訳者前書き
初めまして。短歌が趣味の18歳、Rick Shinmiです。
国家などの社会集団における集団的意思決定の手段やブロックチェーン関連の技術で作れる未来に興味があって調べている過程で、落合渉悟氏の「僕たちはメタ国家で暮らすことに決めた」という本を読み次の文章と出会いました。
ベルギーの経済学者ポール・エミール・ド・ピュイは「個人が移民や転居を伴わずにその所属する政府を自由に選択・変更することができる権利」を主張した(論文「パナーキー」[1860年])。
「全ての国が国民が自由に国から逃れる権利を認めれば国家間での自由競争が生まれてもっといい世界になるんじゃないかな〜」なんて妄想していた僕にとってここまでどフェチな言論が存在したこと自体が大きな衝撃でした。すぐさまJohn Zube氏による英語訳を読んでユーモアやウィットに富んだ皮肉、敢えて読者との対話風に展開された部分など楽しめる部分が多くも、説得力のある形で展開されるユニークかつ新しい国家形態を目にして思わず叫びそうになるぐらいの興奮を味わいました。
しかし、パナーキー及びパナーキズムについて日本語で調べて見たところ、ド・ピュイの論文はおろか、日本語で残された/訳されたドキュメントが(私の観測範囲では)殆ど存在しないことに気がつきました。著者のド・ピュイはWikipediaで「ラン研究者」としての側面しか紹介されておらず、[パナーキー 1860]でGoogle検索してヒットしたのは35件。
ここまで示唆に富んだ論が日本に広まっていないことに危機感を覚え翻訳作業を始めました。
理想としては原文のフランス語から翻訳したかったのですが、私が英日訳しかできないのでJohn Zube氏による英語訳を日本語にしています。下のリンクから確認できます。
https://www.panarchy.org/depuydt/1860.eng.html
また、可能な限り英文訳に忠実に訳していますが、誤訳や表現にミスなどがある可能性があります。ご了承ください。誤訳/表現のミスが見つかり次第随時アップデートしていくので、もし見つけたらgithubのこのページに書いていただけると嬉しいです。https://github.com/rickshinmi/JPNpanarchy
ようこそ。ポール・エミール・ド・ピュイのパナーキーの世界へ。
First published in French in the Revue Trimestrielle, Brussels
Translated to Japanese from English translation done by John Zube.
(July 1860)
訳:Rick Shinmi
ある現代の人は言った。「もし真実が私の手の中にあるのなら、それを開けないように注意しなければならない」。これはおそらく博識な人で、間違いなくエゴイストの言葉である。また、別の人はこう書いた。「最も聞きたくない真実は、最も指摘されるべき真実である。」
このように、二人の思想家の見解は大きく異なっている。私はどちらかというと後者に同意するが、この見解には一つの難点がある。あらゆる国の賢人たちは、「すべての真実を開示すべきではない」と言うのだ。しかし、どれを隠すべきかをどうやって知ることができるのだろうか?福音書には「汝の光を掩蔽(えんぺい)するな」とある。
私は今、ジレンマに直面している。私には新しい(少なくとも、そう信じている)思想があり、それを詳述するのは責務であると感じる。しかし、それを躊躇する私もいる。少しも迫害されたことのない革新者などいるのだろうか?理論そのものは、いったん発表されれば、それ自身の力で道を切り開くだろうし、それは自律的なものと考えている。私が心配しているのは、むしろ著者の方だ。新しい考えを持ったからと言って許されるのだろうか。
かつてアテネとギリシアを救った人物がいた。彼は議論に続く議論の中で、自分に対して棒を振り上げている野蛮な人物にこう言った。
「殴るなら殴れ、だが聞け」
古代には、このような良い例が多く存在する。テミストクレスに倣って、私自身の考えを発表し、こう言おう。「最後まで読め。石を投げるのは、その後にせよ」と。
しかし、私は文字通り石を投げられるとは思わない。先ほど話した残忍な人物は、24世紀前にスパルタで死んでいて、2400年の間に人類がどれほど進歩したかは誰もが知るところである。現在は思想は自由に表現され、革新者が攻撃されることがあっても、それはかつてのように革新者としてではなく、扇動者あるいは理想論者としてだ。上記の考えを踏まえ、本題に入ろう。
「閣下、私は全世界の友人です」(モリエールの著作)
私は政治経済学を高く評価しており、世界の人々も同様に思っているだろう。最近生まれたこの学問は、すでに最も重要なものであるが、またその完成にはほど遠いものである。遅かれ早かれ(私は早くなることを懇願しているが)、それは万物を支配するようになるだろう。この意見は経済学者の研究から導き出されたものである。そして、この原理から、さらに遠くまで届き、他のすべてに劣らず論理的な新しい応用を提案するだろう
本題に入るにあたって重要な格言をいくつか紹介しよう。
"Freedom and property are directly connected - one favours the distribution of wealth, the other makes production possible."
「自由と財産は直結している。一方は富の分配に有利に働き、他方は生産を可能にする。
"The value of wealth depends on the use to which it is put."
富の価値は使いようで決まる
"The price of services varies directly with demand and inversely with supply."
"サービスの価格は需要に正比例し、供給には反比例する"
"Division of labour multiplies wealth."
"分業は富を倍増させる"
"Freedom brings about competition, which in turn generates progress."
