今そこにあるものを大切にしなさい。目の前の人や物、出来事まで今をもっと感じて生きなさい。
そう言われたのは師匠だったか親だったか。記憶の彼方にある言葉はもう誰とも判断がつかぬ。しかしそれはもう私の体に染み込み私の言葉としてまた伝えている。大切にしたい今はなんであろうか、何が起き何があるのだろうか。今あるものそれは私にとって何か、もちろんミスドである。
我々は普段持っているものに感謝などしない。思いを寄せることも存在を感じることすらない。しかしあらためてそれがあることを考え直してみれば我々は奇跡と言わざるを得ない生活を送っている。当たり前の奇跡は一つに対する執着を忘れさせながら感謝も忘れさせる。
仏教で言えば執着を捨てることは一つの悟りである。しかし同時に感謝を失うことはそこに含まれているだろうか。私達は何を得て何を失っているのだろうか。このドーナツの穴越しに見える景色はなにがあるだろう。
私の見る限りさつまいもドの外部評価はここまで概ね良好である。不評といえばパサパサとかモソモソとかいうところへの不評でそれは芋だと思えば普通のものである。
紫いもも芋らしい風味がプラスされて良好である。表面の胡麻のプチプチやグレーズの食感とホクホクしたドーナツがいいマッチングである。
制度変更直前で外出している一般人が迷い込んでいるようである。人が多くこの機会に冒険者が増えればいいと思うものである。
隣の一般人はコーヒーが起きに召したようで嬉しそうに飲み干していた。ミスドのドーナツ以外が評価されるのは専門冒険家として嬉しいものである。