
(「INxxのための自己啓発」シリーズ)
あなたの目の前に山があるなら、その山に登ってはならない。
解決すべき問題があるなら、その問題は安易に「解決」してはならない。
読むべき本があるなら、その本は安易に「読破」してはならない。
これはINxxにとって最も重要な感覚でありながら、現代社会においては最も折り合いがつきにくい部分でもある。
現代社会では、実に多くの場面において「考えている暇があったら、手を動かせ」と言われる。
「そこに山があるなら、その山には登るな」というのがどういうことかを理解すれば、INxxに対しては「手を動かしている暇があったら、考えろ」と言わなければならないのは明白だ。
ただ、それが分かっていたとしても、立場上「手を動かせ」とINxxに言わなければならない人も多いのかもしれない。
INxxがINxxにとってやりがいの感じられることをいくらやっても、ESxxにとっては「何もしていない」ようにみえる。
ESxxがESxxにとってやりがいの感じられることをいくらやっても、INxxにとっては「何もしていない」ようにみえる。
これらはとても自然な感覚なので、それぞれ大切にしておく必要がある。
どの数学者だったのか分からなくなってしまったが、ある日本の数学者の嘆きがTVで紹介されていたことがあった。
彼の悩みとは以下のようなものだ。
自宅で紙に何かを書いている時、妻は「お仕事中だな」と思って話しかけてこない。
でもボーっとしていると、妻が頼みごとをしてくる。
何かを書いている(手を動かしている)時というのは、すでにある程度考えがまとまったあとなので、話しかけられても別にかまわないのである。
数学者にとって最も重要なのはボーっとしている時なのであって、この時に話しかけられたり何かを頼まれるのは非常に困る、というわけである。
すべての数学者がINxxというわけではないが、様々な研究分野の中でも数学者はとりわけINxxが占める比率が高そうなジャンルではある。
S型とN型の対比として、N型は、具体的なもの、つまり物理的に手に取ることができたり触ったりすることができるようなものよりも、頭の中にあるアイディアや抽象的な概念やかすかな可能性などのほうを、より生々しく感じやすいという特徴がある。
別の数学者の例を見てみよう。
以下は数学者のグレゴリー・チャイティンの『メタマス!』(日本語訳は2007年刊)のP.211 より。
あなた方は、自分でアイデアを求めようとしない限り、実際に信じることがない限り、それを見つけることができない。
スポーツの場合のように、そのための訓練をする方法はあるだろうか? いや、私はそうは思わない。あなた方は、魔物にとりつかれなければならない。ところが、我々の社会はそのような人があまり多くいるのを望まないのだ。
本書を書いている今、私がどう感じているか述べてみよう。
まず第一に、私が論じているアイデアは、非常に具体的で、実際に存在して手に取ることができるように思える。時には、私の周りの人よりも実在的に感じることさえある。新聞やショッピング・モールやテレビ番組は、非実在的だという感覚を常に私に与えるのだが、それらよりもアイデアの方が実在的だと確かに感じる。実際、新しいアイデアに関して活動しているときや、女性と愛し合っているとき(これも、生まれてくるかもしれない子供という新しいアイデアについての活動だ)、あるいは、山に登っているときぐらいにしか、自分が本当に生きているという感じがしない。それは強烈な、非常に強烈なものなのだ。
新しいアイデアに取り組んでいるときには、他のことはすべて脇にどけてしまう。朝の水泳をやめるし、勘定を払わないし、医者に行くのをやめる。すでに述べたように、他のすべてのことが非実在的となる。無理をして新しいアイデアに取り組むように仕向ける必要もない。
チャイティンがINxxかどうかは分からないが、上記の引用部分は実によくINxxの世界観を表している。
ここにも「山」が出てくるので混乱させてしまうかもしれないが、重要なことは、他人と認識を共有しやすい具体的なものというのは、INxxのあなたにとっては「非実在的」に感じられるのが自然な状態であるということだ。
チャイティンの言う、「アイデア」が「周りの人よりも実在的に感じることさえある」という状況は、S型、特にESxxにはとうてい信じられないことかもしれない。
