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第二章  祈りは砂にまみれて瓦礫に埋もれる (ep.7-8)

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  • 2024/09/06 07:15

        7

 

 オレがまだノクタルシアにいた頃、街の中心で拳を振るう日々はまるで夢のようだった。あの頃のオレは、リングの上で輝いていた。

 ノクタルシアは昼も夜もなく、まるで星々の海に浮かぶような光に包まれている。巨大なビルのネオンが夜空を照らし、カジノやクラブが賑わうその街で、オレの名はそこそこ有名だった。街の奴らは、オレのことを「黒い拳」と呼び、リングでのオレの戦いぶりに熱狂していた。毎週末には、高級クラブのVIPルームでパーティーが開かれ、シャンパンのコルクがまるで銃声のようにあちこちで鳴り響き、金と名声がオレを包んでいた。

 オレの拳は、ノクタルシアで最も価値のあるものだった。街のボクシングジムはどこもオレをスカウトしようとし、マネージャーやプロモーターは大金を積んで契約を結ぼうとした。リングに立つたびに、観客の歓声がオレの耳に飛び込み、アドレナリンが体中を駆け巡った。相手の顎に一発入れるたび、観客が沸き、賭け金がどんどん跳ね上がる。その興奮が、オレを一層強くした。

 ノクタルシアの夜景を一望できる高級マンションの一室で暮らし、どんな贅沢も手に入れた。恋人もいた。彼女は街の有名なダンサーで、オレと同じように注目を浴びる存在だった。一緒にレストランやパーティーに顔を出すたびに、カメラのフラッシュが光り、雑誌や新聞にも取り上げられた。あの頃のオレは、人生の絶頂にいたんだ。

 しかし、そんな栄光の日々はいつまでも続かなかった。試合の数が増え、体は徐々にボロボロになっていった。リングに上がるたび、骨の軋む音が聞こえるようになった。何度も医者から試合を止めるよう忠告された。それでも、オレは戦い続けた。なぜなら、拳を振るうことでしか生きる術がなかったからだ。そして、ある試合の日、オレの拳はついに限界を迎えた。

 その日の対戦相手は、全身が白い体毛で覆われたゴリラだった。不気味な赤い目をしていた。その体はまるで岩のように頑丈で、圧倒的なパワーとスピードを持つファイターだった。リングに立つだけで観客を黙らせるほどの威圧感を放っていた。

 オレは自分を鼓舞し、全力で戦った。だが、そんな全力なんてまるで赤子が駄々をこねている程度だと思い知らされるほどに圧倒的だった。オレに向かってくる拳はまるで鉄槌のようで、ガードした腕ごと打ち砕いた。骨の砕ける音が聞こえた。痛みとともに、観客の歓声が頭の中で反響する。オレは膝をつき、やがてリングに倒れ込んだ。

 あの瞬間、オレのすべてが終わったんだ。拳が使えなくなったオレに価値はなく、マネージャーもスポンサーも、みんなオレから離れていった。恋人すらもそんな無様なオレを蔑んだ。それが現実だった。

 何もかもを失ったオレは、堕落の坂を転げ落ちるようにして、底なしの暗闇へと沈んでいった。金はなく、信用もなく、誰も寄り付かない。そんな生活の中で、オレは酒に溺れ、ギャンブルに手を出し、借金だけが膨らんでいった。あの頃のオレは、過去の栄光に縋り付いてどうしようもない毎日を送っていた。そのどうしようもない毎日を忘れるためにドラッグに手を出した。

 白い粉を吸い込んだ瞬間、全ての苦しみが嘘のように消えていく気がした。脳内に広がる陶酔感、全ての痛みが、全ての苛立ちが、一瞬で霧散していくようだった。オレはその感覚に溺れ、何度もその快楽を求めた。

 だが、そんな日々はすぐに底をついた。ドラッグを買う金すらなくなったオレは取引のために呼びつけた売人を半殺しにして、その手にあったドラッグを盗んだ。

 次の瞬間、強い光がオレの目を貫いた。反射的に振り向くと、目の前には数十のサツがオレに向けて銃を構えていた。サツの怒号が耳をつんざき、オレは一瞬、自分がどこにいるのかさえ分からなくなった。強い光でろくに目も開けていられなくなっていたが、逆光で見える銃を構えたサツのシルエットがじわじわと浮かび上がる。

「動くな!」

 その声がオレの耳に届く頃には、手錠の冷たさが、オレの皮膚に食い込んでいた。本当に、すべてが終わったのだと思った。

 刑務所を出た後、行き場を失ったオレは今のスラムに流れ着いた。良くも悪くもスラムは受け入れるものを区別しない。刑務所とさほど変わらないな、そう思ったが、ここでなら自分の過去もリセットできると思った。それが償いだと考えれば生きていく理由になるように思えて、気が楽になった。

 

        8

 

