9年前の14時46分をリコーの銀座本社で経験した。15階にある応接室が左右に大きく揺れたとき、机の下に避難することも忘れて、椅子からずり落ちないようただ足に力を込めていた記憶がある。対照的に周囲のアナリストはさすがに冷静で、スマホやガラケーで地震情報を集めたり、家族の安否を確認したりしていた。結局、わたしが家族と連絡できたのは夜になってからだったように思う。
もともとIRに遅れていたリコーが、スモールミーティング形式で当時の三浦CFOと対話する機会を初めて設けた日であった。参加したアナリストの数は、たしか7名ほどではなかったか。14時から始まったミーティングの話題といえば、事務機市場の中期的な展望にもっぱら関心が集まっていたように思う。ペーパーレス化による市場の退行を懸念する声が株式市場で強まってきた時代だ。震災が起きたのは、そんな議論に参加者がやや飽き始めていた時であった。
三浦CFOの当時の対応を今でも鮮明に憶えている。「みなさん、揺れがおさまるまでその場にいらしてください。スタッフも席に着くように。なあに、死ぬときはみな一緒ですから」。不安や動揺を和らげようと三浦CFOなりに軽口を叩いたつもりだろうが、その場にいる者たちはみな同じことを思ったはずである。「あなたとは死にたくない」と。
アナリストからの三浦CFOの評判は必ずしも良くなかった。語り口はスマートだが、どこか温かみに欠ける。微笑みをたたえながらも両の目は決して笑っていない。ひと言で表現すれば慇懃無礼な印象を与える人であった。CFOに無礼を感じるのはそれこそ無礼かもしれないが、IRには熱心に取り組む姿勢を見せながらも、株式市場との対話は必ずしも成功裏に進まなかったように思う。
しかし、マネジメントとしては非常に優れた才能を発揮されたと感じている。震災の翌月に副社長へ就任し、事務機を取り巻く環境が悪化するなかで、それまで聖域であった国内の人員削減を主導した。株式市場との対話で見せた冷徹さが、リコーを危機の淵から救い出す原動力になったと言ってもいい。三浦副社長は2013年4月に社長へ昇格し、それから4年間のリコーを指揮することになる。
リコーといえば、大胆な構造改革の旗手として現在の山下社長にとかく脚光が当たりがちだが、三浦前社長が変革への地ならしを行ったからこそ、山下社長も自由度を持ってマネジメントできているのではないかと思う。
さて、震災の日、みなさんはどこで何をしていましたか?