19
「今はまだ誰にも言えない。でも、僕たちだけでもこの真実を知ってしまった。どうすればいいか、これから慎重に考えないと……」
ティグが言った。そうだな。何をするにしても、長老たちに知られたら終わりだ、とマブは頷く。二匹は夜の闇の中、何かを決意するかのように互いに見つめ合った。
ティグとマブは、長老の家から村の広場に戻る道を急いでいたが、二匹ともその心は乱れていた。ティグは、長老の家で見つけた文書の内容に震えながらも、これからどうすべきかを考え続けていた。一方、マブの足取りはどこか重く、彼の表情には言葉にできない不安が浮かんでいた。
広場に到着すると、二匹は焔虎の石像の前に立ち止まった。暗闇の中で静かに石像を見上げるティグの隣で、マブは無言のままじっと何かを考え込んでいるようだった。
マブ……大丈夫か、ティグがそっと尋ねた。マブは一瞬ティグの方を見たが、その瞳には戸惑いと恐れが混じっているように見えた。
「ああ……大丈夫だ。ただ……今見たことが信じられなくて」
「僕もだよ。だけど、これが現実だってことを受け入れなきゃならないんだ。僕たちが知らなかっただけで、ずっとこんなことが……」
マブはティグの言葉を聞いても、何も返さずただ焔虎の石像を見つめ続けた。しばらくの沈黙の後、彼がようやく口を開いた。
「ティグ、あの文書に書かれていたこと……もしそれが全部本当だったとしたら、僕たちは……どうすればいいんだ? 僕たちには何ができるんだ?」
ティグはマブの質問にすぐに答えることができなかった。ティグ自身も、何ができるのか全くわからなかったからだ。
「まずは、誰かに話すべきかもしれない……でも、誰に? 誰を信じられる? 長老たちはもちろんだめだし、村の他の大人たちも……」
ティグが言葉を選びながら話していると、マブが突然低い声で呟いた。
「でもさ……もし俺たちがこれを誰かに話して、村のみんなが知ったら……村はどうなる? 全てが壊れてしまうかもしれない……俺らが村を滅ぼすことになるかもしれないんだ」
ティグはその言葉にハッとし、マブの顔を見つめた。彼の表情は青白く、どこか虚ろで、いつもの自信に満ちたマブとは全く違っていた。ティグはマブの肩に手を置き、彼を安心させようとしたが、その手は微かに震えていた。
「マブ、僕たちはまだ子どもだけど、見たことを無視するわけにはいかないよ。何かできることがあるはずだ。村のために、みんなのために」
しかし、マブはティグの言葉に答えず、再び焔虎の石像に視線を戻した。その目には、決意ではなく、どこか深い迷いが浮かんでいた。ティグは、マブの心が何か重いものに囚われていることを感じ取ったが、それが何なのかを尋ねる勇気はなかった。
俺は……俺はどうしたらいいんだろう……、マブはまるで自分自身に問いかけるかのように小さく呟いた。ティグはその言葉に返すべき答えが見つからず、ただ沈黙が二匹の間に流れた。広場には冷たい風が吹き、焔虎の石像がまるで見守るかのように二匹を包み込んでいた。しかし、その石像もまた、彼らに何の答えも与えてはくれなかった。
「マブ、今は何も決めなくていい。ただ……僕たちは一緒だよ。何があっても、僕たちは二人で乗り越えていこう」
ティグがそう言って手を差し出すと、マブは少し遅れてその手を握り返した。しかし、その握り返した手に力はなく、不安定な感情がマブの中で渦巻いていることを示しているようだった。マブの表情は晴れない。見え隠れする戸惑いをティグは見逃さなかったが、それでもティグはその手を離さなかった。
20
ある夜、村全体が静まり返る中、ひとつの家の中だけが慌ただしさに包まれていた。家の中からは、産声と共に新しい命の誕生を祝う喜びと、どこか不安げな空気が漂っていた。そこには、まだ若い両親が寄り添うようにして新しい命を見守っていた。
「産まれたよ……」
助産士が小さな声で告げた。
父親は、赤ん坊の顔をそっと覗き込んだが、その瞬間、言葉を失った。赤ん坊は他の虎の子どもたちとは全く違う姿をしていた。全身が真っ白で、縞模様も一切見られなかった。赤ん坊の目は淡い赤色を帯びており、それが一層異質な存在感を放っていた。
アルビノ……、助産婦が静かに呟いた。アルビノという言葉が、父親の心に重く響いた。この村では、白い動物は「災いの象徴」として忌み嫌われてきた。そのような言い伝えがあるため、アルビノとして生まれることは、村全体にとっても家族にとっても重い運命を意味していた。
