Vケット脱稿したご褒美として自分にPS4とFF7Rを買い与えた結果、5月はひたすらFF7Rをやるゾンビになった挙句、原作もやりたくなって今iPadで原作やってます。
比較してみて、原作リリース年である1997年から23年もの歳月が経った今変わった事って多いな~と感じたので、今更ながら感想(分析)記事を書こうと思います。ネタバレを含むので未プレイの方をご注意ください。
FF7R(以下本作)は原作では5時間程度のボリュームのミッドガル脱出までのストーリーを嵩増しして、20-40時間程度のボリュームの内容となっています。(わたしはゲーム下手すぎてクリアに50時間ほどかかってしまいました。。)
ミッドガルにフォーカスした理由は、このパートが最もFF7の世界観を表現したものであるから、と制作サイドも述べており、実際にそのように感じます。
原作ではミッドガル脱出以降はじめてフィールドマップが登場し、突然伝統的なRPGのストーリー進行に引き戻されたように感じました。それはミッドガルと比較して、カームをはじめとした地方都市がそれまでのシリーズの中世的世界観の香りを残しているおり、街の住人に聞き込みをすると都合よく「次はこっちに行けばいいよ」とヒントをくれたり、前作(FF6)以前のファンのメンタルモデルに寄り添ったものになっています(「洞窟」が出てきますからね)。
ミッドガル脱出まではCG技術以外の要素も当時として革新的すぎる内容であり、その方法論を冒頭5時間以上続けることは、制作ノウハウ的にもユーザ心理的にも難しいものがあったのかもしれません。実際、伝統的RPGモードに入った際の心理的安全性はなかなかなもので、ベースキャンプとなる街のまわりでレベリング・準備をして、程よいころに次のダンジョンに向かう、難しかったらベースキャンプに戻る、という事が可能になります(で、慣れてきたころに一気に大切なものを奪うのもニクイですよね)。
自由度が低く、導線が一方通行のためボスの対策もままならないまま一発勝負が続く冒頭パートは、『世界観の提示・チュートリアル』という役割に過ぎず、楽しみ方の中心をまだまだ伝統的RPGの延長に置いていた時代であったと推測されます。
一方、23年経った現在は比較的自由度が低くとも、CGドラマで魅せる方法論が確立されており(Detroitのようなモデル)、ユーザのメンタルモデルも変容しています。と言いつつも、同時に本作はミッドガルという広大な箱庭の中で相当に高い自由度を実現しており、クエストをこなすパートでは「ベースキャンプ」が確保されています(「アパートの部屋がある」というのは相当に心理的安全性が高い)。
旧来のRPG的な楽しみ方を期待するリバイバルユーザ層向け方法論と、現代的なドラマを通して世界観を提示する方法論が適切な配分でミクスチャーされた、非常に完成度の高い作品だと感じました。
戦闘ですが、わたしは最初大変難しく感じました。最初のボスに3回全滅させられて、「俺もう最近のゲームついていかれへんかもしれん…(絶望)」となりました。
コマンド入力型から大きく変わり、最近のゲームで主流な第三者視点リアルタイムバトルとなったため、常に集中して攻撃・防御・回避をする必要が出てきました。加えて、適宜他のキャラクターに操作を切り替えて指示する必要があるため、目の前の戦闘に集中しつつ他のキャラクターのHPの減りやATBの溜まり具合を管理しないといけないため、「脳が3つないと無理やろこんなん…(絶望)」と思いました。
ですが、この認識は徐々に変容してきます。まず最も重要なのは「実は通常攻撃はほとんど大したダメージ量にならない、ATBコマンドが勝負を決定する。判断するためにはポーズを多用して十分に状況を確認する」という考え方です。
つまり、一見現代的なリアルタイムバトルに見えて、実は伝統的なコマンド入力型の戦闘の要素が大きく残っているのです。このバランスも、前述の旧来的な楽しみ方と現代的な楽しみ方のミクスチャーの妙に他ならず、本作のユーザ分析の深さを感じます。わたしのような「昔はゲーム少年だったけど、今は離れていて現代的なゲームは慣れていない」人間を引き上げるノウハウが凝集されています。
また、先ほどポーズと言いましたが、実際は超スローモーションで戦闘は進行しているという点も大変面白いです。
原作では、アクティブタイムバトルの名の通りコマンド選択中でも時間が進行するので緊張感を持たせる、という設計でしたが(コマンド選択中は時間停止するオプションもあるが、推奨されていないように受け取れる)、実際「まほう」コマンドの奥底のものを探すのはかったるいですし、「アイテム」コマンドから「ギザールの野菜」を探している間にチョコボが逃げると理不尽さを感じます。
