原因不明の心室細動で倒れた。到着した救急車のAED(自動体外式除細動器)で心拍を再生したのは一三分後だった。人工呼吸器に繋がれ意識不明のまま病院に搬送された。このまま死ぬと言われていたらしい。ところが十日目、私は奇跡的に意識を回復した。
ベッドの上で、朦朧として、身体を痙攣させていた。何が何だかわからない。どこまで回復するかもしれない。一生、ベッドにくくり付けられるようにして過ごさねばならぬのかもしれない。だが、低酸素脳症後遺症としての痙攣はしだいに収まっていった。
私は、食堂まで看護助手さんに車椅子を押してもらい、食事をすることができるようになった。最初は落としてばかりだった箸の使い方もだんだんうまくなっていく。豆を一粒ずつ箸先でつまめるようになった頃、やっと医者から「一日一杯なら珈琲を飲んでいい」という許可が出た。意識が回復した直後からそう望み、何度も尋ねていたのである。
午後、廊下の突き当たりの椅子のある所まで、看護助手さんに食堂の珈琲を運んでもらった。車椅子の上から椅子の上に裸足を投げ出すと、温もりのある陽光が裸足から膝のあたりまでを照らし出した。この世の光の中にいるということが奇跡のように感じられる。
湯気の立つカップを口元に運び、約一ヶ月ぶりの珈琲をごくりと飲んだ。胃の腑にしみわたるほろ苦さ。薬のせいのうとうとと、珈琲による目覚めが不思議なバランスをとって、この上なく気持ちよかった。
私は樽の中のディオゲネスの気持ちが初めてわかった。通りがかったアレキサンダー大王が「望む物を何でもくれてやろう」と言うのに「日向ぼっこの邪魔だからそこをどいてください」と言ったという逸話である。この世の光の中で日向ぼっこをしながら、珈琲を口に運ぶことができるのは、何ものにも替えがたい歓びと安らぎに満ちているのだった。