"自由は競争をもたらし、その結果、進歩を生み出す"
(Charles de Brouckere, Principes généraux d'économie politique)
即ち、自由競争が必要だ。まずは個人間、次に国家間で、特別な領域以外の国家による介入が禁止された発明・労働・交換・売買の自由、製品価格の自由。言い換えるならレッセフェール(※1)である。
ここにある数行は政治経済の基本であり、これらを取り除いたら、欠陥のある行政、もしくは嘆かわしい政府しか存在しえない。これについて延々と語ることも可能だが、最終的に一つの定理に収束する:レッセフェール、レッセパッセである。
この思想を元にして、以下の主張をしよう。
科学において、半分正しいということはありえないのである。ある側面で真実であり、別の側面で真実でなくなるような真理は存在しないのだ。宇宙のシステムは、絶対的な論理と同じくらいの素晴らしい単純さをもつ。法則は常に正しく、状況が異なるだけである。最も高貴なものから最も卑しいものまで、人間から植物、または鉱物に至るまで、すべての存在は構造、発達、構成において密接な類似性を示し、顕著な類似性が道徳と物質界を結びつけているのである。生命は一つであり、物質も一つであり、物理的な表現が異なるだけである。組み合わせは無数であり、特異点は無限であるが、一般的な設計はすべてのものを包含している。私たちの理解力の弱さと、根本的に欺瞞的な教育が、システムの混乱とアイデアの矛盾の原因となっているのである。
偉大なる政治経済の法則、すなわち自由競争の法則(レッセフェール、レッセパッセ)は、工業や商業の規制だけに適用されるのだろうか。もっと科学的に言えば、富の生産と取引にのみ適用されるのだろうか。この法則が解決した恒常的な問題状態、相反する利害の対立、経済的混乱について考えてみよう。これらの状態は、政治の領域にも同様に存在するのではないか。どちらの場合にも同じような救済策を示すものではないだろうか。レッセフェール、レッセパッセ!
人間の弱さが許容する極限まで自由主義的な政府は存在するが、決してその他の国と比較して上手く行っているわけではないと気づくだろう。この理由をある人は「自由がありすぎてるからこうなる」と言い、他は「自由が足りないからこうなっている」と主張する。
しかし実際は、あるべき自由の形、つまり、自分の好みで自由になるかならないかを選択できる根本的な自由がないのです。誰もが自分の好みや必要性に応じて、この問題の答えを探す者となるのだ。
個人の数だけ意見があるのだから、「tot homines, tot sensus(※3)」、混乱は、政治という立派な名前で飾られているのがわかるだろう。
ある者の自由は、他の者の権利を否定し、逆もまた然りである。
どんなに賢明で最良の政府であっても、すべての臣民の完全かつ自由を保護しようとしたら機能することができない。
世の中には各々勝ちと負けを味わう政党がある。世の中にはマジョリティとマイノリティの永遠の闘争がある。彼らの観念が混乱すればするほど、理想を熱烈に支持するようになる。ある者は正義の名の下に抑圧し、他の者は自由の名の下に反乱を起こし、自分たちの番が来れば、自ら抑圧者になるのである。
読者は言うかもしれない。
「あなたは、多くの断片から、圧力または同意によって、社会を囲い込むシステムを構築する夢想家の一人なのか。このままでは何もできなく、あなたの万能薬だけが人類を救う。魔法の解決策だ!」と
しかし、あなたは間違っている!
私は皆の解決策以外に魔法の解決策を持っていません。私は他のすべての人々と、ある一点を除いては違いがない。すなわち、いかなる説得に対してもオープンであるということだ。言い換えれば、私はどのような政府の形態も、少なくともある程度の信奉者がいるものはすべて認めているのです。
わけわからん。
それでは説明しよう。
「確かに理論を押し通す傾向があることは認めよう。しかし、だからと言ってその理論の要素が全て間違っているという訳ではないだろう。人間の知性の発揮には、曲解や愚かさがあると言われているが、思索的な考えを嫌い、理論を嫌うと宣言することは、人間の理性を放棄することにならないだろうか」。
この考察は、私自身のものではなく、現代における最も偉大な思想家の一人であるジェレミー・ベンサムのものである。
ロワイエ=コラールも同じ考えを簡潔に表現している。「理論は何の役にも立たず、経験が唯一の権威であるとすることは、自分が何をするのか知らずに行動し、自分が何を話しているのか知らずに話すという無礼なことを意味する」
人間の努力に完璧なものはないが、少なくとも物事は決して到達できない完璧さに向かって進む。それが進歩の法則である。自然の法則(The Laws of Nature)だけが不変であり、すべての法律制定はそれに基づいて行わなければならない。自然則だけでも、社会構造を支えるだけの力があるはずだが、社会構造そのものは人間が作ってしまったものである。
各世代は、新しいテナントのように、入居する前に、自分の必要性に応じて、物を動かしたり、ファサードをきれいにし、別館を追加したり撤去したりするのである。時折、先代よりも勢いのある、あるいは近視眼的な世代が、建物全体を取り壊し、建て直されるまで野ざらしにすることもある。そして、多くの苦難と多大な努力の末に、新しいプランで再建されたとき、それが古いものと比べてさほど快適でないことに落胆するのである。確かに、設計図を書いた人たちは、立地もよく、冬は暖かく、夏は涼しい良い部屋に住むことができたが、それ以外の人たちは、選択の余地もなく、ガレージや地下室やロフトに追いやられてしまうのである。そのため、反対派や問題児が後を絶たず、古い建物を懐かしむ者もいれば、すでに取り壊しを夢見る旺盛な者もいる。満足する少数の人たちに対して、不満を持つ人たちが大多数を占めるのである。
しかし、満足する人もいることを忘れてはならない。新しい建物は確かに欠点がないわけではないが、利点もある。十分な入居者がいる限り、明日でも、後でも、いや、これからも、なぜそれを取り壊すのだろうか。
私は、暴君と同じくらい破壊者を憎んでいます。もし、あなたのアパートが不十分であったり、狭すぎたり、不健康であると感じたら、それを変えてください。しかし、お願いだから、家全体を吹き飛ばすようなことはしないでほしい。あなたが不適当だと思ったものが、隣人を喜ばせるかもしれないのです。私の比喩がお分かりになりますか?
