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『建売住宅のベランダ』_短編小説

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  • 横紙やぶり
  • 2019/06/03 11:55
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※ 5~7分ほどで読めます。

【1】

 ここ数日、空は曇っていた。それでも、高台に建つこの家からは昼間の街が一望できる。うんざりするぐらいはっきりと。同じような建売住宅と分譲マンション、わずかな緑が点在している街並み。生理とは言え、このような景色は曇り空のほうがむしろ映えるのかもしれない。
 さっき、坂の下から車のクラクションが聞こえた。それからすぐに、年寄りらしき男が怒鳴った。今は、その年寄りと運転手らしき若い男が罵りあっている。何と言い合っているのか、ここからは聞こえない。あの年寄りはおそらく、深夜にゴミを捨てにくるアイツだろう。
 この家を買って三年が経つ。夫が家を買うと言い始めた時、高台の家がいいと言ったのは、そもそも私だった。
 夫と結婚するまで、私は一人で暮らしていた。独身者用のマンションで、向かいには建売住宅があった。休日にカーテンを開けると、主婦が洗濯物を干している姿が見えた。マンションと建売住宅のあいだは、主婦の顔のシミが見えるほど近かったのだ。顔のシミが見えたのだから、私が見たのは洗濯物だけではなかった。夫婦の口論や、主婦が一人で泣いている姿、それからセックスしているのも見たことがある。窓は閉まっていたが、私にはあの女の喘ぎ声が聞こえたように思えた。

 この家で暮らし始めてすぐ、私は花を植えたいと夫に言った。この家には庭はなかった。あるのは建ぺい率のわずかな余りと、隣地との隙間だけだ。私は、二階のベランダに植えることにした。
 あの頃、買い物や仕事の帰りに、よくホームセンターや花屋を見に行った。夕食のあと、インターネットや本で、土や肥料のこと、季節の花などを調べた。次はこの花を育ててみたい、あの花を枯らさないようにするにどうすればいいか、そういうことをよく私は考えていた。これまで小さいサボテンすら育てことはなかったのに。
 だが、私は知らなかったのだ。高台では風が強いことを。特にこの辺りの風は酷かった。
 ベランダの柵に鉢を飾ると、土は馴染むまえに削られてしまう。花も大半の蕾は、咲くまえに吹きちぎれる。残った蕾も、気をつけなければ鳥に啄まれた。それでも私は、鉢を重い素焼きに変えたり、鳥に食べられないようベランダの端に置いたりして、いくつかの花を育て続けた。
 夕方、帰宅すると、私は必ずベランダを確認した。風が強い日には、鉢はよく倒れていた。そういうときは夕飯の支度をするまえに、鉢を直し、ベランダの掃除をして、新しい土を足した。

 最初の秋を迎えた時、インターフォンが鳴った。ドアを開けると、隣の主婦が立っていた。
 主婦は、夕食の支度時にごめんなさいねと言った。暮らしには慣れたかとか、あそこの家には気をつけたほうがいいとか、そういう世間話をはじめた。主婦は私よりも一まわりぐらい歳上で、40代の後半ぐらいだったろうか。髪は薄くなり始め、鼻の下には濃い産毛が生えていた。私はその両方を交互に見ながら話を聞いていた。
 ひとしきり話すと、主婦はそうそうと言った。私はやっと本題かと思った。
「ここに越してくるご家族は、さいしょのうち花を育てる人が多いんだけど」と主婦は言った。「でも、このあたりって風が強いでしょ。それで、土とか花びらが飛んで近所に迷惑がかかるから止めてしまうの。まだ、ご存知じゃないようだから…もし、気に障ったらごめんなざいね」
 隣の夫婦は、毎晩のように喧嘩をしている。夜中でも、給料が少ないとか、子どもの面倒を見ないとか、あたしばっか家事をやってるとか、そういう金切り声が頻繁に聞こえた。そのたびに子どもが泣き、旦那も主婦も静かにしなさいと子どもを怒鳴った。 
 私は何も言わなかった。真夜中の口論や子どもを泣かすことは許されても、花壇の土や花びらが飛ぶことは許されない。都会の住宅地とはそういうところだ。
 薄くなり始めた頭か、鼻のしたの濃い産毛か、どっちを見ていたかは覚えていない。とにかく私は「ごめんなさい。今後は気をつけます」と言った。
 主婦が帰ってから、私はゴミ袋を何枚も持ってベランダに行った。
 いくつかの花は満開だった。私はしばらく夕日に照らされた花を見ていた。わずかな風が吹いていて、花びらはすこし揺れていた。あの時、私はなぜか、マンションの向かいにあった建売住宅にも庭がなかったことを思い出した。
 私は、咲いていた花をすべてむしり取った。葉っぱだけになった茎を抜き、鉢をひっくり返してゴミ袋に土を捨てた。買い揃えた手袋や如雨露やエプロンなどもゴミ袋に押し込んだ。すべてを処分したあと、私は箒を持ってきた。土の塵も残らないよう、何度も何度もベランダを掃いた。土が見えなくなっても私は掃き続けた。
 

