初めまして。
私は長崎県出身です。
長崎市に原爆が落とされた日に、長崎師範学生だった母が長崎大村にいたそうです。長崎市内から離れていたため直接被害はなかったそうですが、翌日から被害者の救護活動に携わっていたようです。
後に、放射能爆弾であったことが分かり、被爆者申請した人、母のように、隠して生きた人に分かれたようです。
隠したのは、遺伝子異常の発生を怖がり、嫁の貰い手がなくなるから、という理由があったようです。
母は48歳で肺がんで亡くなりました。被爆したことが理由ではないかと、言ってましたが、中学生だった私は聞いたけど聞かないふりをしていました。
母は私が生まれる前から、学校教諭でした。
私は、物心ついた頃から、3歳年上の兄と両親の帰宅を待つのが日課でした。
構って欲しくてあの手のこの手を使ったのですが、母は体調崩すまで、仕事をしました。最期は家庭での、病院の指示で、退院した母が家で寝ているのを、私は大変喜んだ覚えがあります。
話がしたかった、やっと母が家に居る。
母は残す娘が不憫だったのと心配だったのか、「将来どうするのか?勉強するべき」攻撃をしてくるので私は話ができなかった。とっくのむかしに、勉強なんか嫌いになっていた。
その頃、ハマってしまったのが、太宰治。出版された太宰治作品は、中学時代に、全部読んだと思う。それから、三島由紀夫、どちらも自殺する人が書いたお話。
死が身近にある暮らしの中で、思春期の私は、母を憎んでいた。
優しい言葉すらかけてくれない。
せっかくの休みの日には、ピアノ教室に行けと言う、自宅で練習したら兄からうるさいと言われ上達する気もしない。
嫌なことだらけの日常、母は死んだ。
私は高校1年になっていた。
続く