先日、こちらの記事で、前回のAMAで私がした質問の趣旨を述べながら、クリスペの「DAO化」のゴールをどう考えるべきかの序論を述べました。
今日は、「運営にしかできないことが運営の役割」という部分をさらに深掘りしていきたいと思います。
「運営にしかできないこと」は、具体的になんでしょうか?
その僕なりの意見をただ述べても仕方がないので、僕がどう考えたかという筋道に沿って話を進めたいと思います。
まず、「運営しかできない」ことは何かを考えるためには、一回運営という存在が、今、急に消えた世界(以下、この世界のことを仮に「究極のDAO状態」と呼ぶことにします)のことを考えるのが論理的だと思いました。その世界はいろいろなものが足りないと思いますが、そこに足りないもののうちどうやってもユーザー主導ではできないものが「運営にしかできない」ことになるはずです。
もちろんユーザーには様々な技術力を持った人がいますから、全てのことは究極的にはユーザーができないことはないとも言いえますが、みんなが無償でそれに取り組みうると仮定すると身も蓋もないので、ある程度合理的なユーザー像を前提することとします笑。
究極のDAO状態では、ユーザーは自分たちで世界を形作ることになります。
しかし、クリプトスペルズはウェブサイトを用いたデジタルカードゲームです。ウェブサイトやアプリなどのプラットフォームがなければ、そもそも動きません。バグなどが起きてもゲームシステムの中に入れる人がいなければ改善されないままになってしまいます。サーバー代もかかりますね。
したがって、この部分はおそらく最低限の「運営にしかできないこと」になるのだろうと思います。
もっとも、先日ギルマスの交代をプレーヤーの手動にされたとおり、プラットフォームの中でできる限りプレーヤーのできる範囲を広くしていくことは必要という議論はあり得ます。
「DAO化」の中心的な要素は、中央集権ではないステークホルダーによる意思決定です。クリスペも、中央集権ではないユーザーによる投票によって、ゲームを回していこうという意向が見て取れます。
しかし、究極のDAO状態では、誰かどう多数決を仕切るのか、どこでどう多数決をするのかが全くわかりません。TwitterでもDiscordでもいいのかもしれませんが、誰が仕切るのでしょうか。もしそこで何か決まったとしても、どうゲームのシステムに反映するのでしょうか。
現実世界にも選挙制度と選挙管理委員会が必要なように、ガバナンス投票のプラットフォームを整備するのは最低限運営の仕事として必要なのではないでしょうか。
ガバナンス投票の数を制限したり、内容が可能かどうかについて運営が判断することの是非は・・・また次回書きたいと思います。
究極のDAO状態では、仮にゲームが動いている状態だとしても、ゲームをプレイできるだけの状態になるでしょう。
しかし、NFTゲームは、良くも悪くも「Play to Earn」という側面を売りにしていますし、現実にそれを理由に算入してくるユーザーも多いと思います。Play to Earnの側面が何もなければ、ゲームが面白くても他のBCGに遅れを取ってしまうと思います。
そこで、ユーザー主導でPlay to Earnを整えることが考えられますが、これは相当困難です。おそらくその道は、ユーザー皆の力でクリスペの価値を上げて、ユーザーが個人的にスポンサーを獲得したり、ユーザーが大会を開いてそこにスポンサーが現れて賞金を分配したり・・・というところだと思います。
茨の道ですね。
もっとシンプルに、運営が今やっていること、たとえば、トークンの発行及び価値向上に向けたユーティリティの創設、OASYSなど他サービスとの連携、大会景品の配布、ギルド資金の配布などは、直接Play to Earnに繋がります。
この部分はBCGの命綱なので「運営にしかできないこと」といいうるのではないでしょうか。もっとも、軌道に乗ってきたらこの部分も大部分を自動化し、運営の言い方でいう「ユーザ側がクリスペの価値を上げる」ことを通じて自然発生的に高まっていくのが望ましいという考え方もありそうです。
究極のDAO状態では、ただゲームがプレイできるだけで、公式による大会は全く行われません。ランクマッチの賞品もありませんし、チャレンジカップもギルドバトルもありません。フリーバトルはありますが、コロシアムにも特に協賛がありませんので、ただやるだけになります。
・・・魅力ないですね。
上記⑶とも関わるかも知れませんが、大会が開催されて報酬が発行されてこそ熱狂が生まれますよね。カードを買ったり借りたりするインセンティブにもなりますし、経済が活性化します。・・・やはりある程度は運営も関与せざるを得ないのではないでしょうか。
