拙著『魂の螺旋ダンス』改訂増補版より
さて、「地上の権威の相対化」が不徹底であることは、社会的な認識においては重大な差別意識を温存させる可能性とつながったものである。
空海の主著である『遍照発揮性霊集』の第一巻「野陸州に贈る歌」にある次の漢詩を見てほしい。
そこには列島東方の蝦夷(えみし)に対する目を覆いたくなるような差別意識が反映されている。
「田せず衣せず、麋鹿(びろく)を逐(お)い、晦もなく明もなく、山谷に遊ぶ、羅刹の流にして、人のともがらに非ず(田を作らず、織物もせず、トナカイや鹿を追いかけ、夜も昼も山谷で遊んでいる。鬼の類であって、人間の同類ではない)」
「蝦夷は非人である」という言葉は、当時の「一般的な認識」を反映したものなのかもしれない。
その意味では空海が特別の差別主義者であったというわけではないだろう。
彼もまた時代的制約の中にいたと言えばそれまでである。
だが空海が一般人と異なるところは、その差別意識を「見事に完成された美文(漢詩)」にのせて定着させたという点にある。
それは確信的な思想的な営みであって、影響力が大きいだけに見過ごすわけにはいかないものだ。
また『性霊集』第三巻「伴按察平章事の陸府に赴くに贈る歌」では、空海は蝦夷について「豺心蜂性(さいしんほうせい)」(狼の心と蜂の毒針のように人を刺す性を持った存在)であると罵詈を投げつけている。
そして「人面獣心にして、朝貢を肯ぜず」(顔は人間で心は獣であって、朝廷に服属しようとしない)」と深く嘆いている。
一方、第六巻で空海は時の天皇について「今上陛下、体は金剛を練し、寿は石劫よりも堅からん」と美辞麗句を連ねて賛美している。
それらを合わせて考えるとき、蝦夷を差別し、天皇中心の国家を賛美するために、自らの文才を駆使する空海の姿がそこに浮かび上がってしまう。
いずれにしろこの時代の仏教は、平安朝の蝦夷侵略を正当化するイデオロギーと見事に呼応したものだった。
殊に天台宗を興した最澄は早くから桓武天皇と結びついていたため、蝦夷侵略の過程で政治的に果たした役割は空海以上に大きかったと言わねばならないだろう。
実際、蝦夷討伐の命を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂の行く先々には、天台宗の寺社が数多く建設されていく。
蝦夷侵略をもっとも強引に押し進めた天皇である桓武帝は、七八五年日本で最初に「祭天」の行事を行った。
「祭天」とは、天子が天帝の意に従って異民族を統治し、世界を支配することを宣言するものである。
その場所には、桓武帝の母方の百済人にゆかりの深い河内の交野が原が選ばれた。
また桓武帝は、蝦夷に対する徹底的な侵略を行い、そのことによって世界性のある国家を実現しようとした。
大局的に言うならば、それらの背景にあるものは、広い意味での「中華思想」である。
すなわち、自らが世界の中心であり、すべての異民族=「未開部族」を支配する天命を受けているという思想である。
桓武帝の命令で蝦夷征伐に乗り出した坂上田村麻呂は、ついにアイヌの英雄アテルイを捕らえる。
桓武はその斬首を命じる。
一介の戦士としてアテルイとの友情に目覚めていた田村麻呂は、泣く泣くアテルイを斬首したという。
その地もまた、平安京ではなく、交野が原である。
祭天を行った土地で、異民族のチーフを斬首する。
これは、緻密に計算された壮大な思想的パフォーマンスと見ることもできる。
平安仏教はそのような平安期の朝廷の思想と行動を、結果的に側面から支えた存在となった。
政治的には最澄と桓武天皇の結びつきが強いわけだが、空海思想が潜在的に有していたものも同様であり、この思想的限界は長くこの島の精神文化に影響を残したと言わねばならない。
司馬遼太郎の小説『空海の風景』に描かれた空海は、長安留学を通じて、ある種の世界性を得たとされている。
「かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁であるまい」と司馬は書いている。
しかし、『性霊集』に見られる差別思想から見るならば、空海が長安で得たのもは、真に普遍的な意味をもった「世界性」などではない。
彼がそこで学んできたもの一つは「中華思想」であると言わざるをえないであろう。
そして平安朝は、日本で最初に徹底した中華思想に基づいて行動した王朝であった。
この島において、超越性のベクトルが未だ強くなかった時期の仏教は、このようにして神道とともに(あるいは時代によっては神道以上に)国家イデオロギーを支える大きな基盤となっていった。
それゆえそのような時期の仏教について、私は「螺旋モデル」の宗教類型において「国家宗教」に分類せざるをえない。
しかし、なぜ空海はそのように蝦夷を差別せねばならなかったのか?・・・私の思いは複雑である。
前節で考察したように空海は、この島の山林シャーマニズムの心身変容技法との出会いを通し変性意識を体験し、その果てに即身成仏を具現化したはずである。
「心身変容技法が伴う」という点は、密教の最も重要な要素と言ってもいい。
私の青年時代に起こった密教ブームも、若者の「心身変容技法」への関心が引き起こしたものであった。
言葉の次元だけの思想ではない、宇宙的な変性意識体験への人々の深い関心が、繰り返し繰り返し、密教への関心を呼び覚ますのだ。
空海は仏教を中国伝来の経典の知的理解だけに終わらせず、この島ネイティブ・ピープルのシャーマニズムと結びつけることで変性意識体験を現実のものとし、そのことで仏教と修験道の両方の流れに大きな足跡を残したのだ。
またその変性意識体験は山川草木との感応や、時には金星などの天体との感応にも支えられたものであり、ネイティブ・ピープルのアニミズム的な感性とも深く呼応しあうものであった。
しかし、それならばなぜ。なぜ、空海はそれほどの恩恵を与えてくれたネイティブ・ピープルに対して、「恩を仇で返す」ような、差別的な発言を残したのか。
桁外れの思想的巨人であった空海は、限りなき抱擁性でこの島のあらゆる精神文化を抱きとる溶鉱炉になりうるかのようにも見えた。
だが、その内部には蝦夷に対する強い差別意識が醸成されていた。
この時代のこの島では、空海の天才をもってしても(壮大で華麗な思想的総合はありえても)十分な超越性の運動を孕んだ思想は、まだ誕生しえなかったということなのだろうか。