ほぼ、ですが、何を目指しているのでしょうか?もう革命は起こさないでください。十中八九、成果よりコストの方が大きい気がします。では、古い建物は残すとして、退去する人たちをどこに収容するのか?
どこであろうと、私の知ったことではありません。この点では、誰もが自分の決断をする自由があると思います。これが私のシステムの基本です。レッセフェール、レッセパッセ。
自分の国の政府に満足できない人は、他の国を探さなければならない。実際、モロッコ帝国から始まり、他の帝国は言うに及ばず、サンマリノ共和国まで、ロンドン市からアメリカのパンパまで、選択肢はあったのです。あなたの理論はそれだけですか?何も新しいことはありません。
移住の問題ではありません。人は、靴に自分の生まれ故郷を背負ってはいない。しかも、このような大規模な国外移住は、現在も、そしてこれからも、実現不可能である。その費用は、世界中のあらゆる富で賄うことはできない。私は、国民をその信条に従って再配置するつもりはありません。例えば、カトリック教徒をフラマン諸州に追いやったり、モンからリエージュに至る自由主義者の境界線を画定したりするつもりもありません。しかし、不和はなく、兄弟のように、それぞれが自由に意見を持ち、個人的に選び、受け入れた権力にのみ服従することを望みます。
全くわかりません。
私はまったく驚いていません。私の計画、ユートピアは、どうやらあなたが最初に考えたような昔話ではないようです。しかし、この世にこれほど単純で、これほど自然なものはありません。政府においては、力学と同様に最も単純なアイデアが常に最後に来るというのが常識である。
私たちは、そのことを理解しています。自由を基礎としないものは長続きしない。すでに存在するものは、すべての活動的な部品の自由な相互作用なしには、それ自体を維持したり、完全な効率で動作したりすることはできない。そうでなければ、エネルギーは浪費され、部品は急速に摩耗し、実際、故障や重大な事故が発生する。そこで私は、人間社会の構成員一人ひとりに、結社の自由と、活動の自由を要求する。つまり、自分が生きる政治的環境を選択する絶対的な権利であり、それ以外のことは求めないということだ。たとえば、あなたが共和主義者だとしたら......。
私が?!とんでもない!
あなたがそうだったと仮定してみてください。君主制はあなたに似合わない。空気はあなたの肺には息苦しすぎるし、あなたの体はあなたの体質が要求する自由な遊びや行動をすることができない。あなたの現在の心境によれば、あなたはこの建物、あなたとあなたの友人を取り壊し、その場所に自分の建物を建てたいような気がしている。しかし、そうすれば、自分の信念に固執するすべての君主論者、そして一般に、あなたと同じ信念を持たないすべての人々と対立することになるでしょう。もっといい方法があります:集合し、プログラムを宣言し、予算を組み、会員名簿を開き、自分自身を把握し、費用を負担するのに十分な数があれば、あなたの共和国を設立するのです。
どこにやるんだ?パンパ(※4)で?
いいえ、もちろん違います。ここで、あなたがいる場所で、動かずにです。私は、今のところ、君主主義者の同意が必要であることに同意します。この議論のために、この原則的な問題は解決されたと仮定します。そうでなければ、この状態をあるべき姿、あるべき姿に変えることが困難であることはよく承知しています。私はただ私の考えを述べただけで、それを誰かに押しつけるつもりはありません。しかし、慣例以外にそれを止める可能性のあるものはないと考えています。
あなたは知らないのか?政府と被支配者が一緒になって、どこの国でもどれほどひどい家庭を作ることを。市民レベルでは、法的な別居や離婚によって、うまくいかない家庭を防いでいる。私は、政治についても、形式や保護的な制約にとらわれることなく、同様の解決策を提案します。政治の世界では、最初の結婚で子供も肉体的な痕跡も残らないからだ。この方法は、過去に行われた不当で専制的な手続きとは異なり、誰かに暴力を振るうつもりはない。誰か政治的分裂を起こしたい人がいるのか?しかし、それには一つの条件がある。すなわち、自分のグループの中で、他人の権利や信条に影響を与えないようにすることだ。 これを達成するためには、国家の領土を、知られていて承認されている政府の形態があるほど多くの部分に細分化する必要は全くないのである。以前と同様に、すべての人とすべてのものをその場に置いておく。私はただ、人々が異教徒のために場所を作り、彼らがそれぞれの様式で教会を建て、全能の権力に仕えることができるようにすることを要求するのみである。
そして、それをどのように実践していくのか、お聞かせ願えないでしょうか。
まさに私の得意分野です。民事登記所の仕組みはご存知ですか?これを新たに応用すればいいのです。各地域に「政友会事務局」という新しい事務所を開設する。この役所は、所得税や犬の登録と同じように、責任ある市民全員に申告書を送って記入させるのである。
申告書の例として:
質問です。あなたはどのような政治形態を望みますか?
