11
オレはカレンをしばらく自分の部屋に匿うことに決めた。追っ手があきらめたとしても、スラムの中は決して安全とは言い難い。少なくともここなら目立たずに隠れることができる。オレ自身もノクタルシアから流れてきてこのスラムで生き抜いてきた。スラムの現状を知っているだけに、置き去りにできるほど冷酷にはなれなかった。闘技場での試合や裏稼業の仕事をしながら、しばらくは彼女を守ることにした。
「しばらく、ここにいればいい。追ってきた連中が諦めるまでな」
カレンは最初、オレの提案に半信半疑の表情を浮かべていた。だが、追い詰められた状況で頼る相手もいないのだろう、カレンはその提案を受け入れた。そのときの彼女の目には、わずかな希望と、裏切られたくないという切実な思いが混じっているように見えた。大丈夫だ、とそっと呟く、カレンに言ったつもりだったが、それはまるで自分自身に言い聞かせているかのようでもあった。彼女を守ることで、今まで失ってきた何かを取り戻せるような気がしたからだ。
共同生活が始まってから、何か月か過ぎた。カレンは最初の頃こそ警戒心を隠さず、心を開かない様子だったが、次第にリラックスした態度を見せるようになった。オレが日々の試合から帰ってくると、カレンはいつも小さな灯りのもとで待っている。夕食を作り、疲れた体を迎えてくれるその姿に、オレはどこか懐かしさと安心感を覚えるようになっていた。
カレンは日常生活の中で少しずつスラムの生活に慣れていったようだが、時折、目を伏せて物思いにふけるような仕草を見せる。彼女との日々が満たされれば満たされるほどに、カレンの表情は曇っていく、そんな印象さえあった。
そんなある日の、夕日が深く沈む頃、オレは闘技場に向かう準備をしていた。カレンは黙って台所に立ち、何かを作っているようだった。オレは拳のバンデージを巻きながら、カレンの横顔を盗み見る。カレンは時折、小さなため息をつくようにして料理をしている。ここ最近、疲れなのか、カレンは無理に笑っているような表情を見せることが多くなった。逃亡生活のストレスのせいかもしれない。それでもカレンは、オレに対しては自分の気持ちを吐露するようなことはなかった。
「じゃあ、いってくる」
カレンが振り向き、オレをじっと見た。彼女の目には何かを言いたげな光が宿っているが、その言葉は口にされない。オレはそれを察して、軽く頷いた。
「今日の試合に勝てれば、しばらくは安心していられる。負けたら……まあ、そんなことは考えたくないな」
カレンはわずかに微笑み、ふと顔を上げた。
「気をつけてね。何が起こるか分からないんだから……」
「ああ、分かってるよ。こっちの生活には慣れてきたか?」
「うん、少しずつね。イーサンがいてくれるから……」
オレは彼女の言葉を聞きながら、照れくさく頭をかいた。だが、今は試合のことに集中する、そう言い聞かせ二、三度両手で頬を|叩《はた》いた。
「帰ったら話そう。カレンも……あんまり考えすぎるなよ」
カレンは、料理途中のガスの火を消して、玄関先まで駆け寄ってくる。ごはん作って待ってるね、そういって微笑みかけ、軽くハグをした。
試合が終わり、汗と血の匂いが染みついたまま、オレは闘技場を後にした。今日の試合は激しかったが、何とか勝ち抜けた。勝利の余韻に浸ることもなく、オレは路地裏へと足を向けた。道の途中で、ヴィックを見かけた。ヴィックはいつも路地の隅でタバコをくゆらせている。
「ヴィック、何やってんだ? こんなところで」
ヴィックは顔をこちらに向けることなく、見張りさ、と一言だけ口にしてタバコの煙を吐いた。
「あんたも知ってるだろ? 今夜はやべえんだ」
今夜は街がピリついている。ドラッグを巡る抗争が激化し、ギャング同士の血を見る日が目に見えて増えてきた。
「ディアゴとアルヴァロのやつ、いよいよ仕掛ける気で牽制し合ってる」
ヴィックは苦笑いする。このままじゃあ、オレらが間に入ったところで今のバランスも長くはもたないだろうな、とヴィックはタバコの灰を落として、レッドスコルピオンとブロークンナイツのことについて饒舌に語り出す。
「なあ、何か分かったら教えてくれ。何でもいい」
「お前にしちゃあ珍しいじゃないか。あまり首を突っ込むと、知りたくないもんまで知ることになるぞ、イーサン。だが……まあ、いいさ。後で後悔しないようにな」
