9
夜のスラム街は、いつも通りに危険で不気味な静けさを纏っていた。オレは「運び屋」の仕事で指定された場所へ向かっていたが、途中で遠くから不自然な音が聞こえてきた。足音が混じった、荒い息遣い。オレは立ち止まり、音の方向に耳を傾ける。
かすかに走る音、物がぶつかるような音、鋭く裂けるような金属音が慌ただしく鳴り響いた。誰かが追われているようだった。オレは音の方へと息を潜めながら覗き見る。すると、路地の奥に一人の女が走って行くのが見えた。それに続いて後ろから複数の男たちが追っている。男たちは互いに叫び合いながら、女を追い詰める足音に石や空き缶を蹴飛ばす音を重ねていた。
「待て! 逃げられると思うなよ!」
荒々しい叫び声を反響させながら、前方の女に向かって手を伸ばそうとする。だが彼女は巧みに身をかわし、狭い路地を蛇行するように走り続けた。彼女は廃れたゴミ箱の間をすり抜ける。男たちはそのゴミ箱にぶつかり大きな音を立てた。
「くそ、待ちやがれ!」
怒りを爆発させながら、手に持った鉄パイプでゴミ箱を叩きつけた。男の声は獣のように荒々しく、響き渡る。その一瞬、女は距離を遠ざけるが、彼女の息が切れてきているのは明らかだった。
オレはその様子を遠目に追ってはみるものの、どうするか考えあぐねていた。このままでは女は追い詰められるのも時間の問題だろう。だが、複数を一手に相手するのは分が悪いのも事実だ。出て行ったところで助けられる確率はそれほど高くない。そんなことを考えていると、女は袋小路に入ってしまった。ばか……そっちは行き止まりだぞ、オレは小さく呟く。追っ手たちもそれを追うように路地の闇に入っていくのが見えた。
「チッ、面倒だな……」
オレはバッグを地面に下ろし、袋小路を覗き込む。案の定、女は壁に背をつき、男たちに追い詰められていた。オレは近くを見張るようにしている男に狙いを定めた。次の瞬間、オレはその男の顔面に強烈なパンチを食らわす。男は声を上げる間もなく、壁にぶつかり倒れ込んだ。
「てめえ、何者だ!」
女の腕を掴んでいる男がこちらに気づく、その後ろにもう一匹。その一匹が怒鳴り声を上げながら襲いかかってくる。その動きを見て安堵した、こいつら大したことないぞ。オレは一人目の拳をかわすと、男の足を払いバランスを奪う。次の瞬間、反対側からもう一匹が鉄パイプを振り下ろしてきたが、オレは一瞬で体をひねり、その攻撃を避けると同時に素早く足を踏み込んで、相手の顎にアッパーをお見舞いする。先ほどバランスを崩して足をついていた男が立ち上がろうとしている。すかさずオレは渾身の右ストレートを入れた。
手を叩《はた》きながら尻もちをついている女に手を差し出す。
「無事か?」
女は、ありがとう、と言ってオレの手を取り、立ち上がる。
「こいつらが起きると面倒だ。さっさとこの場を離れよう」
そう言って、掴んだ手は離さずにそのまま引っ張っていくように連れ出した。
10
オレは、女を連れ出してスラムの裏通りを進んだ。追っ手たちから一時的に逃げ切れたとはいえ、この街では油断はできない。安全な場所などどこにもないが、オレの家ならまだ守ってやれると思った。周囲を警戒しながら、オレは彼女を連れて自分のボロいアパートに向かった。
部屋に入ると、いつも通りの狭い空間が広がっていた。基本、電気は通ってないため暗かった。ランプに火をつける。クロウクスラムの一角にあるこの部屋は、他のスラムの住居と同じく、古びた建物の一室で、最低限の生活空間だけが確保されている。ここがオレの住処、狭いが一応プライバシーを守れる場所だ。
玄関から狭く短い廊下が伸びていて、右手には居間があるが、壁際に小さなソファと古びたテーブルが置かれているだけの簡素なものだ。ソファは中のクッションがすり切れていて、座るとギシギシと音を立てる。テーブルには、ここ数日の食器や使い古したボクシンググローブが無造作に置かれている。居間の壁には窓があるが、外光を取り入れるだけで開閉はできない。窓はひび割れて、風が吹くと隙間から冷たい風が入り込む。
左手にはキッチンがあり、錆びたシンクの周りには使いかけの缶詰や調味料の瓶が乱雑に並んでいる。コンロは古いガス式で、いつ壊れてもおかしくない代物だ。オレが勝手に修理したせいで、ガスの元栓はかなり危険な状態だが、今のところはなんとか持ちこたえている。シンクの中には洗い物が溜まっているが、最近は忙しくて手が回っていない。
突き当りにはドアが並んでいて、寝室に通じるものとバスルームだ。寝室は狭く、二人で使うには窮屈なシングルベッドがひとつだけある。壁には、使い古した毛布で壁のひび割れを塞いでいるが、断熱効果は果たしてくれない。バスルームは小さく、シャワーとトイレが一体化している。排水口がすぐに詰まり、使うたびに掃除をしないと水が溢れてしまう。鏡は割れていて、そこから少し錆びた鉄のフレームが剥き出しになっている。間取りはそんな感じだ。
「ここにいれば、ひとまず大丈夫だろう。少なくとも今夜だけは」