結果として、物理攻撃の連打、ダメージを受けてきたらリミット技をぶっ放して終了という雑な戦い方に陥りがちという問題点がありました。
本作ではうまくそこを解決しており、「クラウドたちが仮に『ファイア』を打ちたいと思ったときは、コマンド欄を開いてカーソル選択して、みたいな時間は経過せず、0.何秒ですぐに打つよね」という発想に基づき、ユーザの入力時はスローモーションになるという事で(あるいはショートカットコマンドに登録して)、ゲーム内キャラクター体感時間とユーザ体感時間の同期を図っています。
リアル時間経過の緊張感はATBバーがたまるまでの通常攻撃・回避・防御の時間に委任され、ATBコマンドは体感時間の同期をする事で戦略的な入力を促す、という事で、緊張感と戦略をうまく両立させています。
90年代後半は「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)が社会現象になっており、内省的で鬱なキャラクターが大流行した時期です。一説ではクラウドのキャラクター像もその影響下にあったとされています。真偽はさておき、「エヴァ」を差し置いても90年代末期は阪神淡路大震災(1995年)・地下鉄サリン事件(1995年)・そしてノストラダムスの大予言と世紀末に向かう終末感が日本を覆いつくしていた時代です(遅れて2001年に9.11.という災厄が世界を覆うのですが)。
こうした時代の創作物のキャラクターは同時の小中高生の感性に大きく影響を与えており、個人あるいは社会が負った傷のようなものと密接にリンクしているように考えています。
実際に、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」(2007年)、「輪るピングドラム」(2011年)と、創作物の文脈においても「(個人あるいは社会が)子供のころの傷を大人になって乗り越える」ようなアプローチが繰り返されています(少し文脈が違いますが、米国においては「Once Upon a Time in Hollywood」(2019年)は50年越しの復讐ですね)。
そういう意味で言うと、本作は「運命の番人フィーラー」をはじめとして露骨なまでにメタ要素を配置し、エンディングに至っては「Crisis Core FF7」(以下CC)をプレイしていない限りほぼ意味が理解できないものとなっています。今後次回作があるとして、その展開は「ヱヴァ」よろしく原作とは離れたものになっていくことはほぼ確定的です。
その原作からの変化は、現代までの社会的文化的変化を踏まえて何らかの傷を乗り越える(新しい見方や感動を与えてくれる)役割を果たすものになると考えられますが、果たしてそれはどういったものになっていくのでしょうか?
正直に言うと、わたしのような原作はプレイしたことがあるもののCCをプレイした事がない大多数の人間にとっては、ザックスはそんなに思い入れがないキャラクターであり、何らかの傷を乗り越える在り方になっているかと言うと、ちょっと微妙です(ザックスファンの方、すみません)。クラウドがエアリスを神羅ビルから奪還する動機と比較して、フィーラー・プラエコと戦闘したりする動機自体がかなり弱い点も気になります。
本作があくまでジャブであると捉えると、やはり本命の主題は「エアリスの死」をいかに乗り越えるかという事になるかと思います(※)。それはもしかしたら、原作におけるクラウドが幻想の記憶に打ち勝つ(弱い自分を認める、ティファを救ったという自信の獲得)プロセスと同時、あるいは置き換えになるのかもしれません(フラッシュバックにエアリスの死のシーンがあるので)。
※既に今作で運命が改変されたので、回避できたという見方もあります。
ただしそれがもし仮に、なんとなーくクラウドがもやもやした空間に入ったら、なんとなーく原作を歪め過ぎないようにデザインされた敵キャラ(フィーラーの事です)を殴って、なぜかエアリスの死が回避できた、みたいなものだったとしたらお粗末が過ぎますし、そういったものにはならないと信じたいです。しかしビッグス生存にしても、「死んでそうな奴が奇跡的に生きてる演出で感動ポイントを稼ぐ」方法が濫用されている感があって、とにかく不安。。
本作においてはクラウドはほとんど救済されていません。大多数の原作のみをプレイした少年たちにとって、自己投影の対象はまさにクラウドであり、彼の次回作における葛藤はどのようなもので、どのようなプロセスで解決されるのか。不安もありますが、同時に楽しみでもあります。
本作はクラウドの、一見クールだけど実は仲間思いでコミカルな部分もある、というところが非常に丁寧に描写されており(「お前、ウェッジに懐かれてたよな」から始まるくだり大好き)、期待を持って次回作を待ちたいと思います。