21
暗闇の中、オレはスラムの細い路地を駆け抜ける。遠くで聞こえる銃声と爆発音は続いているが、この辺りはまだ戦火に飲まれていないが、それも時間の問題だろう。アルヴァロのアジトはもうすぐだ。急がないと、手遅れになるかもしれない。
アジトの建物にたどり着いたとき、オレはふと足を止めた。ビルの出口から誰かが出てくるのが見えた。暗がりの中、その姿は影に溶け込んでいるようで、はっきりとは認識できない。誰だ……? オレは建物の角に身を隠し、息を潜める。姿勢を低くしながらその影を見つめ続けた。
影はゆっくりと歩き去り、闇の中へと消えていった。オレはしばらくその方向を凝視したが、それ以上の動きはないことを確認し、建物の中に足を踏み入れた。
廊下はひんやりとした空気が漂い、かすかに湿った土と鉄錆びの匂いがする。緊張感を感じながら、オレは慎重に足を進める。足音が静かに響き渡り、耳をすませると遠くからかすかな声が聞こえてくる。アルヴァロの声だ。
声のする方向に向かい、ゆっくりと進んでいくと、奥の部屋にたどり着いた。ドアの隙間から中を覗くと、アルヴァロが中に一人でいるのが見える。彼は窓の外を見ながら、まるで独り言をつぶやいているようだった。部屋の明かりは薄暗く、冷たい空気が漂っている。
オレは静かにドアを押し開け、部屋の中に足を踏み入れる。アルヴァロはオレの気配に気づくと、ゆっくりと振り返る。
「イーサンか。ようやく来たな」
オレは奴を睨みつけながら、低い声で問いかけた。
「カレンはどこだ?」
アルヴァロはにやりと笑みを浮かべる。
「カレンか? もうここにはいない。お前が来る前に出て行ったよ」
オレは驚き、先ほどの影がカレンだったのかと思いを巡らせる。
「あの影が……カレンだったのか?」
アルヴァロは肩をすくめて答える。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だが、お前がここに来た理由はそれだけか?」
「ふざけるな、アルヴァロ。お前の計画が何であれ、オレには関係ない。オレはカレンを連れ戻す」
アルヴァロは少し笑みを浮かべながら、壁にもたれかかる。
「あの女を追うのもいいだろうが、聞いておけ、イーサン。お前はオレを理解していないようだな」
オレはアルヴァロを睨みつけたまま、言葉を続ける。
「あんたは一体何をしようとしてるんだ?」
アルヴァロは嘲笑を浮かべ、少し笑い声を上げた。
「オレは世界を変えるんだよ」
オレは目を細め、奴の言葉を噛み締める。
「どういうことだ?」
アルヴァロの表情が一変し、冷静な口調で語り始める。
「お前が運んでいたものの正体を教えてやろう」
急に変わる態度に、全身の毛穴が締まる感触が走る。
「いずれお前は真実にたどり着くだろう。だが、それもここらで潮時だ」
アルヴァロの声は静かに響く。
「オレは利用できるものは全て利用する。お前だって例外じゃない。運び屋として使える骨のある奴を探していたんだが、ジャックに誰かいないかと尋ねたとき、真っ先に上がった名前がイーサン、お前だった。ギャングの連中ってのは、元々信用に値しない連中ばかりだ。欲深くて、金や力が目の前にぶら下がれば、すぐに自分の魂を売るような奴らだ。そりゃオレも同じさ。人を裏切ることなんて、奴らにとっては朝飯前だろう? だからこそ、そんな連中には重要な仕事なんて任せられねえ。任せたとしても、いずれどこかでオレを裏切る。少しでも甘い汁を吸おうとする奴らばかりだ。だが、お前は違った。お前はそのギャングの気質から外れている。真面目で、律儀で、スラムにいながらも自分の道を守ろうとしている。そういう奴は、利用しやすいんだよ。お前みたいな性格の奴は、自分のプライドを傷つけられるのを何よりも嫌う。仲間を裏切らない、それが誇りだと信じているだろ? 