君主制、民主主義、その他と自由に答えられるでしょう。
質問です。もし君主制なら、絶対か穏健か...、穏健ならどうするか?
あなたは立憲と答えると思います。
いずれにせよ、どのような回答であれ、その回答はこの目的のために用意された登録簿に記載されます。いったん登録されると、正当な法的形式と手続きを踏んで宣言を撤回しない限り、あなたはそれによって王室属国または共和国国民のいずれかになるのです。プロイセン臣民がベルギー当局と関わるのと同じようにです。あなた方は、あなた方の指導者、あなた方の法律、あなた方の規則に従わなければならない。給料は高くもなく安くもなく、しかし道徳的には全く違う状況になるのです。最終的には、誰もが自分自身の政治的共同体の中で生活し、まるで近くに他の、いや、10の政治的共同体が存在しないかのように、それぞれが独自の貢献者を持っている状態になる。
異なる政府の臣民の間、あるいはある政府と他の政府の臣民の間で意見の相違が生じた場合、近隣の平和な国家の間でこれまで守られてきた原則を守ればよいだけのことです。そして、もし隙間が見つかった場合、人権やその他あらゆる可能な権利によって難なく埋められるでしょう。それ以外のことは、通常の司法裁判所の仕事である。
これは全ての弁護士を味方につける法的議論の新しい金鉱ではないか?
確かに、私はこれに賭けている。
また、政治的な忠誠心がどうであれ、ある地区の住民すべてに影響を与える共通の利害があるだろうし、そうでなければならない。この場合の各政府は、スイスの各州、あるいはアメリカ連邦の各州が連邦政府との関係で立っているように、国家全体との関係で立っていることになる。このように、基本的で一見恐ろしいような問題は、すべて解決策が用意されている。ほとんどの問題で管轄権が確立されており、何の問題も生じないのである。
確かに、一部の悪意を持った人々、どうしようもない夢想家、非社交的な性格の人々は、既知のどのような政府の形態にもなじまないということが起こるでしょう。また、理想的な国家の費用をまかなうには弱すぎる少数民族も出てくるでしょう。
それだけに、彼らには悪いことだ。このような少数の奇特な人々は、自分たちの考えを広める自由があり、全人員を、いや、むしろ予算の必要性を満たすまで採用することができ、すべてが財政の問題に解決されるだろう。それまでは、既成の政府形態のいずれかを選ばなければならない。そのような小さな少数派は、何の問題も起こさないと考えられている。
これがすべてではありません。極端な意見の間で問題が生じることはほとんどない。色の濃淡で争う方が、対照的な意見で争うよりずっと多いし、苦労もする。ベルギーでは、多少の欠点はあっても、圧倒的多数が現在の制度を選ぶと信じて疑わない。しかし、実際に適用するとなると、これほど一致するのだろうか?ド・テュー氏だけに従う200〜300万人のカトリック教徒と、自分たちにだけ忠誠を誓う200〜300万人のリベラル派がいるのではないだろうか?この二人をどうやって和解させることができるでしょうか。それぞれの党に自らを統治させ、自らの犠牲を払わせることです。そう望むなら、神権政治を選択することさえできる。自由は、自由でない権利にまで及ぶべきであり、それを含むべきものです。
しかし、意見の相違が政府機構を無限に複雑にすることは許されないので、私たちは一般的な利益のために、この機構を簡素化するよう努力するつもりです。同じ歯車で、二重、三重に効果を上げるようにする。
賢明で公明正大な立憲君主は、カトリックとリベラル派の双方に適うものです。ただ、省庁を2倍にしなければなりません。
名前は伏せるが、ある紳士が、全体主義を導入しようとした時、選んだ「王子様」が彼の優れた知性と経験を使って「ある人」の政府の運営をしようとした時、この王子様を使うでしょう。この一人の王子が、誠実で穏健な共和国の大統領にならないわけがない。このように複数の役職を持つことは禁止されるべきではありません。
「自由には欠点や落とし穴があるが長い目で見れば、必ず救いにつながる」
M.A. Deschamps
私のシステムの多くの比類ない利点の1つは、現代において一部の高潔な市民を不評にさらし、政治的背信の名の下に残酷に非難されてきた意見の相違を、単純かつ自然に、そして完全に合法化することである。このような変化への焦りは、正直な人々には犯罪的と見なされ、新旧両方の国に、放漫と恩知らずの非難を浴びせる原因となってきたが、それは進歩への意志以外の何ものでもないだろう。
さらに、ほとんどの場合、気まぐれで不安定だと非難される人たちが、一貫性があると言うことは不思議ではないでしょうか。自分の党や国旗や王子に信頼を寄せたいと思うのは、党や王子が揺るぎないものであれば可能ですが、それらが変化したり、対等でない他者に道を譲ったりしたらどうでしょうか。
私が、その時代で最高の王子を指導者として選び、彼の強力で創造的な意志に従い、彼の天才に仕えるために、私個人の主導権を放棄したとしましょう。彼の死後、その跡を継いで、誤った考えに満ちた偏狭な人間が、少しずつ父親の功績を浪費していくかもしれない。私が彼の臣下でい続けられるとお思いですか?なぜでしょうか?彼が正統な後継者だからですか?直系であることは認めますが、私にとっては正当(legitimate)ではありません。