【2】

 隣の主婦と言えば、昨夜、私はあの女の喘ぎ声を聞いた。
 ここ数日の曇り空のせいか、昨日は朝から風が強かった。夕方になっても風はおさまる気配はなく、夜になるとますます強くなった。明日はいつもより早く起きなければならないと言う夫と一緒に、私もベッドに入った。
 ベッドにはいり明かりを消すと、風の音が際立った。風はひっきりなしに吹いていた。そのたびに窓がかすかに震えた。それに、ベランダの隅にのこした素焼きの鉢もカタカタと揺れていた。夜中になっても眠れなかった。風の音。窓の震え。素焼きの鉢。私は、これらのものが何かの目的で結託しているんじゃないかと思った。
 私は何度か夫を起こそうとした。彼は鼾をかかない。ただ、口をぽかんと開けるだけだ。その顔を見たら起こす気にはなれなかった。彼のものを口に含むときだって、私はあんな顔をしない。
 私はカーディガンを羽織って、ベッドを出た。
 トイレに行ってナプキンを変えた。洗面所で手を洗いながら、ベッドに戻るか、リビングに行ってお茶を飲むか考えた。結局、私はどちらにも行かなかった。外から物音が聞こえたので、家の外に出た。
 深夜にゴミを捨てにくる人間がいるのは知っていた。ゴミ捨て場は、緑色の網でしっかりと包まれている。でも、日によっては、朝ゴミを捨てに行くと、カラスが網の隙間から袋を引っ張り、通りにゴミが散乱していることがあった。ゴミ捨て場にも、ゴミは朝だすようにと書いてある。
 私はなぜか、犯人の顔を見てやろうと思ったのだ。
 そっと玄関のドアを開けた。ゴミ捨て場のまえに男がいた。街灯の明かりで、すぐに年寄りの男だと分かった。年寄りは、いくつかのゴミを持ってきたのかもしれない。私が見ているあいだに二つのゴミ袋を捨てた。年寄りはゴミを捨て終わると、ゴミ捨て場の蓋を閉めた。ロックがあるはずなのに、それを掛けもせず、その場から離れた。私はカーディガンを合わせて門のところまで行った。
 うちのベランダほどではなかったが、通りにも風が吹いていた。でも、揺れているものはなかった。この辺りの家には高い木がないからかもしれない。あるいは、建売住宅がそういうものかもしれない。とにかく、風の音がするだけで何も揺れてはいなかった。もちろん、あの年寄りの男も。
 年寄りが角を曲がった。私は門を出た。足音が聞こえないように角まで走った。
 年寄りは、坂を下っていき、大きい通りに出る手前の路地で曲がった。あたしはそこまで走った。
 そこは、この辺りでは唯一残っている借家だった。
 初めて家を見に来た時、ちょうどこの辺りから家を見たのを思い出した。高台の縁に、似たような家がびっしりと並んでいた。私は、トウモロコシみたいだと思った。お昼すぎで、日に照らされてそれなりに輝いていたから、茹でたてのトウモロコシだ。でも、トウモロコシの中には、腐っている粒や空っぽの粒がある。私はあの時、あの並びのどの家が腐っていて、どの家が空っぽなのだろうと考えていた。
 言うまでもなく、通りには私しかいなかった。念のため、何度もあたりを見回した。どの家も真っ暗だった。借家からも何の音も聞こえなかった。それでも、心臓がどきどきしていた。
「家も買えない貧乏人が」と私は言った。他にも、今までに口にしたこともない汚い言葉も言った。

【3】

 サイレンの音が近づいてくる。誰かが通報したのかもしれない。私はソファから立ち上がり、キッチンへ行く。
 コップに水を注ぎ、生理痛の痛み止めを飲む。私はソファに戻り、ショールを被って横になった。
 目をつぶると、昨夜のことが再生される。あの女の喘ぎ声を聞いたのは家に入ろうとした時だった。あの女がありきたりなセリフを言っていたこと、あんな女を抱く男がいるのかと思ったこと、私の夫があの女を抱いている姿が浮かんだこと…、そんなことはもう考えたくない。昨夜は一睡もできなかった。私は眠りたいのだ。
 坂の下から、あの年寄りの怒鳴り声が聞こえた。警察が着いたのかもしれない。あんな年寄りは、さっさとどこかに連れていって欲しい。
 私は時計を確認する。夫が帰ってくるまで、たっぷりと時間がある。それまでは、とにかく私の時間だ。私はぎゅっと目をつぶった。
 もう何も思い出したくないし、考えたくもない。この街では、自分の声さえもうるさすぎる。
【終】

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