オレはそう言って、女を部屋の中に促した。女の顔にはまだ緊張が残っていて、部屋の中で突っ立ったままだった。まあ座れよ、とソファを指差す。女はソファに腰かけ、疲れた顔で手を膝に乗せたままじっと何かを考えているようだった。床には女の足跡が残り、少し泥が散らばっている。オレはイーサン。あんたは? オレは名乗りながら、名前を尋ねる。
「……カレン」
女は小声で答えた。声は震えていて、それが恐怖なのか警戒なのか緊張なのか分からないが、少なくとも今の状況でなら自分に対しての警戒心は解いてやらないといけないと思った。そうか、カレンか……いい名だな、オレは得意じゃない笑みを無理やり作り、冷蔵庫から水の入ったボトルを取り出してカレンに差し出した。電気は通ってないため、冷えてはいない。
「飲めよ、落ち着くから」
彼女は少し戸惑ったが、ボトルを受け取ると一口飲んでから深く息をついた。オレはカレンの様子をじっと見ながら、さっきの出来事を思い返していた。この女が追われていた理由は何なのか。理由が分からないままに匿うにはリスクが大きすぎる。なあ、追われてた理由ってのは何だ? と、オレは切り出した。
「あれほど執拗に追いかけられているところを見ると、ただのトラブルじゃなさそうだ」
カレンは一瞬ためらったあと、曖昧な表情を浮かべた。
「……借りがあったの。それを返せなくて……少しだけ揉めたのよ、少しだけ」
その言葉は釈然としなかった。オレは眉をひそめながら顔を見たが、カレンは目を逸らしていた。何か隠しているのは明らかだが、深追いするのは得策じゃない。追及したところで簡単に話すとも思えなかった。
ちょうどその時、部屋の照明がパチッと音を立てて点いた。オレは思わず天井の明かりを見上げて、小さく笑った。
「とんでもない日だったな」
それを聞いてカレンは不思議そうな顔をしている。
「この街じゃ電気が通る日は稀なんだ。だから、灯りが点く日はいいことがありそうだとみんな言うんだ。願掛けみたいなものだと思えばいい。まさに今日みたいな日にはぴったりだろ?」
皮肉まじりにそう言って笑って見せたが、カレンにはどうもハマらなかったみたいだ。
「……ごめんなさい。巻き込んでしまって……」
カレンは申し訳なさそうに下を向く。灯りに照らされて、改めてカレンの姿がはっきりと見えた。カレンもオレと同じ黒いカンガルーだった。クロウクスラムで黒いカンガルーに出会うなんて珍しいことだ。カンガルーは神経質で面倒な奴が多い。スラムで生活するには向いてない性格だ。ノクタルシアの都市圏か、クルクタウンにいても比較的インフラの通っている南部地区に落ち着いているのがほとんどだ。そんなところで、同じような顔つきをしたカンガルーに出会うとは。奇妙な親近感が嫌でも湧いてくる。ノクタルシアでの恋人のことを思い出していた。彼女も黒いカンガルーだった。目の前の女の顔に不思議な既視感が重なっていく。だが、目を凝らしても明らかに彼女とは違う。その顔には何かしらの影と恐怖が貼り付いているように見える。ノクタルシアの彼女に貼り付いていた顔は、哀れみだけだった。
カレンの顔はやつれていて、顔や体にはところどころ汚れが目立つ。目の下には深いクマが刻まれており、疲れ切った様子が伺える。服もところどこ擦り切れて破れてはいるが、都会的な名残がある。カレンの服装は、かつての都会の洗練を感じさせるものだった。
上にフィットした黒のレザージャケットを羽織っており、ジャケットは細身で無駄のないシルエットが体のラインを際立たせる。袖の部分には金属のジッパーが施されており、どこか攻撃的な印象を与えている。生地は所々擦り切れ、雨風にでも晒されたのか色褪せてしまっていた。インナーには、薄いグレーのタンクトップが見える。素材は伸縮性があり、動きやすさを考慮したデザインだ。タンクトップの裾は、都会的なモードスタイルを彷彿とさせる不均一なカットがされていて、胸元にはプリントが施されているが、泥が跳ねたような汚れによってそのデザインは不明瞭だ。
ボトムスは、ダメージ加工が施されたデニムのスキニーパンツ。都会では流行のアイテムだったが、カレンが履いているパンツにはデザインによるものだけではなく、実際の擦れや引っ掻きで増えた穴も目立っていた。スキニーの裾は細かく折り返され、足元は裸足だった。この格好ならヒールのあるパンプスでも合わせそうなもんだが、逃走中にでも脱ぎ捨てたのだろうか。
スラムに住んでいたらこういうコーディネイトにはならない。こういう恰好はノクタルシアではよく見かけた。ノクタルシアの中でもオフィスビルが建ち並ぶような、品のある地域で流行っていたスタイルだった。
「……おまえ、ひどく疲れてるみたいだな」
オレは言った。カレンは無言でうつむき、少しの間だけ目を閉じた。灯りの下で見える彼女の姿は、スラムの闇に飲み込まれた者たちの象徴のようだった。オレはため息をつき、また冷蔵庫からもう一本の水を取り出した。
「とりあえず、今夜は休め。明日からのことは起きてから考えればいい」
彼女は無言で頷き、やっとのことでソファに身を沈めた。オレはそのまま灯りを見上げ、苦い笑みを浮かべた。こんな日に電気が通るなんて、皮肉な話だ。オレはそう思いながら、明かりの下でカレンの寝姿を見つめていた。