だが、こういう風に感じられる時こそがINxxにとっての幸せな時間なのである。
INxxと結婚しようとする人は、このことを軽く考えないほうがいいだろう。
S型から見て、N型は他人と何も共有したがっていないように見えることがあるが、これは誤りである。
ESxxは他人の噂話や他人の「ポジション」をめぐる話を通して相手の人となりを確認しようとするが、INxxは可能性について議論することで相手の人となりを確認しようとする。
この「可能性」が突飛なものであればあるほど相手の人となりが分かるものになるわけだが、ESxxはあらかじめ議論の前提が整っていない限り「突然何を言い出すのだろう」としか思わない。
だからINxxは可能性について議論をしたいのに、その相手を慎重に選ぶ必要にいつも迫られている。
こういったINxxの感覚は、何かを学ぶという時にも顕著に表れる。
INxxは、ESxxがやっているようには「勉強」はできない。
S型、特にESxxは、まず「勉強」があって学んだことを「実践」するというサイクルがイメージされ、それを万人に押し付けることが正しいと信じている人が多い。
つまり、「実践」こそが人間の活動の本体であり、そのための前段階の準備あるいはトリガーとして「勉強」があるというわけだ。
ESxxは「実践」を先に体験することを重視することもあるが、そこでも「実践」で体感したことを「勉強」で再確認して次の「実践」につなげる、というようなサイクルがイメージされていることが多い。
あるいは、「生涯学習」のような形で「勉強」が推奨されることもあるが、これもコミュニケーションやライフスタイルという「実践」のための材料として「勉強」がある。
INxxのあなたにとっては、具体的な「作業」や「実践」というのは、活動の本体ではなく、新しい大胆な抽象化や新しい大胆な構造を考えるためのヒントであるか、隠された問題や他の人が見逃している関連性を発掘するためのトリガーに過ぎない。
そしてINxxにとっての読書、特に小説でない読書は、あらかじめ頭の中に存在している仮説を検証するためや、本人にとって重要なテーマとの関連性を確かめるためのものである。
つまり、あなたはESxxが考えるような「勉強」は必要ないし、また、やろうと思ってもできないのである。
特に10代や20代のINxxにとっては、本をたくさん読むことはあまり重要ではない。
INxxにとって幸福な読書体験をしている時には、「ある1行を読んで、本1冊分考える」というような状況に近いことが起こっているはずである。
これは特にINxPにおいて顕著である。
たった1行のその雷に打たれ続けるような期間、つまり「そういえばこの1年間、この本のこの1行しか読んでないわ」というような状態も、時には必要なのである。
そしてその1行というのは、他人からみれば、あるいはもしかしたら作者にとっても「ええっ……そこなの?」と思うような箇所かもしれない。
書き手が力を入れて書いた部分というのは、他人と共有することが容易なものといえる。「みんな」にとって重要であることが分かりきっている1行である。
そういうものよりも、この宇宙でたった1人、自分だけのために「発生」したとしか思えないような奇跡の1行に出会うことのほうが重要である。
こういう経験を経て初めて、多読が意味を持つ。
また、皮肉なことではあるが、こういう「汲めども尽きぬ1行」に出会うためには、ある程度の乱読が必要になってくるかもしれない。
そういうわけで、安易に「作者の気持ちを想像しろ」「作者の意図を汲み取れ」というのも、考えものである。
INxxにとっては、「作者の意図」などというものをはるかに超越した宇宙的な導きによってその1行と出会うことが重要なのである。
教育する側にとっては、INxxは悩ましい存在になるかもしれない。
基本的にあらゆるカリキュラムは、INxxにとって有害である。
INxxは他人が用意した「山」を登ることはできない。
表面上なぞっているように見えることはあっても、実際には本人の頭の中にある別の山を登っているのである。
ただし、カリキュラムを用意すること自体は、教育する側にとっては有害とは限らない。