そう言ってタバコを下に落とすと、ヴィックは何かを思い出したかのようにオレの顔を見た。おっと、ひとつ言い忘れてた、と言って頭をかく。
「最近、闘技場には見慣れない顔が増えてるって話だ。お前も気づいてるかもしれねえが、いつもと雰囲気が違う。情報屋の目はごまかされねえ」
「何の話だ?」
ヴィックは一瞬考え込むようにしてから、言葉を選ぶように話し始める。
「最近の闘技場に来る客、スラムの奴らじゃねえんだよなあ……最近、スラムに流れて来た奴らとも違う。あまり目立たないようにしてつもりだろうが、あんな場所で歓声のひとつも上げてなきゃあ嫌でも目立つだろ。で、何をしているかと思えば、決まった試合だけやたら見に来るんだ」
「決まった試合?」
「イーサン、お前だよ。お前の試合にだけ見に来るんだよ」
オレは笑った。
「ただのファンじゃないのか」
自分で言うのも恥ずかしかったが、そんな奴なんていくらでもいる。さあそれはどうかな、とヴィックは不敵に笑い、リキッダム・カルテル、とひと言だけぽつりと呟いた。その名前が出た瞬間、オレの体が一瞬固まった。ノクタルシアでの生活で、リキッデム・カルテルの名は何度も耳にした。その連中がどれだけ危険な存在か、オレはよく知っている。奴らはドラッグの製造もすれば、広範囲での密輸も行っている。都市圏を中心に爆発的に販路を広げていて、ビジネスエリアを残虐的な手法で独占している。顔見知りの売人がカルテルのエリアでたった一度、取引をしただけで殺されたこともある。
知ってるみたいだな、イーサン、ヴィックが笑いながら言った。
「名前はな。だが、この街に来てるってんなら、ただ事じゃねえだろう」
「ま、そういうことだ。で、肝心のドラッグの話だが……どうやらあの連中も嗅ぎまわってるらしい。出所がブロークンナイツって噂もある。実際にホンモノがあるかどうかも怪しいが、カルテルの連中が来てるだけでもずいぶんと信憑性は高くなる」
ヴィックは少し考え込んだ後、それに……、と何か言いたそうにぽつりと呟く。その瞬間、遠くからサイレンの音が響き始めた。
「どうやらこのあたりでお開きのようだ」
ヴィックはそう言いながら、言いかけた言葉をごまかすように、じゃあな、と手を振って去っていった。
オレはヴィックの後ろ姿を見送りながら、次第に近づいてくるパトカーのサイレンに意識を集中させた。次の瞬間、オレの視界をライトが直撃し、目が眩んだ。混乱する間もなく、動くな! という怒鳴り声が響き、銃声と共にオレの体に強く弾かれるような衝撃が走った。痛みと共に意識が遠のき、オレはその場に崩れ落ちた。
12
「目が覚めたか? イーサン」
重たい瞼をゆっくりと開けると、オレは薄暗い取調室の中にいた。体は椅子に縛り付けられている。少しぼやけた視界の中で誰かの顔がある。
「ヴィックか?」
「ヴィック? 残念ながらオレはヴィックじゃないな」
焦点が定まってきた目には、くたびれた革ジャケットを着た男が見える。その顔が見慣れたものだと気付くのに時間はかからなかった。ジェイクだった。
体のいたるところがズキズキと痛んだが、さっきまでのヴィックと話したことを思い出していた。
「ジェイク、お前かよ。こんなことして、何のつもりだ?」
「まあまあ、そんなに怒るなよ。覚えてるか? オレはお前に借りがあるからな、イーサン」
ジェイクはニヤリと笑いながら、取調室の椅子にどっかりと腰を下ろした。
「借りだと? 何の話だ?」
ジェイクは煙草を取り出し、一本くわえる。
「お前が闘技場でファイターになってから、ずいぶんと儲けさせてもらった。感謝してる」
オレはうっすらと笑った。
「なるほどな。そういうことかよ」
ジェイクは、オレとヴィックが手を組んで八百長していることを嗅ぎつけて、それをエサにゆすりをかけてきた。黙っててやるから勝たせろ、と。ヴィックもサツに恩義を打っときゃ何かと都合がいいとその話に乗った。
「そういうこった。オレだってまだまだ稼ぎてえんだ。お前をここでただ撃ち殺すなんて、そんなつまらねえことはしたくねえ。上からの命令じゃ、見つけ次第ぶっ殺してもいいって話だったんだぜ?」
だけどな、といってジェイクはポケットから何かを取り出してオレの前に突き出した。
「弾をゴム弾に変えておいたのさ。ゴム弾で死んじまうくらいならスラムじゃあ生きてけねえよなあ」
オレは呆れたようにジェイクを見つめ、苦笑いを浮かべた。
「上の命令に逆らってまでもか? 何のために?」
ジェイクは煙を吐きながら、薄笑いを浮かべた。