母親は赤ん坊を抱きしめ、その小さな体を愛おしそうに撫でた。だが、父親の顔には深い苦悩が浮かんでいた。このままでは……この子は……、父親は言葉を詰まらせた。母親は黙ってうなずき、赤ん坊の額に軽く口づけをした。そして、夫に向き直り、決意のこもった目で彼を見つめた。
「染めましょう、この子の体を、黒く……」
母親の言葉に、父親は驚いたように目を見開いたが、すぐにその提案を受け入れるしかない現実を理解した。村がこの赤ん坊を受け入れることはないだろう。彼らの家族を守るためには、この子が普通の虎として育つように見せかけるしかなかった。
翌朝、家族は赤ん坊の体を特別な染料で黒く染めた。小さな白い体は、まるで仮面を被せるかのように黒く塗り替えられていった。赤ん坊は何も知らずに母親の腕の中で静かに眠っていたが、その姿は一瞬にして普通の虎の子供のように見えるようになった。けれど、染料だけではマブの赤い目を隠すことはできない。両親は赤い目を隠すためにひとつの策を思いついた。村では「|焔眼石《えんがんせき》」と呼ばれる特殊な鉱石があり、それを加工することで眼を保護する「|視守石《しもりいし》」という道具を作ることができた。視守石は普段は狩りで獲物を追い詰める際に使用されるものだったが、マブの赤い目を隠すために特別な使い方をすることになった。
父親は狩りで仕留めた獲物の眼球の表面を慎重に剥がし、それを焔眼石で加工して薄く透明な視守石に変えた。その視守石は、まるで目の一部であるかのように見える特殊な形状をしており、マブの赤い瞳を隠すための「|視隠石《しかくし》」として作り変えられた。
母親はその視隠石をマブの目に慎重にはめ込み、彼の赤い瞳が見えないようにした。視隠石はまるで透明な膜のように彼の瞳を覆い、村の他の子どもたちと同じ姿に見せかけることができた。
これで、この子は他の子どもたちと同じだ、母親は自分に言い聞かせるように呟いた。心の奥底では罪悪感と恐れが渦巻いていたが、母としての愛情がそれらをかき消していた。アルビノとして生まれた事実を隠し通すことがどれだけ難しいか、そしていつか真実が明らかになるのではないかという不安はあったが、両親の目にはすやすやと眠るわが子の寝顔だけがこの世の全てかのように映っていた。
それから数年が経ち、マブは村の中で普通の子どもとして育っていった。彼は強く、勇敢で、他の子どもたちからも一目置かれる存在だった。村人たちは彼の成長を見守り、彼こそが「焔虎の血を引く者」だと信じていた。マブ自身、自分は特別だと信じる一方で、どこか自分の中にある違和感を感じていた。その違和感が何なのかは分からない。村の期待を背負いながらも、マブは自分の中でどうにも折り合いのつかない、かみ合わない何かを感じていた。
21
あの日、ティグとマブが長老の秘密を知ってから、マブは突然家にこもったきりで、誰にも会おうとしなくなった。ティグは何度も彼の家を訪れ、扉を叩いて呼びかけたが返事はなく、静寂だけが応えた。村の者たちもマブの変化に気づき心配していたが、誰もマブの姿を見ることはできなかった。
そして、数日が過ぎたある夜のことだった。ティグはいつものようにお気に入りの場所でうとうとしていると突然、轟音とともに目を覚ました。まるで大地が裂けたかのような激しい音が耳をつんざき、同時に周囲が赤い光に包まれた。驚いて飛び起きたティグは、村の方に目をやった。
ティグの目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。村全体が燃え上がり、まるでマグマが地表に噴出したかのように、あたり一面が炎に包まれていた。家々は炎の中で崩れ落ち、逃げ惑う村人たちの悲鳴が響いていた。ティグは目を疑いながらも、必死に炎の中を駆け抜けた。
中央の広場にたどり着いたティグは、焔虎の石像がすでに崩壊しているのを目にした。かつて村を象徴していたその巨大な石像は見るも無残な姿となり、ただの瓦礫となって地面に転がっていた。その瓦礫の上に立つ影が、ティグの目に飛び込んできた。その影は、炎の中でもなお黒く染まっていた。ティグはその影が誰であるかをすぐに理解した。それはマブだった。彼は無表情で立ち尽くし、ただ炎に包まれた村を見下ろしていた。彼の周囲には奇妙な力が漂い、その目はかつての優しい友の目とはまるで別物だった。ティグの心は激しく動揺し、叫びたかったが、声が出なかった。