他方で、(私はまだまだチャレカ・ギルバト・公式大会の運営主導大会は必要だと思っていますが)ユーザー主体大会の協賛を定期的に見直して、工夫して、ユーザーやギルド主体のコロシアムに移行していくという方法も考えられるでしょう。ただ、この場合でも運営によるインセンティブ付与など一定の関与は必要かもしれません。
現在、定期的に運営が新規カードを発行して販売しています。
究極のDAO化状態では、ひとまずカードを発行する人はいなくなります。発行しようとしても、誰も発行できません。
それで良いという考えはひとつの立場でしょう。
新規カードの発行は運営の収入源ですが、運営の守備範囲が極めて最小化されれば、この売上げを見込んだカード発行をする必要はなくなるかもしれません。
また、カードを発行し続けてカードパワーがインフレし、既存カードの価値が毀損し、ゲームバランスが崩壊してユーザー離れが起きるかも知れません。カードを発行しなければ、こうした事態は防げるかも知れません。
ただし、カードが発行されないことによるカードゲームとしての魅力の低減には配慮しなければなりません。もしそこを重く見るなら、何らかの形で新規カードの発行を行わなければならず、これはユーザーではできないため、「運営にしかできないことと」となることに帰します。
究極のDAO化状態では、クリスペの価値を他所にアピールするための施策も全く行われなくなります。
最近盛り上がったZaifINOとのコラボレーションなどの動きもなくなります。
TCGVerseやOASへの参入・連携もないかもしれません。
(実際に運営がそうしたように)公式大会の公式配信もありません。
広報やプロモーションは、典型的には運営の役割です。
ただ、この部分はある程度ユーザーでも代わりをやることができますよね。
配信に関しては最近とても活発に行われていますし、SNSで行われる発信のひとつひとつが、すべてクリスペの楽しさのプロモーションに繋がっています。なかなか外部との繋がりをユーザーが行うことはできないかも知れませんが、人脈ほど強いものはありません。もしかしたらユーザーの中で素晴らしいコラボレーションを見つけて持ち込む方がいらっしゃるかも知れません。運営がそこにインセンティブを与えるという関わり方も可能ですね。
クリプトスペルズでは、定期的にユーザーとのコミュニケーションを図る「AMA」が行われていたり、Discordなどを通じてユーザーとのコミュニケーションを図っています。
ユーザーも、AMAで方針を聞けたら安心するとか、逆にコミュニケーションが不足すればそれ自体を責め立てたりしています。
ユーザーと運営とのコミュニケーションが盛んなことは、一見、それ自体望ましいことであるように思われます。
しかし、そこには運営の多大な負担が生じることになります。コミュニケーションはゲームの発展とは直接関係がなく(もちろんユーザーが高評価することによるプロモーション的な意味はありますが)、見方によっては無用な工数ともいえるかもしれません。
究極のDAO状態では、ユーザーとのコミュニケーションはありません。
というよりも、運営がいないのでコミュニケーションという概念がありません。
もしそれで回っていくなら、ないならないでいいという考え方もできそうです。
考慮すべき項目は以上の項目に限られるわけではありませんし、各項目のそれぞれについても人それぞれ違った見解があるでしょう。これは運営にしかできないことだ!いや、これは運営じゃなくてもできることだ!というように、「運営にしかできないこと」がなんであるかについて、様々な解釈があり得るのです。
だから、今の運営が「ここまでは運営にしかできないことだ」というように、「DAO化」を定義しないと何を目指しているのかがわからなくなってしまうということです。その結果、クリプトスペルズがどこに向かっているかが不明瞭になってしまい、そのゴールに向かって行っている種々の施策の方向性もぶれてしまうことになります。そうすると、運営のユーザーに対する説明も説得力が無くなり、ユーザーの不信感を招き、ゲームの人気は落ち、NFTをはじめとした資産の価値も失われてしまうでしょう。とても深刻なことです。
ですから私は、前回の記事で紹介したようなAMAでの質問をしたわけです。
確実な正解がある問題ではもちろんないですが、仮に運営側がこの問題を定義して、「我々の運営はこういう状態を理想とする」という「DAO化」を定義したとき、この定義された「DAO化」状態を、仮に「運営の理想とするDAO状態」と呼ぶことにします。運営の理想とするDAO化をはっきりさせたとき、クリスペの道筋にも光が差すのではないでしょうか。
・・・が。
この記事を読んでいただいて、そして読みながら考えていただいて、違和感を感じている方も多いと思います。僕もそうです。思いませんでした?