 スラムでの生活は甘くはなかったが、ここには慣れ親しんだ匂いがあった。酒と汗と血の臭い。それは、どこにいても変わらなかった。

 最初の数週間は地獄だった。ボクサーとしての栄光もプライドも、ここでは何の役にも立たない。手元に残っているのはボロボロになったボクシンググローブと借金だけだった。どう生きていけばいいか露頭に迷ったが、先住者の生活を観察しているうちにあることに気づいた。この街はシンプルだった。誰かから何かを奪って生きる。それが全てだったし、そう気づいたときにはもう気持ちは前向きになっていた。都会だろうがスラムだろうが、結局は「奪う者」と「奪われる者」に分かれる競争原理の社会であるという意味では同じだと気付いたからだ。ノクタルシアのような煌びやかな都会では、金を奪うために権力を使う者もいれば、名声を得るために他人を踏み台にする者もいる。金と権力が全ての都市では、成功者が得るものの裏で、必ず誰かが奪われている。誰かの成功の陰で、多くの者がその命や未来を奪われていく。互いに競争し合い、上を目指すという美談のもとに隠されるが、その実態は奪い合いだ。

 かたやスラムでは、その競争はもっと直接的だ。食料、水、居場所――生活に必要なもの全てが奪い合いの対象となる。弱い奴は、強い奴に物理的に奪われる。ここでの競争はもっと単純で、そして残酷だ。誰かが手に入れた食料はその者の命を意味し、食料を奪うということは殺すことと同義だ。自分の食料すら守れない奴は命の弱さを示している。この競争において、弱者は徹底的に奪われ、淘汰される。奪い合いの中で何を奪うか、その手段が違うだけで本質的には同じだ。ノクタルシアのような都市で成功するには、他者を利用し、時には裏切り、踏みつけにすることが必要だった。スラムではフィジカルな強さだけが求められる。

 ある夜、オレは一匹のコヨーテと戦った。道のすれ違いにケンカを吹っ掛けられた。そいつはスラムの中でも有名なストリートファイターで、以前は軍にいたという噂があったが、その噂も本当であるかのように動きは正確で、無駄がなかった。何度か打ち込んだが、全てかわされた。オレは顎に一発食らわされ、そのまま地面に倒れた。目を覚ますと、見たこともない男がオレに水を差し出していた。その男は、ジャックといった。

 ジャックもスラムに来る前は軍にいたといっていた。コヨーテのことは知らないと言っていたが、なぜか軍からの流れ者でスラムにいる奴は多かった。それが本当かどうかはわからない。不要な争いを避けるにははったりも必要だからだ。たとえヒョロヒョロの奴でも軍にいたと言えば、とたんにその姿はステルス任務のために絞り切った体かのように思えてくる。ジャックは、小さな賭け場を取り仕切っている、と言った。

「お前、まだ死にたくないだろ? なら、少しは頭を使え。拳だけで生きられると思ってる奴は、本当の強さが何かを知らない」

 その言葉は、コヨーテに殴られるよりも遥かに重いパンチを脳天に打ち付けてきた。ジャックの言葉には一理あった。彼はオレにいくつかの仕事を紹介してくれた。汚い仕事の方が多かったが、オレには文句を言う資格もなかった。少なくとも、それで金は稼げたし、何よりもまた拳を使わずに生き延びる方法があることを教えてくれた。

「生きるためにはな、手段を選んでる暇なんてないんだよ。何でもやるっていうのが生き残るコツなのさ」

 最初に手をつけたのは、『運び屋』の仕事だった。スラムの狭い路地を使って、ある地点から別の地点まで荷物を運ぶだけの簡単な仕事だとジャックは言った。だが、その荷物が何なのかについては一切教えてもらえなかった。夜な夜な指定された場所に行き、ダッフルバッグを受け取っては暗がりを抜けて目的地まで届ける。緊張感がピークに達する中で、ただ無心に足を動かした。中身を開けることは禁じられていたが、薄々感じていた。ドラッグや銃、あるいはそれ以上に危険なものが詰まっているに違いない。受け渡しがスムーズに終わることは少なかった。ある時には、荷物の受け取り先でドーベルマンにかみ殺されそうになったこともあるし、サツに捕まる危険性だってもちろんあった。

 『運び屋』と並行してやっていたのは、『取り立て』の仕事だった。借りるときはへこへこ頭を下げるが、返すとなったらシラを切る奴は多い。オレが金貸しをするわけじゃないが、回収に手こずっている奴の代わりにオレが文字通り力ずくで取り返す。抵抗されたら、顔面に拳を叩き込んで黙らせる。どんな仕事であれ実績ができれば噂になる。いつしかオレの名前がスラム中に広まっていった。「黒い拳」がスラムに戻ってきた、と。忌々しい過去の名が再び聞こえるのは、嬉しいものではなかったが、その名があることで『軍にいた』と同じくらい、肩書だけで仕事がスムーズに終わることは多くなった。

 それから地下に闘技場を作ったという奴が出てきて、そこで格闘技ビジネスをやるんだ、ギャンブルだよギャンブル、お前にはそこでの名物ファイターになって欲しいんだ、と鼻息荒く迫ってきたのがヴィックだった。

 興行としての殴り合いには慣れていた。一度はその道で栄光を掴んだ男なのだから。八百長のためのオファーだということも言われずとも理解していたし、胴元が儲けるようにわざと負けることもあった。

 ジャックが言った通り、スラムでは生きるためには何でもやらなければならない。どんな仕事かは重要ではなかったが、汚い仕事をしてまで生きようとしている自分に、この生き方が本当に正しいのか? この先に、何が待っているのか? と問いかけることが多くなったのも確かだ。生き延びることはできたが、結局、オレはスラムに落ちてまでもノクタルシアでの日々と何も変わらない生活を送っているのでないかとも思えてきた。これはもう呪いなのか、と。

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