1952年の秋葉原。
山本長蔵の尽力で、今の秋葉原の原型が完成した。
露店を1つの建物に集め、デパート式にしたのだった。
この露店を1つの建物に集めたデパートの案は、昔からあった。
でも1つ心配な事があり実現するには、時間がかかった。
それは、万引きが多くなる事だった。
露店がデパートに入ると万引きが多くなる問題がある。
逆に万引きが出来る位、手に取り安い所に商品は置かないとならない。
それは、この当時の商売の原則でもあった。
デパート形式にするならこの問題を解決しないとならない。
この問題を解決する案はこの時は、まだなかった。
でも山本長藏の説得で露店は、デパートに入る事になった。
露店がデパートに入った後、みんなで試行錯誤をしながら問題解決をした。
そして、だんだんと万引きがしにくい売り方が出来る方法があみ出された。
その1つとして、レジと売り場の距離を密着させる方法。
この方法を取れば、店員がずっと品物を見ていられる。
このやり方が定着したおかげで、デパートの売り場が今の狭い形になった。
でも、まだまだ万引き防止のノウハウは、あみ出されて行った。
そのノウハウを集めたデパートがラジオデパートだった。
当時、このデパートに来れば電気部品は全て揃った。
米軍から払い下げられた真空管、エナメル線、シャーシ、ニキシー官。
このデパートでは、何でも売っていた。
しかも仕入れる時は、大量に仕入れるからタダ同然の値段で仕入れられた。
なのに店では、真空管が1個1000円とか2000円で売れる。
だから1坪足らずの店でマンションを買えたり金の時計をする店主もいた。
そんなにぼろい商売だから、更に電気店がどんどん秋葉原に集まってきた。
当時の秋葉原の繁盛ぶりは、ラジオの人気ともう1つ要因があった。
それは、電気問屋が秋葉原にはあり、そこに店側が仕入れに来る。
電気部品の問屋が秋葉原にあれば、そりゃ儲かる。
この時1番大きかった問屋は、いまもある「広瀬無線」だった。
元々問屋は、上野が主戦場だったがどんどん秋葉原に移店してきた。
その結果、上野から秋葉原に移店しなかった電気問屋は、潰れてしまった。
秋葉原に進出してきた問屋は、今でも経営できている。
その移店してきた問屋の中には、有名な問屋もあった。
それは、志村無線や、朝日無線(ラオックス)などだった。
その結果、倒産せずに今でも残っている。
逆に上野から移店してこなかった店は、今はもう全てなくなった。
秋葉原では、1950年~1951年くらいまでジャンク屋が流行っていた。
米軍の訓用部品などの最先端の物から部品を取って販売していたのだ。
その部品は、詳しいマニアにとってよだれ物の部品なので飛びついてきた。
米軍も、使わなくなった物を捨てずに売る事が出来て凄く儲かったらしい。
でも、あまりにも売れて儲かる為、ある事件が起きてしまった。
その事件は、ある米軍兵士がジャンク部品を売ると凄く儲かる事を知った。
その米軍兵は、ジャンク部品は倉庫の中に大量にある事を知っていた。
そして、倉庫の中身の部品全部1人で盗んでしまったのだ。
さらに証拠隠滅の為、倉庫に火を付けて燃やしてしまった。
この事件が歴史に記載されていると言う事は、犯人は捕まったのだろう。
山本長藏は、当時の元総理大臣の三木武夫氏と親交が深かった。
さらに、海部俊樹氏とも親交が深く政治にも顔が利いた。
三木武夫氏は、秋葉原の移転業の時も色々協力してくれた。
三木武夫と山本長藏は、明治大学時代の弁論部からの知り合いだった。
三木武夫が政治家になる時、山本長藏は応援演説や代理演説もやった。
当時三木武夫が構想していた、共同主義にも惚れ込んでいた。
共同主義というのは、1つの果実を皆で分け合うという思想。
これは、当時の中~上級階級の育成をするためのものだった。
その意志と思想を山本長藏も持っていたので、当時の秋葉原に根付かせた。
これは、山本長藏なりの共同主義社会の実践だった。
更に山本長藏には、もう1つ信念があった。
それは、友を宝にし、とにかく人を信じきれと言うのが信念だった。
その思いが、秋葉原の街を作り出していった。
山本長藏は、政治家になる事が学生時代からの悲願でもあった。
でも、人の世話ばかりでなかなか政治家になれる機会が無かった。
3回ほど政治家になろうと立候補したが、落選してしまう。
それは、人の世話ばかりで選挙活動がろくに出来なかったからだった。
そんな中1953年に山本長藏は、すい臓がんで倒れる。
そして65歳で、死んでしまった。
山本長藏の秋葉原の功績は、今でも知らない人が多い。
彼がいなかったら、露天を1つにまとめられずGHQに潰されていただろう。
そうなると、今の秋葉原が存在しない未来もあり得た。
今の秋葉原があるのは、山本長藏の功績が全てだった。
時代が流れても原点は、忘れ去られる事が無いのかもしれない。