DVD「千と千尋の神隠し」見る。このアニメを見るのは3回目。
今回思ったのは、結局、殆どぜんぶカオナシのおかげということだ。
そもそも千尋が大湯の掃除をまかされたとき。
千尋の求める薬湯の札を番台は断るが、カオナシが術をかけて、それを千尋に渡させる。
そのおかげでこの風呂釜は綺麗になる。
そこへもカオナシは登場し、いくつもの薬湯の札を渡す。
千尋はひとつでいい。いらないという。
しかし、そこに誰もが腐れ神と見間違うた川の神が来る。
結局この腐れ神の汚れを取るためにこの薬湯の札は必要だった。
いらないという千尋の判断が間違いで、これをあげようというカオナシの考えが結果的には功を奏するのである。
千尋はこの札を使って新しい薬湯を手に入れ、腐れ神と化していた川の神を清浄に戻すのに成功する。
川の神は善きかなと笑い、去り際に泥団子をひとつ残す。
この泥団子はあとで、ハクの命を救い、ユバーバがハクにかけた術を解き、さらにはカオナシを正気に返らせる。
この泥団子がなかったら、この物語は千尋の敗北に終わっていたのであり、この泥団子を手にすることが出来たのは、いらないという千尋にカオナシが無理矢理渡した薬湯の札のおかげなのだ。
ただし、泥団子を食べてなお千尋を追いかけながら徐々に正気に返るまでカオナシの行動は自覚的ではない。
特にカオナシの前半の行動が、相手がほしがるだろうと勝手に思い込んだ物をあげることで愛を得ようという無自覚で誤った行動なのは、確かだ。
だが、結果的にはそうやって無理矢理渡したものが、すべての展開における最初の鍵になっている。
なぜか。
それはどんなに無自覚で誤っていようと、カオナシの動機の一番根底に愛があったからではないのか。
このアニメでは、カオナシのした行為こそが、巡り巡って、千尋と琥珀川の愛も成就させていることをスルーして見ている人が多いと思う。
無自覚で、そして悪役でさえありながら、展開上、最も活躍したのは、実はカオナシなのである。
もちろんカオナシをそんな気持ちにさせたのは、千尋が核心に持っている光るものだといえば、話は一周するのだが。
この話は、とにかく、一時は動機や言動に過ちを含もうとも、巡り巡ってすべてのものが、からまり合って互いを救済していく物語なのであって、絶対的な悪者も、絶対的な正義もひとつも(微妙なのは千尋だが)出てはこない。
ただ千尋だけが一度も動機の純粋性を失わないというのは、ヒロインの造型における宮崎駿の趣味だと思った。