


まずは、実技試験。

筆記試験。

そして、試験官とのオンラインでの面談。


試験官は、直前まで誰だか知らされない。

試験内容に面談があることは、少し意表をつかれた。

そんな対策は微塵もしていない。


まあ、いいか。

目の前の試験に集中しよう。

今の俺ならいけるだろ。


日が昇りきる前から試験が始まり、

筆記試験が終わったころには、窓から夕陽が差し込んでいた。


最後の、試験官との面談。

黒板を凝視していると

「やあ、お疲れ」

聞きなれた声が画面を通じて伝わってきた。

見慣れた和服に丸渕眼鏡。


「なんだ京一郎か」

これなら、評価も普通に上がるだろう。

胸をなでおろした。


どんな質問が飛んでくるのかと思ったが、

いつも通りの他愛のない話をして、面談の時間は終わった。


これはいけるな。

試験の出来に、充実感が溢れていた。


試験の結果の知り方は、即日反映されるトークンの価値で分かるとのことだった。

試験の点数などは一切公表されない。

ただ厳重にブロックチェーン上に保管されるため、改ざんの心配は一切ない。


次の日ウキウキで電車から降りて、トークンの消費量を確認してみる。

「240トークン」

あれ、変わってなくないか。

その日は、気のせいという気持ちもあり、京一郎の家で粛々と作業に励む。


ちなみに、京一郎は多忙のため、最近は家にも不在である。

場所だけを借りているという状態が、ここ最近の当たり前になっていた。


翌日、もう一度しっかりと確かめてみる。

「240トークン」

なんでだよ。


その日、多忙を極めている京一郎が日本に戻ってくる。

そのことだけはしっかりと把握していた。


先に作業部屋に待機して、心を落ち着かす。

が、怒りの渦に身体が飲み込まれる。


ガチャっと部屋の扉が開いた。

「試験の結果どういうことだよ」

怒りのあまり声が少しかすれた。

開口一番怒りが溢れてしまった。


「やあ、涼太。久しぶり。

試験の評価は、友人とかは抜きにして適切な評価をしたまでだよ」


「なんの成長もしてないってことかよ?」


「成長はしているけど、欠けているものがある。その評価をしたまでだよ」

飄々と心無い返答が、耳から心に蝕んでいく。


「ふざけてんのか」

和服の胸倉を掴んだ。

「間違ってるだろうが、評価の仕方」

怒りのあまり、声が上手く出せなかった。


彼は、ゆっくりと俺の手を振りほどいた。

「僕の評価が気に食わないならそれでもいい。ただ、この事を理解しないとこれ以上、君は上には進めない」

ふざけんな。

その日以来、彼の家には行こうと全く思わなくなった。


自力で何とかしてやる。<21話へと続く


Content image

<筆者の裏話>

今回「仮想通貨な世界」1‐20話をお送りしました。

毎回、加筆修正を重ねて記事にアップデートして

投稿しています。

毎日、1話ずつ記事に出している時は、かなり粗削りな状態で出しています。

本来、小説執筆には、何度も寝かして、話の密度を上げていく必要があります。

ただ、1回目の投稿では寝かす作業は行っていません。

あくまで速度優先です。


そのため、まとめの記事の際に改めて、構成・推敲を行います。

再度加筆・修正することで、小説のクオリティーを徐々に上げていきます。

この何度も練り直しを繰り返すことで、小説の精度を上げていき、

更に深みのある面白い作品にしています。


21話からいよいよ、涼太の時計技師としての人生が、

少しずつ動き出していきます。


これからも、粗削り小説「仮想通貨な世界」をよろしくお願いします!




公開日:2018/08/13
獲得ALIS:18.70
とけい's icon'
  • とけい
  • @nonbiritokei
映画好きな、酒飲み

投稿者の人気記事
コメントする
コメントする
こちらもおすすめ!
Eye catch
クリプト

UNISWAPでALISをETHに交換してみた

Like token Tip token
39.40 ALIS
Eye catch
クリプト

【DeFi】複利でトークンを運用してくれるサイト

Like token Tip token
54.01 ALIS
Eye catch
クリプト

Eth2.0のステークによるDeFiへの影響を考える。

Like token Tip token
43.10 ALIS
Eye catch
クリプト

Uniswap v3を完全に理解した

Like token Tip token
18.92 ALIS
Eye catch
クリプト

Uniswap(ユニスワップ)で$ALISのイールドファーミング(流動性提供)してみた

Like token Tip token
59.99 ALIS
Eye catch
クリプト

【初心者向け】JPYCを購入して使ってみました!

Like token Tip token
30.03 ALIS
Eye catch
クリプト

コインチェックに上場が決まったEnjin Coin(エンジンコイン)コインを解説

Like token Tip token
21.49 ALIS
Eye catch
クリプト

バイナンスの信用取引(マージン取引)を徹底解説~アカウントの開設方法から証拠金計算例まで~

Like token Tip token
3.50 ALIS
Eye catch
クリプト

スーパーコンピュータ「京」でマイニングしたら

Like token Tip token
1.06k ALIS
Eye catch
クリプト

17万円のPCでTwitterやってるのはもったいないのでETHマイニングを始めた話

Like token Tip token
46.60 ALIS
Eye catch
クリプト

2021年1月以降バイナンスに上場した銘柄を140文字以内でざっくりレビュー(Twitter向け情報まとめ)

Like token Tip token
38.10 ALIS
Eye catch
クリプト

ジョークコインとして出発したDogecoin(ドージコイン)の誕生から現在まで。注目される非証券性🐶

Like token Tip token
38.31 ALIS