私は革命が嫌いだと言っているので、この件で反乱は起こさないが、傷ついたと感じるだろうし、契約満了時に変更する権利がある。
かつて、スタール夫人は皇帝にこう言った。「皇帝陛下、あなたの人格は臣民の憲法であり、あなたの良心は保証です」
「もしそうなら、私は単なる幸せな偶然に過ぎない」とアレクサンダーは答えた。
この言葉は、とても明晰で真実味があり、私の考えを完全に伝えている。
私の万能薬は(この言葉が許されるなら)政府の業務における自由競争です。誰もが、自分の考えるとおりに自分の福祉を管理し、自分の条件の下で安全を確保する権利を持つ。一方これは、競争を強いられる政府間の争いによる改善を意味します。真の世界的な自由とは、誰にも強制されず、各人が望むだけのものであり、抑圧も欺瞞もせず、常に訴えの権利の対象となるものです。このような自由を実現するためには、国の伝統も家族の絆も捨てる必要はなく、新しい言語で考えることを学ぶ必要もなく、先祖の骨を抱いて川や海を渡る必要も全くない。
共和制から王政へ、代議制から独裁制へ、寡頭制から民主制、さらにはプルードン氏の無政府制へ、ガウンやスリッパを脱がなくても、地元の政治委員会で宣言するだけで移行できるのである。
あなたは、フォーラムでの議論や、議会での小事にこだわった議論、自由の女神の無礼な接吻にうんざりしていませんか?自由主義や聖職者主義にうんざりして、デュモルティエ氏とデ・フレ氏を混同したり、ロジェ氏とデッカー氏の正確な違いを忘れてしまったりしませんか?あなたは、正直な専制君主制の安定性、柔らかな快適さをお望みでしょうか?あなたのために考え、あなたのために行動し、すべてを見渡し、あらゆるところに手を差し伸べ、すべての政府が好むような副保護者の役割を果たす政府の必要性を感じますか?秋のツバメや11月のガチョウのように、南へ移動する必要はないのです。あなたが望むものはすべて、ここにも、そこにも、どこにでもあります。あなたの名前を入力し、あなたの場所に移動してください!
このイノベーションで最も賞賛に値するのは、革命、反乱、街頭戦闘を、政治組織の最後の緊張に至るまで、永遠になくせることである。「自分の政府に不満があるのか?別の政府に変えればいいのだ!」。 この4つの言葉(Change over to another)は、常に恐怖と流血を連想させ、すべての裁判所、高位と下位、軍事と特別の例外なく、反乱を扇動した罪で有罪となる言葉だが、この4つの言葉は、あたかもセミナー講師の口の中で、無実になり、ド・ポソーニャック氏が間違って不信感を持った薬のように無害になるのである。
「別のものに変更する(Change over to another)」とは 帽子を手に政務局へ行き、自分の名前を好きな名簿に移してくれるよう丁寧に頼みます。局長は眼鏡をかけ、名簿を開き、あなたの決定を記入し、領収書を渡す。あなたはそこを去り、革命はインクの一滴もこぼさずに成し遂げられる。
あなた一人に関わることなので、私はそれに反対することはできません。あなたの変化は他の誰にも影響しません。それがその長所であり、勝利した多数派や敗北した少数派を巻き込むことはありません。政治的会員制のための事務局は、より多くの人員を要請することになるでしょう。
先入観は別として、基本的に政府の機能とは何であろうか。 先に述べたように、それは、最適な条件の下で、国民に広い意味での安全を提供することである。この点に関して、私たちの考え方がまだかなり混乱していることはよく承知しています。ある人々にとっては、軍隊さえあれば外敵から身を守れるというわけではありません。またある人々は、警察、治安部隊、王室検察官、およびすべての名誉ある裁判官がいても、国内の秩序を保証し、権利と財産を保護するのに十分とは言わないでしょう。
ある人々は、高給の役職、印象的な肩書き、印象的な勲章、消費者から産業を守るための国境での税関、芸術、劇場、女優を維持するための公務員の軍団で手一杯の政府を望んでいます。私は、これらのスローガンが、前にも述べたような、摂理をもてあそぶ政府によって宣伝された空疎なスローガンであることも知っている。実験的な自由がそれらに正義を行うまで、信奉者の満足のためにそれらを継続させることに何の問題もないと思います。私が求めるのはただ一つ。選択の自由です。
一言で言えば 選択の自由、競争 。「レッセフェール、レッセパッセ!」 経済学の旗印に刻まれたこの素晴らしい標語は、いつの日か政治の世界でも原則となるであろう。「政治経済」という表現は、それを予感させる。興味深いことに、この名前を、たとえば「社会経済」に変えようとする人たちがすでにいるのである。国民の直感的な良識が、この譲歩を許さないのです。経済学の科学は、今も昔も卓越した政治学である。経済学の旗印に刻まれたこの素晴らしい標語、現代の不介入の原則とそのスローガンである「レッセフェール、レッセパッセ」を作り出したのは前者ではなかったか?
だから、他のすべての場合と同様に、政府の事業においても自由競争が必要なのだ。最初の衝撃の後、政府の競争にさらされている国の姿を想像してみてください。つまり、これまで考え出され、これから発明されるであろう多くの定期的に競合する政府を同時に保有している状態を想像してみてください。
確かに、それはとんでもない混乱になるでしょう。そんな混乱から抜け出せると思いますか?
