
〜前回〜
鏡が、そこにある。
視線は既にその凍てつく平面の中央、瞳孔に杭を打たれたかのように逸らすことを許されぬまま、その鏡面に体温を吸われていく感覚だけが鮮明に微動だにできぬ身体の芯を震わせる。
鏡面の中に立つ私の靴、私の膝、私のシャツ、首…そしてその上に…巨大な眼球がただひとつ。 歪な、まるで人の頭の形のように歪んだ裸の眼球がただひとつ、
血走った白目を剥き出しに、蛆のように虹彩の襞を波打たせ、ぽっかりと空いた真黒の深淵が空空寂寂と私を飲み込む。ぬばたまの水晶体に映り返る鏡外の首の上は闇に呑まれて暗く沈む。無音が劈いている。視えない。
口は…ない。耳も…ない。
鼻も、皮膚も。
感覚の剥げた永遠の中、眼球だけが、そこにある。
じっと、じっと、じっと、見つめている。
なにを?
息が詰まり、脳が焦げ付くような恐怖が襲う、今すぐに叫び出したい、それを許す器官が不在なまま絶望だけが籠もる。ただ、眼が、眼がじっと、鏡一枚を隔てたすぐそこから、漏らす嗚咽に曇りそうなすぐそこから、じっと、じっと、そこに在った。
——びっしょりと汗をかいている。
目を"開く"と鈍色の天井が霞んでいた。
…シミが、濃くなっている。
全身の毛が逆立つ。
冗談ではない。
何度も、何度も見上げてきた、枕の上のあの靄が、 たしかな輪郭を持ちはじめている。
前よりも、色が濃い。
昨日よりも、存在が強い。
まるで、意志を持ってこちらを見下ろしているように。
あの悪夢が、現実に染み出している。
そう感じた途端、呼吸も荒いまま心臓が跳ね上がる。咽返った。喉を灼き鉱物めいた温かさが舌に臭うにつれ明瞭となる不快が、何処までが夢なのか確かめることもなく視線を天井から逸らす。キャンバスが必要だ。視線を貼り付けるキャンバスが。没頭し、美を創る理論と秩序が。取り憑かれたように筆をとり夢中で引きはじめた線は、震えていた…。
17時のチャイムが鳴る。
暮れなずむ陽の残り香が、色気ない部屋一面を燃え上がらせるその光が、あの女の口の紅に似ていて気がおかしくなりそうになる。
レイラに例のノートを渡してから、もう3日が経つ。
あれから夜が来るたび、神経の一本一本が剥き出しになるような錯覚を覚える。
身体は横たわっているのに、思考は焼け爛れた鉄のように赤く燃え続け、決して鎮まることがない。
布団の中で目を閉じても、まぶたの裏に映るのは、あのページ。
ペン先が刻み込んだ線が、しなやかに交差し、影が、陰影が、隆起が、あまりにも鮮明に蘇る。
目を開けても、それは消えない。
すべてが脈打つように、輪郭を持ってしまう。
見てしまっただろうか?
今さら無かったことにはできない。
なぜ、あんなおぞましいものを嬉々として描き、それを女性に渡してしまったのか。
考えただけで、胃の奥が収縮する。
どうかしていた。
しかし、あの時描いた、あの線は、確かに美しかった。
見て、しまっただろうか?
もし、彼女が、あれを見たのなら?
目を走らせ、筆致をなぞり、その形状の緻密さに、一瞬でも心を動かされたのなら?
……そう考えた途端、渇き、胸がざわつく。
指先に微かな痙攣が走る。
彼女の視線が、私の線を追っている。
私の作った形に、目が這う。
瞳孔が拡がり、収縮し、私が作り出した形態に反応する。その想像が生々しければ生々しいほど、どうしようもない熱が這い上がる。
だが、すぐに耐えがたい羞恥と後悔が、電流のように駆け巡る。
何を期待している?
何を望んでいる?
これは醜悪な行為だ。愚かで、幼稚で、取り返しのつかない悪趣味だ。
こんなものを見せて、何を得ようとした?
何のために?