自分の言葉に責任を持ち、やると言ったことはきっちりやる。だからこそ、運び屋として従順に働ける。ギャングは一匹狼気取りの奴らが多い。何か大きなことをする前には自分の利益を計算する。だが、お前は違う。自分の決めた道には一直線だ。他の誰がどうだろうと、お前は自分の信じることを続ける。だからこそ、お前を選んだんだよ。スラムの連中が、欲や力に惹かれて裏切るのが早いのに対して、お前はその逆だ。お前は、そうした裏切りや策謀には興味がない。むしろ、誠実であることが自分の強みだと信じている。だからこそ、お前のような奴が運び屋として一番使える。オレの計画に必要な駒にはピッタリだ」
光栄に思えよ、と言ってアルヴァロは自信ありげに両手を広げて見せる。
「それで、そんな重要なものって一体何をオレに運ばせてたんだ?」
アルヴァロはゆっくりと笑いを浮かべる。
「子どもさ」
その言葉を聞いた瞬間、一気に血の気が引いた。なんだと? オレにはその理由が分からなかったし、その一言だけでも想像しうる最悪なシチュエーションなんて考えればいくらでも出てくる。その中でも少しでも安堵できる内容であって欲しいと願う反面、事実を確かめるためにその先を聞き出していいのかどうか、好奇心と嫌悪感で満たされて頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
カルテルはまだ『うさぎの涙』を完成させていない、アルヴァロはオレの問いかけなんて待たずして静かに続ける。
「オレがカルテルに復讐のプレゼントをするには、それがあれば十分だ。それを取引材料にすれば、連中の懐に入れる。そのためには、子どもの生きた血が必要なんだ。スラムには身寄りのないかわいそうな子どもたちが多いだろ? だからオレが価値あるモノに変えてやったのさ」
「オレは生きた子どもを運んでいた?」
「そうだよ。手下どもがさらってきた子どもを眠らせて箱詰めに、な」
その子どもたちは生きてるのか? オレは恐る恐る問いかける。ああ、生きてるさ、とアルヴァロは応え、オレは安堵したがその気持ちすらも後悔するほどの事実を告げる。
「眼球の裏っかわ、そこに神経がすーっと通ってるんだが、そこ目がけて針を通すんだよ。これがまた難しい、とても神経を使う。ガキは喚いて気が散るし、暴れやがる。あまりにうるさいもんだからつい殺してしまったのもいるが、まあ、仕方のないことさ。それくらい価値のあるものだからな」
その言葉が薄く硬い膜を引き裂くようにして、オレの意識の底にまで届く。微かな湿り気を帯びた暗い何かが胸の奥で蠢く。静かだが、致命的な冷たさを持っている。まるで氷の針が体内を滑るように。感覚が徐々に研ぎ澄まされ、世界のディテールが急速に歪んでいく。視界が鮮明になる。鼓動が遅く、重たく感じられる。指先に沸騰した血が溜まる。思考が剥がれ落ちて、濡れた肉塊のように見える男の顔だけが残る。
それは激しい怒りでも、苛立ちでもない。もっと冷たく、もっと深い、禍々しい静寂。緊張の糸が切れたように、オレの拳は無意識に動いた。何も考えずに、ただその衝動に従った。拳が相手の皮膚に触れた瞬間、骨が折れる音が体を通じて響く。静かに、だが確実に。破壊の音色は、あたかも美しい音楽のようだった。細かい骨の破片が粉雪のように脳裏を舞う。内側から湧き上がる感覚は、血のように赤黒く、重い幸福感で満たされる。世界が反転し、オレの中で何かがひどく甘く、崩れ落ちる。全てが歪んで、次第に鮮やかさを失っていく。骨が折れた音が自分の拳だったことに気づくのはこのもっとずっと先だが、ただただこの瞬間はシンプルな暴力にオレは従った。
「殺してやるよ! 今ここで、オレがお前を殺してやる!」
