

FX取引を始めた多くの人が、ある時点でこう考えます。「損切りさえしなければ、いつか価格は戻ってくるのではないか」と。確かに、損切りをした直後に相場が反転して、損切りしなければ利益が出ていたという経験は、多くのトレーダーが味わっています。この経験から、「損切りしなければ負けない」という考えが生まれるのは自然なことかもしれません。
しかし、この考え方は極めて危険です。本記事では、「FXは損切りしなければ勝てる」という主張が、なぜ幻想であり、どれほどのリスクを伴うのかについて、詳しく解説していきます。一見すると理にかなっているように見えるこの戦略が、実際には資産を失う最も確実な方法の一つである理由を理解することは、FX取引で長期的に生き残るために不可欠です。
まず、「損切りしなければ勝てる」という考え方の背景にある理屈を理解しましょう。この戦略の支持者は、為替レートは長期的に見れば一定の範囲内で動いており、極端な水準まで動いたとしても、いずれは元の水準に戻ってくると主張します。
例えば、ドル円を100円で買ったとします。価格が95円まで下落したとしても、損切りせずに保有し続ければ、いつか100円以上に戻る可能性があります。実際、100円を超えれば利益になります。損切りをしてしまえば、そこで損失が確定してしまいますが、損切りしなければ損失は「含み損」のままであり、価格が戻れば損失は消えます。
この理屈は一見すると正しいように思えます。実際、為替レートは株式と異なり、基本的にゼロになることはありません。企業は倒産すれば株価がゼロになりますが、国家が完全に崩壊しない限り、通貨の価値が完全にゼロになることは考えにくいのです。したがって、理論上は「待っていればいつか戻る」という可能性は存在します。
また、プロのトレーダーでも損切り後に相場が反転することは頻繁にあります。「損切り貧乏」という言葉があるように、損切りを繰り返すことで資金が徐々に減っていく経験は、多くのトレーダーが共有しています。この経験が、「損切りしない方が良いのではないか」という考えを強化します。
しかし、この理屈には決定的な欠陥があります。それは、FX取引の本質的な特徴であるレバレッジの存在です。レバレッジとは、自己資金以上の取引を可能にする仕組みであり、FXの魅力の一つですが、同時に最大のリスク要因でもあります。
日本国内のFX業者では、最大25倍のレバレッジが認められています。つまり、10万円の資金で250万円分の取引が可能です。海外業者を使えば、数百倍、場合によっては1000倍以上のレバレッジをかけることもできます。このレバレッジがあるために、「待っていれば戻る」という戦略が機能しないのです。
具体的な例で考えてみましょう。10万円の資金で、10倍のレバレッジをかけて100万円分のドル円を買ったとします。1ドル100円のレートであれば、1万ドルを保有することになります。もし価格が5円下落して95円になれば、5万円の含み損が発生します。さらに10円下落して90円になれば、10万円の含み損となり、証拠金がほぼなくなります。
この状態で、FX業者からマージンコール(追加証拠金の要求)が来て、応じなければ強制ロスカット(強制決済)が執行されます。つまり、「待つ」という選択肢が物理的に消滅するのです。価格がいずれ戻るとしても、その前に強制的に決済されてしまえば、損失は確定してしまいます。
レバレッジが高ければ高いほど、この強制ロスカットまでの距離は短くなります。25倍のレバレッジをかけていれば、わずか数パーセントの逆行で資金のほとんどを失う可能性があります。為替相場は、1日で数パーセント動くことも珍しくありません。したがって、高レバレッジで損切りをしない戦略を取ることは、破綻への最短ルートと言っても過言ではありません。
「いつか価格は戻る」という想定が崩れた歴史的な事例は数多く存在します。これらの事例を知ることは、損切りしない戦略の危険性を理解する上で重要です。
2015年1月15日に起こったスイスフランショックは、その典型例です。スイス国立銀行が突然、ユーロに対するスイスフランの上限設定を撤廃したことで、スイスフランが数分間で30パーセント以上急騰しました。この時、スイスフランを売っていた(ショートポジションを持っていた)多くのトレーダーが、瞬時に資金の大部分または全額を失いました。
損切りを設定していなかったトレーダーは、価格が一瞬で急騰したため、損切り注文を出す間もなく強制ロスカットされました。さらに悪いことに、あまりにも急激な変動だったため、多くの業者で注文が正常に執行されず、証拠金以上の損失(追証)が発生するケースも多発しました。つまり、預けていた資金がゼロになるだけでなく、借金を背負うことになったのです。
2016年6月のイギリスのEU離脱決定(ブレグジット)の際も、ポンドが急落しました。事前の世論調査では残留派が優勢とされていたため、多くのトレーダーがポンド買いのポジションを持っていましたが、離脱派の勝利が確定すると、ポンドは数時間で10パーセント以上下落しました。