いや、そんなことは分かっている。
ただ、見られたかったのだ。
誰かに、私という存在の形を認識してほしかった。私がここにいることを、線として刻みつけたかった。私の内側にあるこの形のない感覚、言葉にならない感覚、それを線に変え、色に変え、影に変えて、他者の視界に侵入させたかった。無防備な彼女の網膜に、私の存在を焼き付けたかった。
汗が滲む。熱がこもる。滲み出た汗が皮膚を這い、背筋を下り、布団に染み込んでいく。焦燥と昂揚、陶酔と後悔が、高熱の中でせめぎ合う。寒気と熱が同時に襲い、全身が共鳴し、震える。
こんな状態で、何も手につくはずがなかった。
はやく、はやくあのノートを取り返したい。彼女の反応が知りたい、いや、知りたくない、いや、知りたい。
いや、だめだ。
もういっそ全て無に帰してしまいたい。大学など燃えてしまえばいいのに。あのうら寒い無機質なキャンパスも、浅薄な阿呆共も、傲慢な教授も、私を苦しめる、私を評価しない、私がノートを受け取るあの場所など、燃えてしまえばいいのに。
10歳の冬は、冷たい霧が街を覆い、日暮れが異様に早かった。
アトリエに差し込む陽光は、痩せこけた老人の指のように細く弱々しく、ほとんど色を失い、窓ガラスに貼りついた霜が、白く曇る室内をさらに閉ざしていた。空気さえもが凍りつき、息を吐けば白い霧となって漂う。甘く立ちこめるテレピン油の匂いだけが、わずかに緊張を溶解させて、張り詰めた安らぎの混濁するその中に、母の顔が浮かんでいた。
母の疵を癒す父の手は慎重に柔らかく、機械のように正確に動いていた。私たち親子の美を再生し、永遠とする神聖なる儀式。
母の顔に刻まれた時間の傷跡を、そっと癒やす典礼。黙々と、薄暗く、息の詰まる、神聖なこの空間で行われてゆく作業が、秘密めいた静謐を纏って、母の輪郭を強める。。母の微笑みのどこか現実離れした気高さはまるで、凍りついた湖の底から見上げる空のような、近くて遠い、触れられない距離を保ったまま。そして、その薄い唇の端に、無数の細かいひび割れ――「クラック」が蜘蛛の巣のように広がっていた。
「時間が経つと、こうやって絵の具の層がひずむんだ」
息を呑んで見守り続ける私に父は母を象る物質の性質について説明する。
母に触れつつも、母とソレをはっきりと区別するその声はかすかに震えていた。
「キャンバスは生きている。温度と湿度に影響され、わずかに膨張し、収縮する。だが、絵の具の層はそれに追従できず、微細な断裂を起こすんだ」
父の指は、筆よりも細いリタッチングブラシを握り、溶剤を染み込ませた綿棒で、母の顔の表面をゆっくりと撫でていた。まるで、幽霊にそっと触れるような、怖れと憧憬が入り混じった動きで。
「慎重にやるんだ。強くこすれば、層の下の色が溶け出してしまう」
微かに立ち上る溶剤の匂い。それは、白昼のアトリエに似つかわしくない、薄暗く、深い地下室を思わせるような匂いだった。墓所のような、秘密を抱えた場所の香り。鼻腔をくすぐり、脳髄まで浸透するような化学的な甘さと苦さが混ざった匂いに幻惑しそうになる。私も父のように、母を救いたい。私も父のように、母の顔を撫でたかった…。
「僕にも、やらせてください。」
時間が停止したかのように、父の手が止まり、冷たい光の中で、父の顔が一瞬だけ石になった。父はしばらく黙り、やがて、慎重に頷いた。その目には、何かが潜んでいた。恐怖だろうか。躊躇だろうか。それとも、諦めか。
「ここをなぞるんだ」
筆を握らされる。細すぎる筆は、冷たい蛇のように指の間で脈動する。とてつもない緊張が鉛のように重くする。しかし、母への愛が、感謝が、信仰が、重責に鷹揚の揮発した乾いた枝のような私の指を正確に、恐る恐る、母の傷痕へと導く。頬のひび割れた部分に、極細の筆を滑らせる。絵の具が割れた隙間に吸い込まれ、溝を埋める。時間の傷が、消えていく。まるで私の生気すらも吸われているのではないかと疑うほどに、どっと疲れがくる。嬉しかった。やっと私は、母の、父の、役に立てた気がした。私の筆が傷を消すことで、母は永遠の微笑みを取り戻す。愛慕と崇拝に絞め上げられた献身的使命感に操られるかのように筆は進む。母の額を通り、唇へと向かった。そこに、深いひび割れがあった。まるで、叫びを堪えるかのように引き裂かれた亀裂。