その通りであり、少しばかり応用すれば、これほど簡単に理解できるものはない。かつて人々が政治的な主張を叫ぶよりも、宗教的な意見を声高に叫んだ時代を覚えているだろうか。神の創造主が軍神となり、その名のもとに血の河を流れる復讐に燃える無情な神となった時代を?人は常に、神の大義を自らの手で実現しようとした。つまり、神を自らの血に飢えた情熱の共犯者にしようとしたのだ。
「皆殺しにしろ!皆殺しにしろ!神は自分を認めるはずだ!神のご加護あれ!」
このような憎しみはどうなってしまったのだろう。人間の精神の進歩は、秋の枯葉が風に吹かれるように、それらをすべて一掃してしまったのです。杭や拷問器具が設置された宗教は、同じ法律の下で、同じ予算で食事をして、平和に共存している。各宗派が自分の優れた点だけを説いたとしても、そのライバルを非難することは極めて稀である。
この不明瞭で底しれぬ良心の領域、一部の者の強引な布教活動、他者への不寛容、大衆の狂信と無知は不安や暴力を引き起こすことなく実践されている。複数の信条が共存している地域においては多数の宗派が完全な法的平等の基盤の上に存在できている上に、他のどこよりも慎重で、自分の道徳的純度と尊厳に注意を払っています。このような困難な状況の元で可能になったことが、政治という4語で表現できる極めて世俗的な領域で可能になると思いませんか?
現在の状況では、政府は他のすべてのものを排除することによってのみ存在し、一党は反対者を粉砕した後にのみ支配することができる。多数派は、統治を切望する少数派によって常に悩まされている。このような条件下では、政党が互いに憎み合い、戦争はしないまでも、少なくとも武装した平和状態で暮らすことは極めて必然的なことである。少数派が陰謀を企て、扇動し、政府が同様に排他的であろう別の政治形態への願望を力で押さえつけるのを見て、誰が驚こう。だから、社会は結局、復讐を待ち望む野心的な恨み屋と、絶壁の縁に満足げに座っている野心的な権力欲に満ちた人間で構成されることになるのだ。誤った原理は決して正しい結果をもたらさないし、強制は決して正しいことや真理につながらない。
そして、すべての強制がなくなったと想像してください。すべての成人市民が、提供される政府の中から自分の意志に合致し、個人的なニーズを満たすものを自由に選択し、その状態を維持する。自由なのは、血生臭い革命の翌日だけではなく、いつでも、どこでも、自由に選択できるが、その選択を他人に強要することはできない。その時点で、すべての無秩序は終わりを告げ、すべての不毛な闘争は不可能となる。
政府の形態が実験と自由競争の対象となった瞬間から、それらは進歩し、完成するに違いない。これは自然の法則である。
偽善も、空虚に過ぎない見かけの深遠さも、もうない。外交的な巧妙さを装った策略はもうない。国策として偽装された卑怯な動きや不適切な行為はもうない。名誉や国益のためと偽って、宮廷や軍の陰謀を行うこともない。要するに、政府の行動の本質と質に関する嘘はもうないのだ。すべてが精査される。臣民は観察し、比較し、支配者はついにこの経済的、政治的真実に気づく。この世界では、確固たる、永続的な成功のための条件はただ一つ、それは他よりも優れた、より効率的な統治を行うことである。その瞬間から普遍的な合意が生まれ、これまで無駄な労働や摩擦や抵抗のために浪費されてきた力が、人類の進歩と幸福に向けた前例のない、驚異的で強力な推進力をもたらすために団結するのである。
アーメン!
しかし、一つ小さな異論を許してほしい。あらゆる種類の政府が、あらゆる場所で公に、自由競争のもとで試されたとき、その結果はどうなるでしょうか。一つの形態が最良であると認識され、最終的に誰もがそれを選択することになるはずである。これでは、すべての人のために一つの政府を持つことに逆戻りしてしまい、まさに私たちの出発点となる。
敬愛なる読者の皆様。焦らないで。
あなたは、そうすればすべてが調和することを自由に認め、これを私たちが始めたところに戻ると言うのですか?あなたの反論は、この普遍的な合意が「レッセフェールレッセパッセ!」という単純な方便によって確立されることを期待している限りにおいて、私の基本原理を支持するものです。この瞬間を捉えて、あなたが私のシステムに納得したと宣言することもできます。しかし、私は中途半端な納得には興味がなく、改宗者を探しているわけでもないのです。
答えると、我々は単一の政府形態に戻ることはないだろう。おそらく、遠い将来、政府の活動が共通の同意によって最も単純な形態に縮小されるときを除いては。我々はまだそこに到達していませんし、その近くにもいません。