2011年の東日本大震災直後には、円が急騰しました。リスク回避の動きから、海外の投資家が日本に資金を戻す動きが強まり、ドル円は1日で数円も動きました。この時、円安を予想してドルを買っていたトレーダーの多くが大きな損失を被りました。
これらの事例が示すのは、「いつか戻る」という想定が必ずしも正しくないということです。確かに、数ヶ月から数年という長期で見れば相場が戻ることもあります。しかし、その前に資金が尽きてしまえば、待つことはできません。また、相場が戻らない期間が数年に及ぶこともあり、その間ずっとポジションを保有し続けることは、心理的にも資金的にも非常に困難です。
損切りしない戦略を取る場合、もう一つ重要な要素を考慮しなければなりません。それはスワップポイントです。スワップポイントとは、通貨ペアの金利差から生じる調整金のことで、ポジションを翌日に持ち越すたびに発生します。
高金利通貨を買って低金利通貨を売る場合、プラスのスワップポイント(金利収入)を受け取れます。しかし、逆の場合、つまり低金利通貨を買って高金利通貨を売る場合、マイナスのスワップポイント(金利支払い)が発生します。
例えば、高金利通貨として知られるトルコリラや南アフリカランドを売って円を買うポジションを持った場合、毎日マイナスのスワップポイントを支払わなければなりません。このコストは、一日では小さく見えても、数ヶ月、数年と積み重なれば無視できない金額になります。
損切りをせずに長期間ポジションを保有し続けると、このスワップコストが継続的に発生し、含み損に加えてさらに損失が拡大していきます。仮に相場が戻ったとしても、スワップコストによって実質的な損失が残る可能性もあります。
逆に、プラスのスワップポイントを受け取れるポジションであっても、油断は禁物です。高金利通貨は、その高金利が示すように経済的リスクが高い傾向があります。トルコリラや南アフリカランドは、過去に大きく下落した歴史があり、スワップポイントで得られる利益よりも、為替変動による損失の方がはるかに大きくなるケースが一般的です。
損切りをしないでポジションを保有し続けることは、心理的にも大きな負担となります。この心理的側面は、しばしば見落とされがちですが、実際には非常に重要です。
含み損を抱えたポジションは、トレーダーの精神を消耗させます。毎日、損失額を確認するたびにストレスを感じ、「もう少し待てば戻るかもしれない」という期待と、「これ以上損失が拡大するかもしれない」という恐怖の間で揺れ動きます。この状態が数週間、数ヶ月と続けば、正常な判断力が失われていきます。
さらに、含み損を抱えた状態では、新たな取引機会を逃すことにもなります。資金の大部分が含み損のポジションに拘束されているため、他の有望な取引機会が現れても、新規ポジションを取ることができません。機会損失は、実際の損失と同じくらい重要です。
また、損失を受け入れられないという心理的バイアスも働きます。行動経済学では、人間は利益よりも損失に対してより強く反応することが知られています。損失を確定させることに強い抵抗を感じるため、合理的には損切りすべき状況でも、ずるずると保有を続けてしまうのです。この「損失回避バイアス」は、損切りしない戦略を正当化する心理的な要因となりますが、結果的には損失を拡大させることになります。
損切りしない戦略を取るトレーダーの多くが陥る罠が、ナンピンです。ナンピンとは、含み損のポジションに対して、さらに同じ方向のポジションを追加することで、平均取得価格を有利にする手法です。
例えば、1ドル100円で買ったポジションが95円に下落した場合、95円でさらに買い増しをすれば、平均取得価格は97.5円になります。すると、価格が97.5円まで戻れば損益ゼロになるため、100円まで戻らなくても損失から脱却できます。
この理屈は一見合理的に見えますが、実際には非常に危険です。なぜなら、相場がさらに不利な方向に動いた場合、損失が倍増するからです。95円で買い増しをした後、価格が90円に下落すれば、元のポジションだけの場合よりも損失は大きくなります。
さらに、ナンピンを繰り返すと、どんどん資金が拘束されていきます。最初は小さなポジションだったものが、何度もナンピンを重ねることで、巨大なポジションに膨れ上がります。相場が逆行し続ければ、やがて資金が尽き、強制ロスカットされて莫大な損失を被ることになります。
「ナンピン地獄」という言葉があるように、一度ナンピンを始めると、やめられなくなる傾向があります。「もう一回だけ」「次こそは戻るはず」という期待から、何度もナンピンを繰り返し、気づいた時には取り返しのつかない損失を抱えているというケースは、FXの世界では珍しくありません。
プロのトレーダーや成功している投資家のほとんどが、厳格な損切りルールを設定しています。これには明確な理由があります。
