仮想通貨の世界に入り込み、
日本円の存在意義・おいてはフィアット通貨の意義を
よく考察するようになった。
たまには、真面目な論文調で真のトークンエコノミーを
ジンジャーハイをガソリンに思うまま
綴ってみようと思う。
酒の勢いでどこまで書けるのか、筆者自身もとても楽しみである。
トークンエコノミーという言葉を聞いたことがあるだろうか??
トークンエコノミーとは、直訳すると「代替貨幣の経済」という意味になる。
仮想通貨が普及するということは、法定通貨(日本円など)に介する必要が無く経済が成り立つという期待がある。
これはサービスを提供したい側が、貨幣の代わりにトークンを発行し、それをユーザーが購入することによってトークンに価値が生まれる仕組みである。
要約すると、その世界(トークンエコノミー)では、日本円など必要とせずに成り立つ社会・経済圏のことを指す。
意味は分かるが、疑問に思うことが一つ。
実際問題、トークンエコノミーは可能であるのだろうか?
多くの人の答えは「NO」であり、
仮にトークンエコノミーが成り立つ空間を認識しても、
そこからどうフィアット通貨に還元するかを考え始めるだろう。
仮想通貨の知識及びその投資の界隈の心理状況から、この答に至った。
トークンエコノミーというが結局は、日本円と換金できるかどうか?
ここに念頭を置いている人がほとんだと思う。
本来のトークンエコノミーは
日本円また国家に頼らなくても完結できる経済圏が理想だ。
でも、現実問題として不可能だと思っていた。
少し前までは。
そこに、仮想通貨の台頭で一気に現実味を帯びてくることになる。
これは紛れもない事実だ。
ただ、ここで指す現実味は理想郷である「トークンエコノミ―」ではない。
日本円や仮想通貨を用いて、人気の高いトークンエコノミーのトークンを入手して高い時に売り捌く。
この投機的側面がより強固になると考えている。
では、投機はトークンエコノミーに対して絶対悪なのか?
そんなことはない。
むしろ好影響を与えることもある。
それは、トークンエコノミーの認知向上である。
トークンエコノミーを上手く循環していくためには、
その経済圏と認知度を拡大・向上していく必要がある。
そこにうってつけなのがこの投機である。
投機は軽い性悪説かもしれないが、認知度向上マーケティングで一役買う。
投機対象の流動性と認知度向上を甘く見てはいけない。
仮想通貨が認知されはじめたのは投機対象、
つまりフィアット換算で儲けられるからという観点が大きくあった。
ただし真のトークンエコノミーを目指すには、
そのエコノミーだけで完結しなければ、真に成功したとは言えない。
つまり、黎明期のトークンエコノミー拡大において
投機という多少の「性悪説」を用いた手段を投じてでも、
知名度とトークン流動性をつかみ取っていく必要性があるのだ。
性悪説は、認知度をあげたい場合、非常に有効なマーケティングである。
トークンエコノミーの課題はその普及プロセスの難しさだと考えているので、
もう少し土台ができてくると
トークンエコノミー×性悪説マーケティングが流行るかもしれない。
では、ここで指す性悪説とは何かをもう少し深堀してみよう。
人気を取るためにはあらゆる手を使って、無理やり持ち上げる方法。
それがここで指す性悪説マーケティングである。
投機は、性悪説マーケティングに近いが、
性質がそちらよりというだけである。
根っこからそうというわけではない。
最たる性悪説マーケティングは、炎上商法である。
もしくはフェイクニュースである。
このようなマーケティングは、
非常に人気及び知名度を上げるのはうってつけである。
なぜなら、「○○というトークンエコノミーのトークンを買えばあなたは必ずお金持ちになれる」という
嘘のマーケティングを仮にしたとする。
幼稚な嘘ではこの情報社会の渦の中にすぐ消えてしまうので、中身も精巧に作る必要があると少し補足しておく。
信憑性を増したマーケティングに、いずれ食いつく人が出てくるだろう。
そして、認知度が上がってきたところで、嘘だと明かす。
意図的にバラすのである。
すると、裏切りに対する怒りとそのガヤで、認知度は一気に向上する。
善意的なマーケティングに比べて、2段階のマーケティングになるこの手法は強い。
結論として、性悪説マーケティングはミルフィーユのような層の厚いマーケティングとなるから強いのである。
では、性悪説マーケティングを行うべきであるのか?
