最近、男女差別について考える機会が多くあります。
自分の関心があるから、そういったニュースを拾ってしまうのか、議論が以前より頻繁に起きるようになったのかは分かりませんが、そういう機会が増えました。
人種差別におけるアファーマティブアクションは、人種によって能力に優劣がないという事を前提としています。ですが、男女には性差による能力差があります。事実として、男性は女性より体力があるし、出産という仕事を中断するライフイベントがありません。
その上で、単純なアファーマティブアクション、例えば、「役員の数を男女同数にする」というようなものを適用すると、役員に選ばれた女性は、能力によってではなく、女性だから選ばれたと思う傾向が強くなり、辛くなると思うのです。ただでさえ、女性の方がインポスター症候群にかかりやすいとも言われていますが、それを助長すると考えます。
一方で、なぜ、女性が働きにくいのかを考えたときに、社会の仕組みがそもそも、男性が働く場として設定されているからだとも気がつきました。
先日、東大の入学式での上野千鶴子さんが、「フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」といっており、すごく共感を覚えました。
また、女性は、男性のようには働けないけれど、別の魅力があり、両者で協力することでより良いゴールに達成できるとも感じています。これを実現するには、社会に参画する女性が増える事は重要です。
総括すると、男女差別におけるアファーマティブアクションを、個別事例で捉えると抵抗があるけれど、社会の構造を変えるためには必要なことなのかもしれない、と考えるようになりました。
そんな事を考えている前後に、「あいちトリエンナーレ2019」において、参加アーティストの男女比が半々である、ということを知りました。芸術監督を務める津田大介さんは「質を低下させることなく男女平等を実現できるんです。」と公言していて、参加アーティストは選ばれた経緯に不安を感じることなく取り組めるようになっています。そして、この方針が、男女差別を考えるきっかけになっている事はとてもよいことです。観客の中には、「女性ならではの視座」を持って帰る人もいるでしょう。もちろん、それは、個々のアーティストにとってはどうでもよい評価のされ方ですし、それだけがこのトリエンナーレの意図ではないにしても。
このように、私が、アートに期待することは、新しいモノの見方を提示してくれることです。また、社会と繋がりながらも、社会の枠組みの外側にも領域を持つことで、社会を変えるための実験にとなるような機能もあると思っています。
私はたまたま今回自分が興味関心の強い「ジェンダー」について書きましたが、「原発問題」や「人工知能」など、様々なことに対して、アートは社会の中で機能していると考えています。
写真は昔、地域アートプロジェクトをやった時のもの。
MIO
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