「簡単さ。お前にチャンスをやるためだ」
「チャンス?」
ああ、俺もお前に借りがある。借りは返すもんだろ? ジェイクはそう言って、両手を広げ自慢げに笑って見せた。
「何を都合のいいことを……で、結局は何が狙いだ? 俺を助けるだけの話じゃねえだろ」
ジェイクは目を細め、急に真剣な表情になった。
「イーサン。お前、女をかくまってるな?」
女? とオレは一瞬だけとぼけたが、カレンのことを言っているのはすぐに分かった。
「とぼけても無駄だぜ? お前が女をかくまってることなんてとっくに分かってる。あの女はとにかくやべえ。どんなにやべえかって? かくまってるお前を殺してでも連れ出して来いと命令が出るくらいやべえのさ」
その言葉にオレは体を前に乗り出し、ジェイクを睨みつけた。
「カレンのことか? 何がどうやばいってんだよ」
ジェイクは、まあ、落ち着けよ、と言ってオレの肩を押すようにして座らせた。
「カレンって名前も本当の名かどうかも怪しいが……俺たちの調べによれば、ゼノポリスでリキッダム・カルテルと深く関わっていたらしい。ドラッグビジネスで牛耳ってる超巨大カルテルだ。どんなお偉いさんもあいつらには決して逆らえねえ。で、そのカレンって女もカルテルの一味だって噂がある」
オレの心臓が鼓動を速める。
リキッダム・カルテル――ジェイクの言う通り、その名を聞くだけで震えてくるほどにやばい連中だ。そんなやばい連中とカレンの姿を照らしてみても、その組織の中にいるイメージは全く持てなかった。 ジェイクの言葉はあまりに現実離れしていて、ただの噂にしか聞こえない。
ノクタルシアで暮らしていた頃にもその存在は知っていた。ゼノポリスを牛耳ってるとは聞いてはいたが、ノクタルシアの街でもリキッダム・カルテルによるドラッグはすでに拡販していた。
オレがリングで戦っていた頃、ノクタルシアにはごく一部のVIPしか入れない秘密倶楽部があって、リキッダム・カルテルによる「カルテルの夜」と呼ばれる定例イベントがあった。地下深くで行われるそのイベントでは、新しいドラッグを誰よりも先に試せる場として知られていた。ある夜、オレも誘われたことがあったが、断っていた。確かその日は「カトレア」とかいう黒い鉱石を材料とした珍しいドラッグがお披露目されるとかで、VIPの間では妙な熱気が広がっていたのを覚えている。
リキッダム・カルテルによる見せしめを目の当たりにしたこともある。カルテルは自分たちのビジネスエリアを侵すものは躊躇なく潰した。そのやり方は非道で残忍だった。まるで権力を鼓舞するかのように、エリアに侵入してきた売人たちを、何人も街灯に足から吊るし上げ斬首した。その切り落とした頭をエリアの境界に沿って並べていた。見せしめから街の誰もが、リキッダム・カルテルに逆らうことの愚かさを悟った。
「カルテルに? カレンが? そんなはずないだろう」
オレは自分に言い聞かせるように低く呟く。ジェイクは目を細めて頷いた。
「そう思いたくなる気持ちは分かる。惚れてるんだろ? お前がどんな女に惚れようとオレの知ったこっちゃあないが……あの女だけは、やめておけ。その女が本当に奴らと繋がってるなら、お前も巻き込まれることになるぞ。そうなったらオレだってお前のことを助けられる自信はねえよ」
「待てよ、ジェイク。所詮サツの情報だろ? 信用なんてできるのか?」
ジェイクは肩をすくめて笑った。
「サツの情報が信じられねえってのも問題だが……この情報だけは間違いねえ。現にその女、何かから追われてたんじゃねえのか?」
オレは唇を噛み締めた。カレンの正体がわからないまま、ただ彼女を守ろうとしていただけだった。もしジェイクの言っていることが本当なら、カレンはオレに何もかもを隠している。
「なあ、イーサン。俺もお前を助けてえんだ。だから、こうしよう。あの女を引き渡せ。そしたらお前は生きて逃げられる」
オレはジェイクを睨みつけた。カレンを売るか、信じるか。その選択肢がオレの前に突きつけられた。葛藤した。ジェイクの言葉が信じていいかも分からないが、ひとつだけ確かなのは、どちらにせよ、オレもカレンも無事では済まないということだ。
「ちょっと考えさせてくれ、ジェイク。時間をくれ」
「まあ、いいだろう。だが長くは待てねえぞ、イーサン。場合によっちゃあ二度目はねえ」
取調室の重たいドアが閉まる音を余韻に残して、オレは刑務署を後にした。