あまりお勧めは出来ない。なぜなら、認知度向上の代償として
人名・ブラント及びサービスをすべてダーティなイメージにしてしまうからだ。
ただそれさえ見越して、マーケティングをしているツワモノをたまに見かける。
具体的な名前は挙げづらいので、たとえでお茶を濁すとしよう。
アニメのジャイアンと映画版ジャイアンがここで最も分かりやすい例となる。
アニメのジャイアンは何でもありで、非常に汚い手も普通に使う。
これだけだと、ジャイアンは非常に悪いやつだというイメージで終わるだろう。
それでもジャイアンの全体像に、あまり悪いイメージがない理由。
それは、年に1回しか見せない映画版のジャイアンを皆が知っているからである。
映画版のジャイアンは男気があって本当に仲間想いで優しい。
そのギャップには人は皆許すのである。
さて、炎上マーケティングに話を戻そう。
炎上マーケティングだけを仕掛けると、アニメ版ジャイアンしか世にいない。
すると、極悪なイメージばかりがそのブランドには残る。
だが、予め映画版ジャイアンに見せるようなマーケティングを設計していたとすればどうだろう。
そのギャップに、同内容のマーケティング手法より、よく映るのは自明のことであり、
何よりこのマーケティングでブランドの自浄装置を設置することが出来る。
認知度だけを残して、徐々にクリーンなイメージだけ残すことを可能にするのである。
稀に意図してこのマーケティングをしているモノやサービスを見かけることがある。
末恐ろしいと著者は感じる。
長々と性悪説マーケティングを語ってきた。
トークンエコノミーとは信頼を担保に成り立つエコノミーである。
つまりこの性悪説マーケティングとトークンエコノミーは絶対に組み合わせてはならないマーケティングだと考える。
少なくとも、著者はこんなマーケティングをしているトークンエコノミーに参加しようとは微塵も思わない。
それでも、長々と性悪説マーケティングを綴ってきたのは
短期的な認知度向上と爆発力を持っているこの手法が、いずれ流行ると考えているからだ。
長期的な設計をしてマーケティング出来るサービスは、意外と少ないと考えている。
性善説マーケティングとは、
言い換えれば普通のマーケティングということである。
地道な作業が続く。
それは、認知という側面において、非常に相性が悪く、かなり時間を要する。
認知は、何かのきっかけとタイミングが無ければ向上しようがない。
性悪説マーケティングを評価するとすれば、認知向上の仕掛けが、あるゆる場所に仕掛けられているという点である。
性善説マーケティングでは、
このトークンエコノミーは何者であるのかという点を
意図的に認知させるマーケティングがより必要となる。
そのサービスを認知させるマーケティングは非常に難しい。
認知だけを押し出した広告は、視聴者にとって煩わしいものになる。
飛ばし読みされるか、敬遠されるだけでマーケティング自体がむしろ逆効果になる。
そこで、考えられるポイントは概念化である。
もっと、簡単にいうとキャッチコピーである。
性善説マーケティングを挙げる代表的な例は、お笑い芸人の「千鳥」である。
彼らは、大阪では屈指の人気を誇っていた。
だが、東京進出では大分苦労した。
関西で使用されていた芸風は、
東京では「汚い」という
ダーティーなイメージに結びついたからかもしれない。
その千鳥がどう東京に仕掛けていったか。
そう。千鳥ノブの
「クセがすごい!」
である。
この強烈なキャッチフレーズが、千鳥が岡山の方言を使う事・千鳥の漫才スタイルロケの特徴を知らしめる
認知度向上マーケティングとしての全てを担ったのである。
そして、分かりやすい認知度向上マーケティングは、
一番流行りに敏感である女子高生の琴線に触れることとなる。
このようにして、千鳥は一気に全国区に駆け上がった。
ある日の深夜、この夏のZaifさんとどうすれば、国産ICO「ALIS」が盛り上がるか議論させていただいたことがある。
その中で出させていた例も「千鳥」であり、
「なんかおもしろい」の認知度向上マーケティングの最も分かりやすい例だと
今も思っている。
先ほどの主題で「認知と概念」と題をつけたのには意図がある。
分かりやすい認知は「あざとい」と評され、
好意的なマーケティングには決してつながらない。
「概念」のようなふわっとした「認知」、
ここに当たり前のようにあるマーケティングこそが至高であり、
最もブームに繋がるのである。
顕著な例がLINEである。
当たり前にあるが、なんでここまで認知に至ったのかよくわからない。
でも、ないと生活に困る。
「トークンエコノミー」の理想形はここにあると感じている。
結論として、今のトークンエコノミーはまだまだ黎明期である。
概念自体が消失してしまう可能性も否定できない。
そこで、認知度を強く意識したマーケティングを行う必要性がある。
ポイントは前述したとおり、流動性と性善説とキャッチコピー。
日本円の投機の要素を
最初期は絡めていきながら、地道に地盤を固めていく。
そして、そのトークンエコノミーの特徴を表すような
キャッチコピー・二つ名を誕生させ、トークンエコノミーとは別に独り歩き
していくことが理想だと思う。
「クセがすごい」で千鳥を知った人のように。