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「墓読み」という職業は、最近になってようやく一般の人にも知られるものとなったが、実際にはどんな仕事を、どのような人間がしているのか、まだまだ知られていないのではないだろうか。こう書き始めると、さぞ破天荒な生活を送っているのだろうと思われるかもしれないが、その実は大したことはない。
まず、たいていの墓読みは、朝は目覚まし時計の音で起きる。スーツに着替えて満員電車に乗る。ぎゅうぎゅうの車内に苛立ち、吊革広告で時事を知り、若い女性に密着されたら興奮を抑え、時おり現われる外の景色を見ながら少しだけ物思いにふける、……要するに我々の生活と変わらないのだ。
本当は、朝早く起きなくても、スーツを着なくてもよいのかもしれない。それと言うのも就職したときに渡される「墓読みの職業倫理と就業規則」には、始業時間も服務規程も書かれてなどいない。墓読みは、人類の歴史が始まったときからある古い職業の一つで、歴代の墓読み達はその時代時代の生活様式に合わせて職務を行ってきた。何故そうしてきたのかは諸説あり、死者へ敬意を払うため、死後の世界も朝から始まるから、夜は人並みに眠りたい等々、古代から民俗学者や宗教学者、昨今では心理学者から果ては量子物理学者にいたるまで議論を戦わせているが、作者が思うに、墓読みも普通の人間で、他の人達がやっているからなんとなく、というのが本当の理由だろう。
墓読みの就業場所は、言うまでもなく墓地だ。祈るような姿勢で五分ほど墓を読む。終わると辺りをぶらぶらして時間を潰し、夕方の満員電車で家に帰る。一つの墓を読むのに一年ほどかかる。読みわると報告書にまとめる。これには数年ほどかかる。
墓読み達は、この報告書に一番腕をふるう。定形の書式はなく、墓読みの仕事のなかで唯一裁量が許されているからだ。先に数年ほどかかると書いたが、これはあくまでも平均だ。なかには定年まで一つの報告書に没頭する者もいる。(ある墓読みは定年間際になっても完成できず、雇用の延長を申し出たが却下され、仕方なく一行でまとめた)墓読み達は、文豪の作品を読み、文体を真似て哲学書や小説風に、現代では映画のような形式にも挑戦する者がいるが、とにかく毎日、文章をあれこれとひねくりまわし、完成させると上層部に提出する。
提出された報告書について、上層部のコメントは何もない。墓読み達は、これだけ心血をそそいだ報告書に何の意見も言われないのは大いに不満だが、一仕事終えた達成感が勝るので、ビールを飲んで一晩寝たらそんなことは忘れて次の墓に向う。
次の墓地の指定もまた、上層部からなんの指令もない。墓読みが、Aの墓とBの墓、どちらが適格かとお伺いを立てても、上層部からは「職務規定通りに」との返事があるだけだ。ところが、「墓読みの職業倫理と就業規則」には、墓の選定についての項目などないのだ。
そういうわけで、墓読みは空いた時間などに、次の墓を決めておくため墓地をぶらぶらすることが多い。むしろ一日の大半を墓地で過ごす。そのせいか、葬儀社やお寺の住職など葬祭関係者と知り合う。最近、墓読みの存在を知られてからは、それらの人達を通じて、将来自分の墓を読んでくれないかと頼みにくる者が多くなった。一流料亭やホテルで接待を受ける。高価なプレゼント、あるいは多額の現金を渡そうとする者もいる。しかし、墓読みは困り果ててしまう。
どの墓を読むかは墓読みの意志に任せられているが、誰かに頼まれて墓を読むことだけは厳しく禁止されているのだ。過去に何人か、どうせバレないだろうと思って依頼された墓を読んだ者がいた。何の仕事もしていないと思われている上層部だったが、やはり上層部と言われるだけあって、依頼されて墓を読んだことをすぐに察知した。違反した墓読みは即日解雇となり、人類が生存するかぎりその者の墓を建てることを禁止するという厳罰が下った。墓読みの給料は安い…我々の給料が安いという意味でだが。高価なプレゼント、特に高額の現金は喉から手がでるほど欲しい。でも、と墓読みは思う。この先行きが見えない不景気のなかで失業して路頭に迷うのは困る。それに、墓が建てられなくなるというのは自分だけでなく、家族にも子孫にも不名誉だ。墓読みは泣きそうな声で「規則なので…」と言って断るしかない。
