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どういうわけかこの三年ほど、奥さんと二人アジアをふらふらとしています。その前は半年間マレーシアで日本語教師をしていて、そのまた前は何年もアジアを中心に、遠くはカリブ海まで足を伸ばしたりと、何やら旅暮らしの人生です。
どうしてこんなことになってしまったのか、簡単に振り返ってみることにしてみます。
* * *
子どもの頃に「何になりたいか」と聞かれた記憶はないのですが、同時に「何かになりたかった」という記憶もありません。
高校生くらいになって、なんとなく「将来どうするか」といったことが頭に浮かんでくるようになったとき、「サラリーマンにはなりたくないな」と思った覚えがはっきりあります。
心理学に興味があったのですが、就職が難しそうだなと考えて、そっちに進むのはやめました。会社員になりたくないと思ってたくせに変な話です。
それで大学は、Apple II を持っていた友だちの影響で、コンピュータのソフト系に進みました。
大学時代は、ロクに勉強もせず、友だちが立ち上げた会社に入り浸り、 UNIX 上で C を使ったプログラミングをアルバイトとしてやりました。
大学を出るときには、「一生に一回くらいは会社員になるのも経験としていいかな。まあ二、三年なら」と思って、技術職で会社勤めを試みました。結局、二年を待たずにやめてしまったのですけれども。
1990年、まだバブル経済がそれなりの勢いを持っていた時代のことです。
会社をやめるとき、せっかくだからこの機会に外国にでも行ってみようと思い、本屋で目に入ったガイドブックをぱっと気分で買って行き先を決めました。
ヒマラヤの国ネパールです。
たぶんこれが、ぼくの人生の行く末を決める、大きな分かれ道だったのでしょう。
ネパールと合わせてタイにも少し滞在したこのひと月の旅で、ぼくの中に「日本とは違う文化のあり方」というものがしっかりと根を下ろしたことは間違いありません。
車もバイクも通れないヒマラヤ山麓の山道を一週間ほど歩き、電気もガスも水道もない宿で寝泊まりしました。
人間というものはきれいな水と煮炊きのための火さえあれば、文明的な暮らしができるんだなとそのとき思ったことは、今でもはっきり覚えています。
そのあとは専門学校や塾で先生をしたり、身体や精神の「障害」を持つ方たちのための施設で働いたりといった、アルバイトで食いつないできました。
結婚は二度しましたが、一度目の結婚は四年で終わりを迎えました。円満に離婚ができたことは幸いでしたが、今改めてこのことを文章にしてみると、そのときの痛みがまだ完全には昇華できず、体の中に残っていることを感じます。
二度目の結婚をして、いつの間にか二十年近い歳月が立ちます。人からは仲がよいですね、と言われることが多いのですが、決しておしどり夫婦というわけではありません。
今でも小さなことで喧嘩を続ける日々で、けれども、二人ともしばらく前からヴィパッサナ瞑想というものをやるようになったので、昔よりはずいぶんこなれた関係になってきたかなと、ようやく少しほっとした感のある今日この頃です。
うちの奥さんは、ぼくに輪をかけて日本社会に違和感を感じる人間なもので、彼女はぼくと結婚して初めてタイを初めとするアジアの国々に行き始めたのですが、実のところ今ぼくがこうしてインドで不思議な時間を過ごしているのは、彼女の力によるところがほとんどなのです。
この文章の題名として「代償」という言葉を使ってみましたが、それはこの「放浪生活」をすることで何かを失ったのだ、という意味ではありません。
ただ、人生において「二つのことを同時に選び得ない場面がある」という、前の奥さんが別れるときに言った言葉を、なんとなく思い出してのことなのです。
「日本を離れる」という道を選べば、「日本で暮らす」という道は同時には選べません。
「定職につく」という道を選べば、「自由に生きる」という道は同時には選べません。
「ある人と一緒に暮らす」という選択をすれば、「別の人と一緒に暮らす」という選択はあきらめなければなりません。
「どちらがいい」というわけではないし、「違う道を選べばよかった」というわけでもないのですが、「今とは違う、ひょっとしたらありえた人生」というものが、いつでも「今生きている実際の人生の裏側」に無数に存在するのだということを、意識しながら生きるのもおもしろいかなと、そんなことを取り留めもなく思う次第なのです。
さて、みなさんは、今までにどんな分かれ道を通過して、今日という日にどんな人生を歩んでいるのでしょうか。
いつかみなさんのお話も聞いてみたいものだと思います。
[初稿 2018.11.19 西インド、ブンディ]
[改稿 2018.11.30 西インド、プシュカル]