その時、父の身体が不自然に強張るのを感じた。
おかしい、、、傷が、消えない。溶けた絵の具が、馴染まない。ここだけ、妙に色が剥がれやすい。皮膚のように薄く、脆く。なぜ、なぜ母は治らない?むしろ、、いまにも沸騰しそうな焦燥が胃のあたりにヒタヒタと巻き付いてくる中、ゆっくりと、細心の注意を払いながら全霊を捧げて筆を滑らせる。治る、これで治るはずなのだ。母のあの美しい微笑みが。父はまるで石像のように固く唇を結び蒼白な顔で目を見開いて未だ残る傷を凝視している、キツく握り締められた石膏のような拳がわずかに震えていた。もう一度、母の口元へ筆を運ぶ
――瞬間、父がビクリと震えた。
石像のような父の突然の予期せぬ挙動に握りしめた筆へわずかに力がこもる、表面の層が、――ぽろりと剥がれ落ちた。
その下に、別の顔があった。
母の顔ではない。いや、形は同じなのに、まったく違う表情がそこにあった。
――口角が、下がっている。――眉が、わずかに歪んでいる。――瞳が、怯えている。
それは、笑顔ではなかった。
ぞくり、と背筋が冷えた。冬の風が骨の髄まで吹き抜けるような感覚。剥がれ落ちた絵の具の狭間から覗く母の眼が、私の中へ、これまで私が母の微笑みを眺めていた時間を、そこへ向けて残し、祈ってきた感情を、全く別の色彩で私の中に逆流させる。ここに、あの微笑みはない。恐怖に歪んだ顔が、ギラつく眼差しで、縋るように、憎むように、こちらを見返していた。
仮面だった。
その下には、恐怖に凍りついた真実が潜んでいた。
堪らずに嘔吐する。
揮発する溶剤と滴る吐瀉物が混ざり合い罪の臭いのなって鼻を衝く、私たちの聖域は地獄と化した。
父は、何も言わなかった。
ただ、無言で、硬直したまま、母の肖像画を見つめていた。
彼の眼は、氷の結晶のように冷たく透明で、その奥に渦巻く感情を読み取ることはできなかった。
いや、父は何か言っていたのかもしれない。
しかし、私を支え続けた母の微笑みが、美の杭が、壊れた音の苛烈さに既に鼓膜が破れ、何も聞こえていなかっただけかもしれない。
筆を握る指が震えていた。
恐怖が神経を伝わり、細胞ひとつひとつを震わせる。
私は、暴いてしまった。絵の具の下の真実を。
禁じられた扉を開けてしまった。父と母の間にあった秘密を、無邪気な手が引き剥がしてしまった。
あんなにも美しく完璧で神のように見えた母の美は、虚飾だったのだ。
この日以来、私の手は、震えるようになった。
もう、まともに線が引けない。一本の線を引こうとするたびに、あのひび割れが脳裏に蘇る。
母の顔の皮膚の下から覗く、別の表情が。それは何かを訴えかけているようで、それでいて、何も言わない。沈黙の叫びを上げている。
私は絵を描くことが、恐怖になった。線を引くことが、恐怖になった。
塗り潰される真実が、何本もの引き重ねられる偽りが、嘘が、かくも完潔なる形態をもって魅了し、厖大な時の中を佇んでいる。私にはそれがひどく恐ろしかった。
――けれど、魔法陣だけは違った。
魔法陣の線は、決してその下に、別の顔が隠れていることはない。そこへ込められた感情もない。それは、決定的な秩序であり、混沌の介在しない、純粋なる造形だった。完璧な幾何学。魔法陣は嘘をつかない。その形は、永遠に変わらない真理を映し出す鏡だった。
それが、私を魔法陣へと惹きつけた。魔法陣の完成された美だけが、私の震えを取り除いてくれた。完璧な秩序と論理が安らぎをくれた。だから私は震える手を押さえつけ、完璧な円を描こうとし続けた。その正確な曲線の中に、安らぎを見出そうとした。混沌から秩序を、恐怖から安定を、嘘から真実を取り戻そうとした。
だが――
今、その魔法陣の線すらも、震え始めている。
なぜ?なぜ、あの震えが、ここにも戻ってくる?筆先から伝わる震えは、指へ、手首へ、肘へ、肩へと広がり、全身を支配する。再び、筆を持つのが怖くなった。再び、線を引くのが怖くなった。私の線は、また崩れていく。私の世界が、また壊れていく。
あの悪夢、あの悪夢がはじまってから――
ノートが返ってきたのは、四日目の昼だった。
「ありーっ♡」
まるで感謝の念など感じられない軽薄な礼でもって馴れ馴れしくノートを渡してくる。
いつもと変わらない対応の中、ノートを持つ彼女の指がわずかに震えているように見えた。
見た、のだろうか?
