靖国通りの南側に露店を並べ、電気街の原型を作った「山本長蔵」氏。
「山本長蔵」のおかげで靖国通りでは、様々な電気製品が売られた。
近くにあった電機大学の学生達も、電気部品を求めて買いに来て繁盛した。
更に日本全国まで、この靖国通りの電気部品街は有名になり大繁盛だった。
そして、日本全国から電気部品を買いに来る人達で凄くにぎわった。
でも「山本長蔵」は、未来は露天ではなく店舗の時代が来ると考えていた。
そんな矢先、ある事件が起きた。
1949年9月、GHQにより突然露天撤廃令が出された。
その内容は、翌年の3月までに全店撤廃せよとの事だった。
これは、戦後の復興事業で道路を整備し拡張する目的があった。
でも東京の焼け野原から露店を営み、やっと生計を立てた人達が沢山いる。
そんな人達が露天を撤廃されたら、失業して食っていけなくなる。
そう考えた「山本長藏」は、たった1人でマッカーサーに会いに行く。
そこで、露天撤廃で生活できなくなる人の保証を直談判しに向かった。
この時「山本長藏」は礼装である羽織袴を身に付け、さらしを巻いていた。
更に、交渉がうまくいかない時は、切腹する覚悟をしていた。
その為に、一尺の短刀をさらしに仕込んでいた。
しかし、会いに行くも門前払いを食らってしまった。
でも「山本長藏」は、諦めず毎日会いに出向いて行った。
ある日、フィリップ中佐が「山本長藏」のしつこさを見ていて。
「あいつは、だれだ?連れてこい」と部下に命令した。
こうしてようやく、交渉の席に着く事が出来た。
この時中佐の目には、さらしの下にドスが入っている事に気が付いていた。
でも中佐は、この短刀は他人を刺す物では無いと言う事が解っていた。
自殺する覚悟の物だと理解できたので、あえて基地内に持ち込ませた。
「山本長藏」は、やっとの思いで交渉の場に付けた。
そして全ての思いを話していった。
「山本長藏」は、まず初めに撤廃令には全面協力するとと述べた。
露天街から、店を完全に一掃するという覚悟だ。
フィリップ中佐は、この時「山本長藏」を信用出来る男と感じた。
しかも、露天街を仕切るヤクザの親分衆に気に入られていたからだ。
「山本長男」は、露天街を撤廃すると約束した。
その代わり、屋根付きの代替え地を用意してくれと頼んだ。
更に、露天の移転費用を政府から借りられるようにしてくれと要求した。
そうしたら、あっさりとOKしてくれた。
そしてフィリップ中佐から、移転費用の金額はいくらが良いか聞かれた。
「山本長藏」は、少し吹っ掛けてやろうと、3000万円を要求する。
そうしたらフィリップ中佐は、それっぽっちなた出せるよとの返事だった。
「山本長藏」は、あとで億単位の額を言っておくんだったと悔やんだ。
「山本長男」は、中央大学で法律科で学び弁論部の主将もしていた。
なので、交渉や話し合いをうまく運ぶ事には成功した。
そして移転先は、秋葉原の国鉄ガード下に移転が決まった。
ここなら、街作りの道路工事計画の邪魔にならないと考えたのだろう。
そして、移転が始まっていった。
でも実際には、移転費用が3,000万円では足りなかった。
その為「山本長藏」は、借金に翻弄されてしまった。
でも実は、秋葉原のガード下に移転場所を決めたのは「山本長蔵」だった。
「山本長藏」は、当時のリーダー達と話をして移転先を決めていた。
話した相手は、安井都知事、秋葉原駅前の露天街のボス野村誠だった。
野村誠とは、戦後上京してきた時からの知り合いで仲が良かった。
「山本長藏」は昔、彼と露店を開き一緒に生活費を稼いでいた仲だった。
その為、境遇も考え方も似ていた。
当時の秋葉原駅には、電気屋はぽつぽつある位だった。
電気屋は、広瀬無線、山際電機、高岳紹介、それ位しか無かった。
1番多かった店は、就職斡旋業の店。
こんな秋葉原に、突然電気販売の露天街はやってきた。
しかも、露天街の客も一緒にやってくる事になった。
そしたら、もの凄い繁盛っぷりで他の業種の店も電気店をやるようになる。
問屋だった店、就職斡旋業の店、全部電気屋を始めてしまった。
その結果、問屋が安く仕入れた物をそのままの値段で売るから大繁盛した。
その他の小さな店も負けずにメーカーから直で仕入れてきた。
そして更に安く売る様になった。
この売り方で秋葉原は、電気製品の街として物凄い活気にあふれかえった。
でも競争が激しくなり潰れる店も出てくる。
その潰れた店からバッタやが商品を安く買い、格安で売っていた。
この秋葉原に最初に移転したのは「山本長藏」の右腕だった森田雅雄さん。
1949年10月森田雅雄は、秋葉原西口ガード下にラジオストアを作った。
そして1950年「山本長藏」は、となりのガード下にラジオガァデン作る。
更に少し離れた所に東京ラジオデパートを作った。
ここに、多くの露天を店舗提供して移転させていった。
そして1951年、総武線ガード下にもラジオセンターを作った。
名前には、秋葉原をラジオ専門街にしようという思いが込められていた。
1953年、ラジオ店の集大成「ラジオ会館」が完成した。
ラジオ会館は「野村長藏」の協力してもらい、作る事が出来た。
これで現在の、ラジオセンター、ラジオストア、ラジオ会館がそろった。
この時はもう、当初の国鉄ガード下だけという話は、どこかに飛んでいた。
許可が出たからやっちまおう的な事だったのだろう。
Pt3に続く。