墓読みは、依頼にくる人達の墓を読んでもいいと思っている。もちろん、賄賂を貰えるのは嬉しいが、それよりも彼らの気持ちに共感するからだ。墓読み達のささやかな唯一の願いといえば自分の墓を読んでもらうこと。巨万の富、権力、名誉、幸福。人生で人々が欲しいと思うものは多々ある。だが、人間が究極に欲しいものは、人類がこの宇宙に存続する限り、自分がいた痕跡を何らかの形で未来永劫残すことではないだろうか。自分が送った人生、そのなかで味わった悲しみや幸せ、誰にも打ち明けなかった壮大な思想、精神の深奥でひた隠しにしてきた本当の心。天才であれ凡庸な者であれ、誰がこれら全部を的確な形で残したくないと思うだろうか。墓読みもこの例に漏れない。いや、むしろ仕事柄、この願望は人一倍強いと言っていい。
墓読みの組織なら、自分の墓を読んでもらえる福利厚生があるのではないかと思われるかもしれないが、これに関する禁止は外部からの依頼よりも、古来より厳格に守られている。だが、そこは機微が分かっている者同士、飲みに行ったときなどそれとなく仄めかす。まず、相手の杯に酒を注ぎながら最近の仕事のことを聞く。上層部への愚痴や社会への不満をひきだす。建売住宅のローンが大変だ、子どもが大きくなったから教育費の負担が増えたし、やたらと食べるから食費がバカにならない。妻とは会話が減ったし、夜の営みなどほとんどない。それにまだある。こう不景気だと年金は大丈夫なのか。貰えたとしても、我々の上の世代よりも金額が少ないのではないかと。これでは働いているのがバカバカしい。自分の墓を読んでもらいたい墓読みは、そのとおりだと相槌を打つが、このあたりの話になると、自分の目的を忘れて話しに加わる。最近の墓についての議論が始まる。
最近は同じ墓が多くなった。だが、それは墓の形が同じという意味ではなく、読み取る内容、つまり人々の人生が同じなのだと。墓読みとて、波乱万丈の人生を送った人物の墓や、生活は派手ではなかったにしろ深遠な思想を持った人物の墓を読みたい。そういう墓を掘り出しもののように見つけるのが楽しみの一つなのだが、そのような墓はとっくの昔に読まれてしまっており、今ではなかなか見つけることが困難だ。だから、紋切り型の墓ばかりを読むことになる。だが、人々の人生は墓読みではどうすることもできない。この結論に達するとお開きになり、また飲もうと言ってそれぞれの電車に乗る。墓読みは話に満足して、依頼のことなど大抵忘れている。
電車に乗ると墓読みは、最後に話したことを思い出す。実際、同じ人生を送っている者が多すぎる。墓読みは、言うまでもなく読むことが得意だ。人間の言葉、表情、仕草、考え、心、そして、人生を。だから墓読みになったのだが、その能力は日常生活でも発揮される。上層部が主催する技術研修でも、普段から読むことを推奨している。その仰せつけどおり、墓読みは満員電車でも人々を読む。だが、いくら読んでも、車内の隅々まで読んでも、皆が皆、同じ人生を送っている。もちろん、職業や財産、所属する社会の階級で差はあるが、蜜柑のデコボコほどの違いしかない。
墓読みは、窓の外を見ながらため息をつく。これでは報告書に腕がふるえないではないか。それから酒で気持ちが大きくなった墓読みは思う。皆、もっと面白い人生を送れ、それが出来なくても未来永劫語り継がれるようなことを考えてみろ。これでは墓など読まずに、今この場で報告書を書いても同じことではないかと。そんなことを考えているうちに電車は停まり、墓読みは人々と一緒に電車を降りる。自宅に帰る途中で、同僚に自分の墓のことを頼もうと思っていたことを思い出すが、また今度頼めばいいと思って、玄関を開ける。
そして翌日、朝早く起きて満員電車に乗る。いつもの習慣で人々を読むが、人生が昨日今日で変わるわけがない。墓読みは呆れてしまうが、一つ肝心なことを忘れている。それは、自分も彼らと同じような人生を送っているということを。墓読みは、この重大な事実に一生気が付くことはない。それでも墓読みは、死後に自分の墓を読んでもらうことを夢見て、満員電車に苛立ちながら今日もまた生きていくのだ。