ノートを返却すると、その中身について口にすることもなく、彼女はそのまま歩み去っていった。
気づいてないのか?
いや…
どっちだ?
とにかく、あのページを、はやくどうにかしなければ、
どうにか?
私はあれをどうしたいのだ?
あの醜悪なスケッチを
破り捨てて無かったことにしたいのか、それとも誰かに見せたいのか
わからない。もう一度、見ればわかる気がした。
私の醜悪な欲望と執着から吐き出されたアウラを。
ノートを開く。
震える指でページを捲る。
——ない。
あのページが、ない。
喉の奥が、詰まった。
彼女の仕業か?
見たのか?
見たのなら…何を思った?
軽蔑したのか? 嘲笑したのか? それとも——。
私は、呆然とノートを閉じた。
それが意味することが、分からなかった。
考えれば考えるほど、答えは遠のいていく。
しかし、おそらく、間違いなく、彼女は"見た"のだ。
いつどこを歩いたのかも思い出せない。
気づけば、部屋のベッドに寝転び、破られたページの跡を見つめていた。
指先でなぞる。
そこにあるのは、切り取られた紙の縁。
毛羽立った繊維。
僅かに残るインクの跡。
あのページにあったものを、思い出す。
私の線。
私の影。
私の意志。
彼女は、それをどう受け止めたのか。
想像する。
ページを捲る音。
視線が走る気配。
次の瞬間、目に飛び込んだ、それ——
眉がひそめられる。
唇がわずかに引き攣る。
目を細めて、じっと見つめる。
それとも、
……舌を動かす?
指を頬に当てる?
赤くなる?
喉の奥が熱を帯びる。
頭の中が焦げ付きそうになる。
息が詰まる。
こんなことを考えるべきじゃない。
こんな想像は、するべきじゃない。
でも、俺の思考は、止まらない。
もし、彼女が見て、
その形を指でなぞったのなら?
唇を噛み、息を殺し、
しかし、目を逸らすことができなかったのなら?
指先が、ゆっくりと、ノートのページに触れる。
破られた跡。
そこにあったものを、知っているのは私だけだ。
もう、ここには存在しない。
けれど、私の記憶には残っている。
鮮明に、ありありと。
私の線。
私の影。
私の意志。
私と彼女が、それを知っている。
私と彼女だけが、それを思い出せる。
喉が渇く。
破り取られたページの跡を、そっと顔に被せた。
そのまま、目を閉じた。
呼吸が、早くなる。
肌が熱を持つ。
破られたページが、顔に密着する。
彼女が触れたかもしれない紙の感触が、皮膚に、絡みつく。
思考が、爆発しそうになる。
狂おしいほどの何かが、制御を失い、暴れ回る。
彼女な瞳の淡藤色が脳内に激しく明滅し、そこに映る私の描いたソレが激しく脈動する。
強張った身体が弛緩していく…
開け放たれた窓から吹き込む一筋のkazeが頬を撫でる…
濡れた下腹部をそのままに瞼を閉じると、夜霧のような紫紺の倦怠に抱かれるまま私は眠りに落ちた。
…つづく。