オレは初めの一撃で倒れたアルヴァロに馬乗りになって、何度も何度も顔面を殴り続ける。すると頭の後ろで鈍い音がした。拳に力が入らなくなり、殴る手を止めた。オレがよろめいたところでアルヴァロは反撃にオレの顔面をなぐり、足蹴にして馬乗りになったオレを引き剥がした。
「……よくやったカレン、さすがに今のは死ぬかと思ったぞ」
口が流れ出る血を拭き取り、オレを見据える。その姿はぼんやりとしていて、意識が遠のく。
「カレン……? どうして……」
「イーサン、お前はいずれ真実にたどりつく。もちろんそんなことは想定済みだ。だから生かせておくにはいかねえ」
全身に力が入らない。視界はますますぼやけるばかりだ。これが最後ならそれでいい、最後にカレンの顔が見たい、そう思った。でもな、とアルヴァロは言う。
「死ぬ前にもう少しだけ付き合えよ。オレに傷つけたやつは誰だって許さねえ! この目を奪ったカルテルの奴らだってそうだ! お前は傷が疼いて眠れねえ夜を知ってるか? 夢を見た日には何度だって目ん玉をくりぬかれる。目が覚めたって鏡映る姿は変わらねえ! 寝ても悪夢、起きても悪夢、何ひとつ変わらねえ。オレは生きてるのか? なあ? オレは生きてるのかよ!」
アルヴァロはそう叫んでいたが、言葉の輪郭だけを残して、オレは暗闇の中に落ちていた。
22
鼓膜あたりに鋭い痛みを感じて目を覚ます。オレの両腕は、冷たい鉄の拘束具にしっかりと固定されていた。動けないまま、目の前にうろうろと歩くアルヴァロの姿があった。彼の顔には歪んだ笑みが浮かんでいる。
「さあ、味わえよ、イーサン。死ぬ前にご褒美だ。カトレアの世界にようこそ! ウェルカム・トゥ・ヘェール!」
アルヴァロは黒っぽい粉の入った小瓶を目の前に差し出した。オレが顔を背けようとするもアルヴァロは強引にオレの頭をつかみ、顔をまっすぐに向けさせる。そして、力強くオレの口を手で押さえ込んだ。呼吸ができなくなり、パニックになりかけたその瞬間、彼は鼻の前に小瓶を突きつけ、振りかけるように粉を無理やり吸わせた。
一瞬で鼻腔に広がる冷たい刺激。氷の針が突き刺さるような痛みが脳に走り、頭が一気に真っ白になる。次の瞬間、全身に熱が燃え上がるように走り、心臓が異常なほどの速度で打ち始める。オレの視界が揺れ、すべての色がにじみ、ひずみ始めた。冷たい汗が背中を伝う。全身の神経が過敏になり、肌がぞわぞわと感じる。
「はは、いいぞ、その顔だ。もっとだ、もっと感じろよ!」
アルヴァロが狂気じみた声で叫ぶ。オレは息ができるようになった途端、絶叫を上げた。それは自分の声とは思えないほど、獣のような響きだった。意識が崩れ、脳内で何かが砕けるような感覚。オレはそのまま叫び続けた。
「殺せ! 殺せ! オレを殺せ!」
アルヴァロはその叫び声を楽しむかのように、さらに大きな声で狂ったように笑い出した。そして、奇声を上げながら言った。
「そうだ、そうだ! もっと叫べ、イーサン! さあ、どこから切り落としてほしい? 腕か? 足か? それとも……指一本ずつか?」
彼の声は、まるで悪夢のように耳に残る。アルヴァロは手に持った錆びたナイフをオレの顔の前でゆっくりと動かしながら、ニヤニヤと笑い続けている。鼻の奥に残る粉の痕跡がさらに感覚を狂わせ、現実と幻覚が交錯する。
オレの意識は闇の中に沈んでいくようだった。突然、視界の片隅に鈍い光が射し込み、次の瞬間には肌を引き裂くような冷たい鋭い感触が襲いかかる。アルヴァロが手にした錆びたナイフが、オレの腕に深く食い込んだのだ。鋼の刃が肉を切り裂き、血が弾け飛ぶ。その痛みは、脳に直接響くような凄まじいものだった。足元にゴロっと音を立て、腕が落ちる。
「う、うああああ!」