人間は全員同じ意見でも道徳的態度でもなく、あなたが思うほど簡単に和解できるわけでもないことは明らかです。したがって、自由競争のルールが唯一可能なものなのです。ある人は興奮と闘争を必要とし、静寂は彼にとっては致命的である。もう一人は、夢想家であり哲学者であり、社会の動きを遠くから意識している。彼の思考は、最も深い平穏の中でしか形成されない。
ある者は、貧しく、思慮深く、無名の芸術家であり、不朽の作品を作るために励ましと支援を必要とし、実験のための実験室と天使を彫刻するための大理石の塊を必要とする。
もう一人は、強引で衝動的な天才で、束縛に耐えることなく、自分を導こうとする腕を折る。ある者は、献身と自己犠牲を伴う共和制に満足し、別の者は、華やかさと豪華さを伴う絶対君主制に満足する。
ある人は演説家として議会を好み、別の人は10個の言葉をつなげて話すことができず、そんなおしゃべりな人とは関わりたくないと思う。気の強い人もいれば弱い人もいる、飽くなき野心を持つ人もいれば、自分に降りかかる小さな分け前に満足する謙虚な人もいる。
最後に、様々な個性と同じくらい多くのニーズがある。これらすべてを単一の政府形態でどのように調和させることができるだろうか。明らかに、人々は程度の差こそあれ、それを受け入れるだろう。ある人は満足し、ある人は無関心で、ある人は欠点を見つけ、ある人は公然と不満を持ち、ある人は陰謀を企てるだろう。何が起ころうとも、人間の本性は、満足する人の数が反対する人の数より少なくなることを保証してくれる。どんなに完璧な政府であっても、それが絶対的に完璧なものであっても、反対者は常に存在する。その人たちの性質は不完全で、あらゆる完璧さが理解できず、不愉快でさえある。私のシステムでは、最も極端な不満は、単に夫婦喧嘩のようなもので、その最終的な解決は離婚となるであろう。
しかし、競争の支配下で、どの政府が進歩のための競争において他の政府に追い越されることを許すだろうか。幸せな隣人が利用できる改良を、自分の家に導入するのを拒否するだろうか?このような絶え間ない競争は、驚異的な効果をもたらすだろう。実際、被験者も完璧なモデルになる。彼らは自由に出入りし、話したり黙ったり、行動したり放置したりすることができるので、もし完全に幸福でなかったとしても、彼ら自身を非難することしかできないだろう。これからは、注目を集めるために反対意見を煽るのではなく、自分たちの政府が想像しうる限り最も完璧なものであると自負し、他人を説得することによって虚栄心を満たすことになるだろう。こうして、支配者と被支配者の間には、友好的な理解が生まれ、相互の信頼と単純な関係が容易に考えられるようになるのである。
目が覚めているにもかかわらず、政党や政治運動の間の完全な調和を本気で夢見ているのか?同じ領土で緊張感なく共存できると思っているのか?強い者が弱い者を征服し併合しようとすることもなく?この偉大なバベルの塔が世界共通語を生み出すとでも思っているのか?
私は、世界平和をもたらす自由の至高の力を信じるように、世界共通語を信じています。この普遍的な合意が何時、何時、どのような形で結ばれるかを予測することはできない。私の考えは、風の中の一粒の種に過ぎない。それが肥沃な土地に落ちるのか、それとも石畳の道に落ちるのか。私はそれについて何も言うことができません。私は何も提案しない。
すべては時間の問題である。100年前に良心の自由を信じたのは誰で、最近になってあえてそれを疑うのは誰だろう?報道機関が国家の権力であるという考えを嘲笑したのは、そんなに昔のことでしょうか?しかし、今や政治家もその前に屈服しています。この新しい世論の力を予見していたのでしょうか。それは、専制君主の決定においてさえ、最も重要なことなのです。その台頭を予測しようとする者を、あなたは笑わなかったでしょうか?
あなたが提案を進めているわけではないので、話をすることは可能です。例えば、この混乱した当局の中で、誰がどのように自分のメンバーを認識するのか、教えてください。また、この政府の下で登録し、そこから脱退することがいつでも可能だとしたら、国家予算の決済や市民名簿の作成は、誰に、何に頼ればよいのでしょうか。
第一の場合、私は、政府が気まぐれに変化し、破綻するような自由があるべきだとは思わない。この種の契約には、最低期間を定めなければならない。例えば1年である。フランスや他の国々の例から判断すると、自分が加入した政府を1年間容認することは大いにあり得ることだと思います。
定期的に承認され、均衡のとれた国家予算は、自由競争の結果必要とされる範囲でのみ、すべての人に義務を負わせる必要があります。紛争があれば、通常の裁判所が決定を下す。政府が臣民、有権者、納税者を特定することは、各教会が信徒を、各企業が株主を記録することよりも難しいことだろうか。
しかし、1つの政府ではなく、10や20の政府が存在することになり、予算や市民リストも同じように多くなり、一般経費も政府部門の数だけ増えることになりませんか?
