「読書」にはなんとなく知的な匂いがするし、読んでいる途中の充足感や読後感から、とても勉強になったと感じることが多い。
しかし、それは僕の場合全くの間違いで、実は「無為にお金と時間を浪費していたに過ぎない」ということをここ数年で理解することができた。
万が一、自分と同じように今現在読書にふけっている人がいるなら、そこから一歩踏み出し本当に意味のある読書、もしくはそれ以外のインプットに時間を割くことができるように、僕の反省点をまとめておきたいと思う。
今回の記事では下記のように筋道をつけて大学時代に300冊ほどの本を読んだことで学んだ結果について書いていくことにする。
そうすることで、「どんな人がどうやって無為な読書をしてしまうのか?」「意味のない読書とは何か?」が明確になるからだ。
ご自身に当てはまっているかどうかは、最初の見出しを見て判断して頂ければと思う。もし同じような考え方を持っていたら、ぜひ参考にして読書を見直して欲しい。
ただし、本記事では「読書に全く意味がない」ということを書いているわけではないので、ご了承頂ければ幸いである。
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■目次
はじめに
「僕はどんな目的で読書をしていたのか?」
「僕の読書が間違っていた理由」
「意味のある読書と意味のない読書の違い」
「意味ある読書を続けるためには何に注意すべきか?」
おわりに
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読書の目的には人それぞれ様々なものがあると思う。たとえば、一般的な例を出すと下記のような感じではないだろうか。
・教養を得るため
・資格取得の勉強のため
・リサーチ/研究のため
・活字が好き/読書自体が好き
もちろん、どれが偉い/低俗だという話ではないのだが、僕は圧倒的に「教養を得るため」という目的で読書をしていた時期が長かった。
高校時代、僕は推薦入試で受験を突破したために時間ができた。近いうちに引っ越しをすることになるため費用を貯めようとアルバイトを始めたが、それでも時間が余った。
そこで始めたのが読書だった。
大学には明確な目的があって行こうとしたわけではなかったが、なんとなく「大学では知識が必要なんだろうな」と感じていたので、図書館にある新書のうち興味のある分野を読み漁っていた。
そうすると、なんとなく「将来に向けた準備」ができている気がした。「いつか使う知識を早めに身につけている」と感じられたのだ。
今思えばそんな準備など”幻想”なのだが、アウトプットするべき責任感がない状態でのインプットは気楽で自己満足できるため、僕はその無責任な欲求に身を任せたのである。
つまり、要約すると「いつ使うかわからない知識を『将来のために早めに身につけた』と勘違いできている状態」に慣れてしまったのである。
僕の読書経験は「いつ使うかわからない知識を『将来のために早めに身につけた』と勘違いできている状態」から始まっていた。
そのため、実学に偏った読書になってしまっていた。新書・ビジネス書は読んだが、小説を読んで感動することはほとんどなかった。なぜなら、将来に向けた準備として、小説が役に立つとは感じられなかったからである。
ただ、実学的な内容ではない小説でも、古典や有名作品を読むことで時代の流れを読むことができたり、文化・教養のコンテキストを理解することができたりするのではないか、と無理やり自分を正当化して、「将来に向けた準備」として歪曲した小説選びを繰り返していた。
大学入学後も、講義はまともに出ないのに読書を繰り返す毎日であった。いつ使うか分からない様々な分野の知識を学んだように感じていた。
僕は当時、「幅広く知識を学ぶことは将来の準備として良いことだ」と考えていた。
しかし、僕の「将来に向けた準備」としての読書には明確な間違いがあった。それは、「将来を定義できていない状態で得た知識を、いつまでも覚えていられるし、使おうと思ったときに使える」という間違いである。
たとえば、名著と呼ばれるビジネス書は、その著者が過去に経験したエピソードや抽象化したノウハウを体系的に学ぶことができるものが多い。
しかし、学ぶことと実践することは当然異なる。そして、実践するのは想像以上に難しい。実践しなければ、結局何冊読んでも結果は同じ「無」なのだ。
そこから逃げて、「今は準備としてインプットしていれば良い」と考えるのは、結局無責任な時間の浪費にしかならない。
つまり、役に立つと言われる内容を読書で得ることができでも「将来きっと役立てられる」の”将来”が、具体的に「どの期間中のどういったゴールを示したものなのか?」「そこに到達できたときに自分はどうなっているか?」を定義できていなければ、結局役立てることはできないのである。
つまり、意味のある読書とは、「定義した将来に向けて具体的な行動・実践できる知識を身につけること」である。
一方で、意味のない読書とは「定義されていない将来に向けて行動を先送りしていること」である。
知識のインプットを目的として読書をするなら、将来は明確に定義しておく必要がある。
先送り癖を発揮してしまい、「いつか役に立つかも」と読書をしても身につくことはない。本当にその知識を必要とする局面で、焦って再び同じことを学ぶことになる。
「いつか使う時がくるかも」と漫然と読書をしても、そこから学べることは何一つとしてなかった。
大量に本を読んでも、人は忘却するし、知識を覚えていても実践するときはゼロからのスタートである。
今では、それよりも1冊の本を忠実に実践し、自分のセオリーに落とし込むことのほうが何倍も重要性があると感じている。
意味ある読書を続けるためには「将来を定義」することが重要になる。将来を定義するというのは抽象的だが、例をとると「資格勉強」のようなものだと考えれば良い。
資格勉強は、ある一定の試験に合格するための知識を学ぶためのものだが、「試験に合格し資格を取得する」という明確に定義された将来が存在している。
たとえ、目的が「Twitterで有益なことを呟きたい」「雑談力を高めたい」「文章力を向上させたい」というものでも「新規事業立案プロセスを体系的に学びたい」「マーケティングの基本を抑えたい」「金商法改正に関する外観を捉えたい」というものでも良いので、得たい知識を定義し、身につけている自分を定義することから始めるべきである。
明確に定義された将来に向けて、インプット→アウトプットを繰り返すことが重要だ。
日々新しい物事を学びながら実行する中で、「明確に将来を定義しそこから必要な知識を学び実践すること」は言うは易く行うは難しの典型例だと思う。
かっこ悪いことも多いし、自分一人ではなかなかできないことも多い。
しかし「明確に将来を定義すること」自体は、粒度の違いはあれど誰でもできることで、それを繰り返すことで僕は成長できると感じている。
僕はそれに気づくまでに20年以上かかった。
もし、僕と同じような感じで読書にふけっていると思った方や、周囲にそういう人がいた際は、ぜひ読書の目的を深掘りして「目的を明確にする=将来を定義する」を考えて見て欲しいと思う。
意味のある読書とは「定義した将来に向けて行動・実践できる知識を身につけること」であり、意味のない読書とは「定義されていない将来に向けて行動を先送りしていること」である。