「DAO化」とかいってるけど、けっきょく運営がいないと成り立たないんじゃね?
僕は考えながらそう思いました。
僕の前回の記事を見て、僕が運営の指向している「DAO化」を礼賛しようとする記事を書くのではないかと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、全く違います。
DAO化、DAO化といっても、「運営にしかできないこと」の範囲は結構大きいんじゃないか。もちろんそうであれば運営の工数が増大し、運営に支払わなければならないコストも大きくなります。そうなると、「DAO化」を標榜しても、結局実質的なDAO化は、デジタルカードゲームという性質上難しいのではないか。相性があまりに悪いのではないか。その疑問の方が大きくなってきました。
僕の想像力やアイデアが足りないのかも知れませんが、運営の理想とするDAO状態は、「DAO」という状態とはほど遠い、中央集権的な状況にならざるをえないのではないか、と思ってしまったのです。運営の理想とするDAO状態は、そもそもそこを克服しなければならないのではないか、といういいかたもできます。
ここで少し思考を戻して、究極のDAO状態に目を向けたいと思います。
究極のDAO状態を運営の理想とするDAO状態へ向かう思考の出発点としてではなく、究極のDAO状態が現に生じたらと仮定したとき、その次のステップはどうなるでしょうか。
これは、ある程度歴史が証明していると思います。
究極のDAO状態である民衆は、単なる烏合の衆です。
クリスペというゲームを良くしたいと思っても、ワイワイガヤガヤと意見が飛び交うのみで、何も進みません。たまりかねた民衆は、何らかの形で全体的な合意にいたり、民衆をまとめる指導者を選びます。選んだ指導者は、やがて政府となり、そして国家となり・・・というのは現実世界の話。
要するに、究極のDAO状態に置かれたクリスペプレーヤーは、自然に「運営」を自分たち自ら樹立することになるように思われます。そしてその「運営」にクリプトスペルズの発展を委託し、様々な権能を与え、上述したような「運営にしかできないこと」をさせると思います。それが経済的にうまく回ってくれば、運営は利益を得るようになりますし、そのことによってどんどんコミュニティも発展していくはずです。
この状態を「樹立されたDAO状態」と呼んでみることにします。
じゃあ結局「運営」的なものが必要だとすると、運営が理想とするDAO状態と樹立されたDAO状態は何が違うでしょうか。
運営が理想とするDAO状態は、結局運営が決めるゴールであり、その大元は、クリプトゲームズ株式会社が決めるゴールです。そのことに揺らぎはありません。ユーザーは、ユーザーがガバナンス提案して物事を決められるといえども、結局それは運営ないし運営主体となっている法人の意向に沿って行われる状態を脱することは難しいと思われるのです。
他方で、樹立されたDAO状態は、主権をユーザーが持ちます。
もし樹立した政府が気に入らなければ、民主的なプロセスを経て政府を取り替えることもできます。ゲームに人気が出てくればもっと潤沢な報酬を提示して、より有能な政府を樹立することもできるでしょう。樹立された政府は、自らのインセンティブによってユーザーのためになることを行い、ユーザーもそれを厳しく評価します。
こうした民主的なプロセスと自由なインセンティブによって世界が回るようになれば、その世界は潰れることはありません。政権が何百年の単位で交代しつつも、そこにいる市民が滅亡せずに社会を作っている我々の世界のように。
私はこれが、現実的にありうるとすれば唯一、そのことばらしい「DAO化」だと思っています。
もし、運営が「DAO化」を目指して「ユーザーへの権限の返上」を掲げるならば、まず第一の中間的なゴールとして(明確に定義された)運営の理想とするDAO状態を実現し、それを樹立されたDAO状態に移行していくことを指向すべきではないかと考えます。
少し話が長くなってしまいましたが、運営の考えている「運営にしかできないこと」を定義すべきだという話を出発点に、「DAO化」に関する自分の意見を述べてきました。
次回の記事では、ここまでの意見を前提に、現在のクリプトスペルズ運営の各種施策について意見を述べたいと思います。