それなりに入念に練られたカリキュラムと、INxxの興味や理解のあり方とのギャップを観察することが教育する側にとって良い刺激になることもある。
ちなみにアインシュタインは「私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である」と言った。
大学でも指導教官と衝突し、在野で研究を継続した。
もちろん、「勉強」を安心して否定するためには、最低限の教育が誰でも無料で受けられるようになっていることが大前提である。
2020年8月時点においても、まだ世界では教育を受けたくても受けられない人が非常に多く存在する。
そして重要なのは教育そのものよりも知のリソースへのアクセスである。
INxxに対してできることは、整理された「知」のコピーをINxxの頭の中に生成しようとすることではなく、知のリソースへのアクセスのあり方について背中を見せることである。
背中を見せるためには、そもそも知のリソースやそのアクセス手段がコモディティ化していなければならない。
裕福な人だけが独占できるものであってはならないのである。
そして、整理された「知」のコピーというのは、反知性主義的でもある。
あなたは、「勉強」や「生涯学習」という名のもとに隠された反知性主義を、拒否しなければならない。
つまり、自分で考えるな、とにかく他人が整理した知識を吸収しろ、という姿勢の拒絶である。
高学歴の非INxxの場合、自分は反知性主義などというものとは程遠い存在だと思っていることも多い。
あるいは、反思考主義といったほうがいいのかもしれない。
ところで「勉強」というのは、不思議な日本語である。英語なら「study」や「work」になりそうだが、ニュアンスが少し違う。
「学習」や「study」は「勉強」よりも広い意味だし、「work」などはもっと広い意味だ。
「勉強」がなぜ不思議なのか考えるには、「勉強」という言葉にはS型の感覚が色濃く反映されていると考えると、腑に落ちる。
物理的に触ることができない概念というものについては、オブジェクト化されているかどうかによって、S型の態度とN型の態度は大きく異なる。
最初は1人の人間の頭の中に生まれた抽象的な概念も、多くの人に共有されるにつれ、「もの」に近い存在になる。
アイディアのオブジェクト化といってもいい。
このような状態になると、N型のアイディアはS型にも取り扱いやすい存在になる。
皮肉なことではあるが、S型にとってのアイディアは局所的であることが多く、名前がつけにくい。
N型のアイディアは汎用的であるがゆえに、ひとたび理解されれば名前をつけて共有しやすい。
N型にとっては、オブジェクト化される前の曖昧な状態のほうがより手応えを感じられる。
特に、今まさにオブジェクト化できるかもしれないという、その卵が割れる直前のような状態である。
実際には卵というオブジェクトは存在しないので、何もない空間に突然ヒビが入ってそこから何か異形の存在が出てきそうな感覚である。
新しいアイディアが他人に共有されていくにつれて、当の本人が急激に関心を失ったりするように見えるのは、それがINxxならば自然なことである。
また、「みんな」が考えている「それ」と、私の頭の中にある「これ」は全然違うのだ、というような訴えがなされることも多い。
さて、山に登るべきでない理由について色々と書いてきたが、それでも時には、実際に山を登らなければならない時もあるだろう。
比喩的な意味だけでなく、本来の意味での山でもそうだ。
本来の意味での山ということで言うなら、山を登ることそのものより、自然の中で1人で過ごすことや、自分自身の肉体を物理的に「配置」することのほうが重要である。
また、あなたの頭の中にある別の山を登るために、実際に山を登るという行為をする必要があることもある。
そして最も重要なのは、「今、山に登らなければならない」というある種の啓示のようなものを受け取った時だ。
これは次の「2. 受け取って配置する、というサイクルを死守せよ」にも関わってくる。
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最後の「2. 受け取って配置する、というサイクルを死守せよ」がリンクになるように修正
(2020-08-09 19:55 JST)