私はこの反論の正当性を否定しない。しかし、競争の法則により、各政府は必然的に可能な限り簡素で経済的なものになるよう努力することになることを考えてください。私たちに多大な犠牲を強いている政府部門は、必要最低限のものだけになり、余分な役職者はその地位を捨てて生産的な仕事に従事しなければならなくなるでしょう。
この方法では、問題は半分しか解決されないでしょうし、私は不完全な解決は嫌いです。政府が多すぎるのは悪であり、混乱とまではいかなくても、過剰な出費をもたらす。しかし、ひとたびこの悪に気づけば、解決策はすぐそこにある。人々の常識は行き過ぎに我慢できず、すぐに実行可能な政府だけが存続できるようになるだろう。それ以外のものは淘汰されてゆくだろう。自由はすべての答えである。
そうかもしれない。そして、既存の王朝、優勢な多数派、確立された制度や認められた理論についてはどうでしょうか。彼らが退却して、レッセフェール、レッセパッセの旗の下に静かに並ぶとでも思っているのだろうか。具体的な提案をしないのは結構なことだが、そうやって議論を避けては通れないのだ。
まず第一に、彼らが自分たちに自信を持っていて、常に大きな譲歩を拒否する余裕があると本当に思っているのかどうか教えてください。私自身は誰も転覆させるつもりはありません。すべての政府は、ある種の生得的な力によって存在し、それを多かれ少なかれ巧みに使って生き延びています。今後、私のシステムの中で、政府は確実な地位を占めることになるでしょう。しかし、そうなる可能性を考慮せずとも、権力の安全性と安定性から、なんと素晴らしい代償がもたらされることでしょう。しかしその代償として、彼らは完全な服従を得ることになるのです。しかも契約期間中ずっと自発的に。強制はなく、警備員も少なく、警察もほとんどなく、兵士もいるが、それはパレードのためだけで、したがって美しいものだけである。経費は収入の減少を上回る速さで減少し、融資も財政難もなくなる。これまで新世界にしか見られなかったことが現実になる。このような方法で、永遠の未来にその名を刻みたくない王朝があるだろうか。少数派が集団で移住することに同意しない多数派がいるだろうか。
ようやく、「レッセフェール」という偉大な経済原則に基づいたシステムが、すべての困難に対処できることがおわかりいただけたでしょうか。真実とは、半分の真実だけではなく、それ以上でも以下でもない、完全な真実である。
今日、われわれには支配王朝もあれば没落王朝もある。王冠をかぶった王子もいれば、王冠をかぶるチャンスを狙っている者もいる。それぞれが自分の党を持ち、それぞれの党は、国家という馬車の車輪にスポークを打ち込み、それを傾けて、自分たちもそれに乗る機会を得て、順番に同じ運命を辿る危険を冒すことに最大の関心を寄せているのだ。これは、ポール・ルイ・クーリエがよく言っていたように、人々が代償を払ってでも決して飽きることのない魅力的なシーソーゲームなのである。
私たちのシステムでは、高価なバランス行為も破滅的な没落も、陰謀も簒奪も、もうありません。誰もが正統であり、誰もそうではない。人は、自分が受け入れられる限り、そして自分の支持者だけのために、異議なく正当であり続けるのです。これとは別に、神的な権利も世俗的な権利もなく、変化すること、自分のプログラムを完成させること、自分の支持者に新たなアピールをすること以外の権利はないでしょう。
流刑、追放、没収、迫害は一切ありません。債権者の要求に応えられない政府は、誠実で、帳簿がきちんとしていて、憲法やその他の法令が忠実に守られていれば、堂々と宮殿を去ることができます。支配者たちは引退して、自己正当化のための回顧録を書くことができる。別の状況では、考えが変わったとき、集団的な取り決めに不足を感じたとき、特定のものが欠けているとき、遊休資本があり、不満を持った株主が他の投資先を探しているとき...人は自分のプログラムを立ち上げ、すばやくメンバーを集め、十分に強くなったと思ったら、暴動の言葉のように街頭に降りるのではなく、政治的メンバーシップのための事務局に行くのである。そして、基本的な規約のリストと、メンバーが自分の名前を記入するための名簿を添えた宣言書を手渡すと、新政府が誕生するのである。あとは内部問題、運営上の問題で、メンバーだけが心配すればいい。
私は、政治的メンバーシップのための事務局のために集められる登録の移行のための最低額の手数料を提案します。政府を設立するための一定の金額と、個人として政府から政府へ移るためのごくわずかな金額です。職員は他の報酬を受け取ることはないが、これらの事務所が多くの業務を行うことを期待しているので、十分な報酬を得ることができると想像している。
この装置のシンプルさ、子供でも扱える強力な機械、それにもかかわらずすべてのニーズを満たしてくれることに驚かないのでしょうか?
探して、吟味して、テストして、分析してみてください。この装置のどこが悪いのか、あなたにはわからないでしょう。
さらに、私は、誰もそれを気にしないと確信している:それは人間の本質である。この確信があるからこそ、私は自分の考えを発表することにしたのだ。
実際、もし私が信奉者を見つけなければ、これは単なる知的訓練に過ぎず、既存の権力も多数派も組織も、要するに、どんなに強大なものも、私に対して悪い感情を持つ権利はないのである。
もし偶然にも、あなたが私を説得したとしたら?
シーッ... あなたは私を妥協させるかもしれない!
※1
フランス語で「なすに任せよ」の意。経済学で頻繁に用いられており、その場合は「政府が企業や個人の経済活動に干渉せず市場のはたらきに任せること」を指す。自由放任主義(じゆうほうにんしゅぎ)と一般には訳される。
レッセフェール-Wikipedia
※2
ランス語で「行くに任せよ」の意。レッセフェールと共に18世紀にフランスの重農主義者が唱えた,経済的自由主義の標語・主張。
※3
「人間の数だけ、それだけ多くの意見がある」という意味のラテン語。
※4
タンパ(英: Tampa)はアメリカ合衆国フロリダ州中部のメキシコ湾側のタンパ湾の奥部に位置する商工業及び観光、保養都市。
タンパ-Wikipedia
協力してくださった7人の友人、作業中ループしてたDaft PunkのAlive2007、そしてこの素晴らしい思想との邂逅をもたらしてくださった落合渉悟氏に大きな感謝です。
また、前書きで紹介した落合渉悟氏がパナーキーを実現できる現在唯一の方法としてメタ国家アプリ「Alga」を開発しているそうです。(Newspicksのプロフィールより)私が紹介するのも烏滸がましいですが、興味を持った方は#僕メタ と共に是非見てみてください。
ここまでありがとうございました!是非また会える日を願って!
訳者:
・Rick Shinmi:@rickshinmi
助けてくれた友人たち(名前を載せるのをOKしてくださった人):
・Bluemo:@blu3mo
・Yuki Kawagishi:@YukiKas26279238
・Fuka:@photo__girl