先日シーチキンを頂いたという話を書いたかと思う。
皆さんご存知の通り、シーチキンはとても美味しい。
料理に使ったら美味しいに決まっているが、そのまま食べても美味しい。
頂いてから既に3缶食べてしまっているのだが、食べ方が全て直なのである。缶から直で食べている。というのも、夜中に小腹が空いた時にどうしてもシーチキンが目に入る。食べたい。しかし料理をするような時間でもないし気力もない、良いか、そのまま食べるか、缶を開け出汁醤油をちょっと垂らし、そのまま食べる、旨い。
そして気が付くと、缶の中に残った油もすすっている、醤油と混じってちょうど良い具合にこの油が美味しいのだ。しかし、ふと我に返る、夜中にシーチキンの缶から油をすすっているというのは人としてどうなのだろう。
油赤子という妖怪をご存じだろうか、夜中に家に入り込み行灯の油を舐めてしまう妖怪だ。僕のやっていることは、どちらかと言えば人よりこの妖怪に近い。
だがシーチキンの油が旨いのだ、特に夜中、小腹が空いているとき。僕でなくとも夜中に油っぽいラーメンを食べたくなったりするのではないだろうか、それと同じだ。ラーメンではなくシーチキンの油をすすっているというだけのことで、気持ち的には同じことである。そこでちゃんとラーメンを作るのが人で、シーチキンを缶から直で食べるのが妖怪、と言われてしまえば反論の余地がなくなってしまうのだが。
それにしても何であんなに夜中のシーチキンは旨いのだろう、油赤子も一度シーチキンの油を舐めれば二度と行灯の油を舐めようなどとは思わないだろう。行灯の油は菜種油かなんかだろうか、直で舐めてそんなに美味しいとは思えない、しかしシーチキンの油は違う、直で舐めても旨い。まあ僕のうちには来ても無駄だ、僕が全部舐めてしまうので油赤子の分は無い、残念だったな、と言っている僕の、鏡に映った姿はまるで油赤子そのものなのであった、っていう怪談は作れそう。
おしまい。
「日常」カテゴリー、さゆりさんが書いてくださいました。良い感じに日常です。
皆様の「日常」お待ちしております。
何でも良い、本当に何でも良い、今日の僕の話は「シーチキンが旨い」というだけのことでそれ以外に何の意味もない。シーチキン旨いと言いたかっただけだ。そんなんで良いのかよ、とお思いか、そんなんで良いんです。さあ書いて、今書いて、さあ!
皆さんが書いてくれないと僕は日常で最もどうでも良い話題、天気の話を始めるぞ、良いのか、それで良いのか、良くないだろう。