まず、資金管理の観点から、一回の取引で許容できる損失額を限定することが不可欠です。多くのプロトレーダーは、一回の取引で総資金の1パーセントから2パーセント以上のリスクを取らないというルールを設定しています。このルールを守るためには、損切りが必須となります。
また、プロトレーダーは、自分の予想が外れたことを早期に認識し、素早く方向転換することの重要性を理解しています。相場の動きは誰にも完璧には予測できません。予想が外れた場合、早期に損切りをして、新たな分析に基づいた取引を開始する方が、間違ったポジションにしがみつくよりもはるかに合理的です。
損切りは、トレーダーの謙虚さの表れでもあります。「自分は間違うことがある」という前提に立ち、間違った時のダメージを最小限に抑える仕組みを事前に構築しておくのです。逆に、損切りをしないということは、「自分の判断は必ず正しい」という傲慢な態度の表れとも言えます。
成功しているトレーダーの格言に「損小利大」というものがあります。これは、損失は小さく抑え、利益は大きく伸ばすという意味です。この原則を実現するためには、損切りが不可欠です。損切りをしないということは、この原則の真逆を行くことであり、長期的な成功は望めません。
ここまで、損切りしない戦略の危険性を強調してきましたが、理論上、損切りをしなくても破綻しない条件が一つだけ存在します。それは、レバレッジを一切使わない、または極めて低いレバレッジしか使わないという条件です。
例えば、100万円の資金で、レバレッジ1倍(つまりレバレッジなし)で1万ドルを買ったとします。1ドル100円であれば、100万円で1万ドルを購入できます。この場合、ドル円が50円になったとしても(実際にはほぼあり得ませんが)、50万円の含み損で済み、強制ロスカットされることはありません。理論上、何年でも待つことができます。
しかし、これは実質的にFX取引ではなく、外貨預金に近い状態です。レバレッジを使わなければ、FXの魅力である資金効率の良さは失われます。また、それでも為替変動のリスクは残りますし、前述のスワップポイントの問題もあります。
さらに、レバレッジ1倍でも、相場が大きく逆行すれば、資産の半分以上を失う可能性があります。「損切りしない」ということは、このリスクを受け入れるということです。相場がいつ、どのくらい戻るかは誰にもわかりません。数年、場合によっては十年以上待つことになるかもしれません。その間、資金が拘束され、他の投資機会を失い続けることのコストも考慮する必要があります。
では、FX取引において、どのようなリスク管理が適切なのでしょうか。損切りしないという極端な戦略ではなく、バランスの取れたアプローチが必要です。
まず、取引を始める前に、明確な損切りラインを設定することが重要です。エントリー時点で、「この価格まで逆行したら損切りする」という基準を決めておきます。この基準は、テクニカル分析に基づく場合もあれば、資金管理の観点から「総資金の2パーセント以内」といった金額ベースで決める場合もあります。
損切りラインを決めたら、それを厳守することが重要です。相場が損切りラインに達したら、感情に流されず機械的に損切りを実行します。「もう少し待てば戻るかもしれない」という誘惑に負けてはいけません。損切りラインは、冷静な状態で決めた合理的な判断であり、含み損を抱えた状態での判断よりも信頼できるのです。
また、レバレッジは適切な水準に抑えることが重要です。初心者であれば、3倍から5倍程度のレバレッジに留めるべきです。高いレバレッジは、大きな利益の可能性と同時に、大きな損失のリスクももたらします。自分のリスク許容度と経験に応じた適切なレバレッジを選択することが、長期的な生き残りには不可欠です。
結論として、「FXは損切りしなければ勝てる」という考え方は、危険な幻想です。確かに、損切りをしなければ、一時的に損失を回避できるように見えるかもしれません。しかし、それは問題を先送りにしているだけであり、いずれより大きな損失として跳ね返ってきます。
レバレッジという仕組みがある以上、損切りをしないという選択は、破綻への道を歩むことに他なりません。歴史的な相場変動の事例が示すように、「いつか戻る」という期待は、必ずしも実現しません。また、実現するとしても、その前に資金が尽きてしまえば意味がありません。
損切りは、失敗を認める行為ではなく、より大きな損失を防ぐための戦略的な判断です。プロのトレーダーが損切りを重視するのは、それが長期的な成功に不可欠だからです。短期的には、損切りによって資金が減ることもあります。しかし、適切な損切りを実行し続けることで、致命的な損失を回避し、市場で生き残り続けることができるのです。
FX取引において成功するためには、損切りを単なる「負け」と捉えるのではなく、リスク管理の重要な一部として受け入れる必要があります。損切りは痛みを伴いますが、その痛みは、より大きな痛みを避けるための必要なコストです。損切りという技術を習得し、冷静に実行できるようになることが、FXトレーダーとして成長するための第一歩なのです。