マブ……なぜ……、ティグの心の中で問いかけたが、マブにはその声は届かない。ティグは崩れ落ちた焔虎の石像の上に立つマブを見上げ、その異様な姿に息を呑んだ。炎の光に照らされたマブの体から、黒い靄のようなものがゆっくりと立ち上がっていた。その靄は、まるでマブの体に張り付いた染色が溶け出していくかのように、彼の周りを渦巻きながら広がっていく。ティグの目の前で、マブの黒かった体が次第にその色を失い、白く変わっていくのがはっきりと見て取れた。最初は薄く、その後次第に黒が溶けていくようにして、マブの体は真っ白に変わっていった。彼の黒い虎の姿はもはやなく、代わりに立っていたのは純白の体を持つ者だった。
その瞬間、ティグは胸の奥で強い恐怖を感じた。友として知っていたマブはもうどこにもいない。目の前に立っているのは、白き者として覚醒した新たな存在だった。マブの目は赤く燃え上がり、その力が村全体を包み込むかのように感じられた。
マブ……、ティグはかすれた声で彼の名を呼んだが、マブは何も応えなかった。ただその赤い瞳で炎に包まれた村を見下ろし、その冷たい表情のまま、すべてを静かに見渡していた。ティグはその姿を見て、友としてのマブはもう戻らないことを理解した。その時、マブのそばに立つ白いイタチが近づいていくのが見て取れた。白いイタチは不気味に笑みを浮かべ、ティグの方に目をやった。イタチの赤い瞳がまるでティグの心を見透かすかのように輝き、マブに何やら耳打ちをしているようだった。
ティグは体が震えるのを感じながら、声を振り絞ってマブの名前を叫んだ。
「マブーーーーー!」
その叫び声は炎の轟音の中でかき消されそうになったが、確かにマブの耳に届いた。マブはゆっくりとティグの方を振り向き、その赤く燃え上がる瞳で彼を見つめた。なあティグ……、マブの声は低く、しかしはっきりとした輪郭をもってゆっくりと話し始めた。
「この村は狂ってる。俺は全てを見たよ、ティグ。あれから、俺はひとりで地下に潜り込んで真実かどうかを確かめた。あの文書に書いてある通りだった……」
マブの表情にはすっかり感情が抜き取られたかのように飄々としている。マブは続けた。
「地下には、まだ生きている子どもたちが閉じ込められていた。みんな怯え切って、震えながら暗闇の中でずっと泣き続けていたんだ。目は無理やり見開かれ、細い針が何度も何度も彼らの目に突き刺さり、そのたびに子どもたちは痛みにもがき苦しんでいたよ……」
マブは目を閉じ、ティグの方を見据えた。
「子どもたちの目は、もう何も見えていなかった。ただ、涙が血に染まって溢れ出ていたんだ。あの無惨な姿を見て、俺は……俺は、この村がどれだけ狂っているかを思い知った。長老たちは、俺たちの未来を守るだなんて言っていたけど、あんなのは嘘だ! 本当は、自分たちの権力と欲望のために、俺たちを犠牲にしていただけだったんだ! 今もこうしていられるのは単に運が良かっただけ。連れ去られた子どもたちはみんなあの牢獄で拷問みたいな日々を送っていた……」
マブの声は激しさを増し、怒りがにじみ出ていた。
「みんながどんなに泣き叫んでも、誰も助けてはくれなかった。それなのに俺は……俺は……」
ティグはマブの言葉を聞いて、その恐ろしい光景を想像することしかできなかった。マブが語る凄惨な真実が、彼の心に重くのしかかった。
「マブ……だからってこんな……」
マブはティグをじっと見つめた後、再び村を見下ろした。
「ティグ、この村は滅びるべきだったんだ。俺は……その役目を果たしただけだ。誰も助けてくれないなら、俺がすべてを終わらせてやる……」
ほら、見てみろよ、とマブは言った。
「俺にはこんなすごい力が眠っていたんだ。焔虎の力? ハッ! そんなものなんてないんだよティグ。あんなのはまやかしさ。俺に与えてくれたのは神の力だ。ホンモノだよ。ほら、こんな村なんて一瞬で吹き飛ばせる。力こそが信頼たりうる唯一の手段だよ」
マブが赤い目をかっと見開くと、周りの炎は何かの生物であるかのように激しく蜷局を巻きながら踊り狂う。その炎はさらに丘の上まで走り周り、長老の屋敷までをも飲み込んでいく。
ちょ、長老は……、ティグが問いかけるとマブは不敵に微笑んだ。
「殺したよ。あんな老いぼれを殺すくらい簡単だったよ。悲しいよね、俺たちが憧れていたのは単なる虚像だった。なにひとつ強くもなんともなかったよ」
マブの言葉が終わると同時に、村を焼き尽くす炎は一層激しさを増し、まるで村全体がマブの怒りと絶望に燃え尽きていくようだった。ティグはただ立ち尽くし、目の前で起こるすべてを受け入れるしかなかった。マブはもう戻らない。それだけは、ティグにははっきりと理解できた。
マブは煙にまみれていつの間にか姿を消していた。そこには白いイタチがまだ残っており、ティグを見下ろしながら言った。
「君じゃない」