叫び声が喉の奥から無意識に絞り出される。だが、その声はいつの間にか笑い声に変わっていた。自分の声なのに、まるで別人の声のように響く。激しい痛みが身体中に広がり、しかしその痛みが次第に変質していくのが分かった。まるで燃えるような熱が血管を駆け巡り、痛みの頂点を突き抜けて、何か別の感覚に変わっていく。
「ハハッ……もっと、もっとやれよ!」
オレは自分でも信じられない言葉を口にしていた。切り裂かれた傷口から流れ出る血が、次第に温かい波として全身を包み込む。体の中の何かが爆発し、痛みの洪水が極限に達したその瞬間、それは突然、甘美な快感に変わった。脳内で何かが砕け、意識が白く燃え上がる。
「どうだ? まだ足りないのか?」
アルヴァロは狂ったようにナイフを振り上げ、もう一度オレの肌を引き裂く。手首が飛んだ。今度は太ももにナイフを突き刺す。そのままナイフを倒し、ブチブチと筋繊維が切れていく感触に悶絶した。しかし、その痛みは異常な快感と混じり合い、オレの脳内を痺れさせた。体が震え、全身がビリビリと痺れるような感覚が広がる。痛みはもう痛みではなく、快楽の波となり、オレの意識を飲み込んでいく。
視界は歪んで、色彩が不自然に変わっていく。赤い血が流れるはずの腕から、虹色の光が溢れ出しているように見える。血が流れるたびにその光は鮮やかさを増し、オレの周りを渦巻いている。まるで体内に新しいエネルギーが注がれているような錯覚だ。
「もっと……もっとぉおおおおお……!」
オレの口から吐き出される言葉は、自分のものとは思えない。頭の中で何かが弾け、現実と幻覚の境界線が崩れていく。痛みと快楽が一体となり、まるで嵐の中で踊るように混ざり合う。アルヴァロの手がまたオレの皮膚を裂いたとき、オレはその痛みにもかかわらず、笑っていた。
「よし、いいぞ、その調子だ!」
アルヴァロが甲高い声で叫び、オレの顔の前でナイフを振りかざしながら、狂気じみた笑いを上げる。
オレの体は痙攣し、口の中から唾液が溢れ出してきた。カトレアの効き目は限界を超え、オレの全身を支配していた。呼吸が荒くなるとともに、口から泡がぶくぶくと吹き出していく。喉が引きつり、涎が頬を伝って滴り落ちる。脳内で感じる痛みと快感の境界が完全に消え去り、全てがひとつの巨大な衝撃波として押し寄せてくる。
「ハハハ、いいぞ、もっと感じろ! さあ、もう切り落とす箇所もなくなってきたぞ?」
アルヴァロがさらにナイフを振り上げる。オレの意識はもはや朦朧としていて、ただその言葉に応じるように体が震えている。
さらに鋭い刃がオレの体に突き立てられるたび、苦痛の感覚が極限の快楽に変わり、まるで世界が光と影の中で狂ったように回転している。口の端からぶくぶくと泡があふれ出る。体は奇妙なリズムで痙攣し続ける。
すると突然に、視神経がぷつりと切れたかのように目の前が真っ暗になった。深海に、体が、沈んで、しまったかの、ような、感 覚に、 な る 。…………耳 鳴 り が す る 。…………息が で きな い………… 。
ツゥーーーーーン…………………ツゥーーーーーーーン………………。
……………………。
「…………無様だな」
その声が聞こえたかと思うと同時に、脳が揺れる程の爆音が鳴り響き、ハッと目を開けた。あたり一面が粉塵にまみれで視界が霞んでいる。いつの間にか拘束具からは解放されていて、つっぷしたまま瓦礫の下敷きになっていた。折り重なった外壁の下にいたおかげで、体を動かせるだけの隙間はあった。
「腕……あれ? 元に戻ってる……?」
アルヴァロに切り落とされたはずの腕は傷ひとつすらついておらず、自分の体にくっついていたままだった。足に痛みもない。
「幻覚か……?」
無理やりに吸引させられたカトレアの効果が切れたようだった。体が鉛のように重い。ここから抜け出さないと、と頭では分かっていても、筋肉が腐ってるいるかのように力が入らなかった。