1992年の私の講演録「スピリチュアルは天皇制を超えるか」から、ポジティブシンキング批判の部分を引用します。
(前半マルチ商法について。後半チャネリングについて)
この講演の全体は、noteで販売しています。
今日はもう少し問題点を整理してみましょう。
まずポジティヴということについてですが、 本当のポジティヴとはいったいなんでしょうか。
それはネガティヴィティを抑圧することではないはずです。
ましてや、ポジティヴとはある価値の実現に熱心な姿勢だけを指すものではありません。
あえて言葉で言うなら、 たとえどんな自分であれ、その自分をそのまま受容することが本当のポジティヴということに近いと言えるでしょう。
いやそこにはポジティヴとかネガティヴとかいう言葉さえ不要でしょう。
セミナーではある価値を実現することに、あまりにも重点がおかれてしまっています。
特に、セミナーに人を勧誘することに、「ポジティヴな」エネルギーをそそぎこむことにものすごい価値が置かれてしまいます。
僕は勧誘活動をしてみて、そのうち自分の上半身と下半身が分離して足がフワフワ浮くという状態に陥ってしまいました。
これはフォーカシングというテクニックで自分自身の実感に戻り、 それをそのまま受容することによって直りましたが。
これは危なかった。
もう少しで自分を失う所でした。
ある友達は、僕から見ると熱心すぎるような活動の最中にバイクでこけました。
幸い怪我はたいしたことなかったのですが、彼女の体はより深いところで、自分が無理をしていることを知っていたと思います。
勧誘活動は金銭の利益をともなわないボランテイアですが、基本的には、営業活動のシュミレーションです。
資本主義の無限成長幻想のシュミレーションともなっています。
それだからでしょう。
セミナー出身者の間ではマルチまがい商法が流行ります。
バブルスタ ーは、一時かなりの勢いで広がっていました。
バブルスター自体が健康によい、すばらしいものだと信じることができれば、それを心からポジティヴに広げて行こうとすることは、セミナーの勧誘活動と同じ構造です。
しかも今度は実利が伴うというわけです。
精神性というか幸福論のようなものと、経済的実益が両方伴うわけです。
あるいはそう信じる信念からエネルギーを生み出すわけです。
僕はバブルスターがそんなにいいものとは感じませんでしたが、あの動きに自分を投入していった人達は本当に「いい」 と感じていたのでしょうか。
それとも、そう信じたかったのでしょうか。
いずれにしろ、 マルチ商法として摘発され、あの動きはぽしゃりました。
ちなみに先の大川隆法は、このバブルスターの商法を常勝思考の好例として、 称賛していました。
それがまもなくぽしゃったわけです。
つまり大川は数年先の商売の見通しもたてられない予言者なのです。というよりも、ポジティヴ・シンキングの落とし穴をここに見るべきでしょう。
ポジティヴ・シンキングの名の下に、自分の観念を盲信しているだけの場合があまりにも多いのです。
僕が思うにはありのままの宇宙に心を開くことこそ、何にもましてポジティヴなのではないでしょうか。
さてバブルスターの例がもうひとつ象徴的なのは、それがネズミ講の構造を持っていたことです。
つまり早ければ早いほど得をする、 最後に来るもののことなど何も考えない。
そういう人を踏み付けるという構造を持っている。
早く参加した人はそれだけポジティヴだったから得をしたのだということになるわけです。
もしも本当にいいものを売るのなら、ネズミ講にして一部の者に利益が集中するような売り方ではなく、そんな余分な利益の分だけ商品を安くして、普及させるべきです。
健康にいいものならどんな病人でも買えるように値段を安くすることこそ肝心でしょう。
最近は浄水器で、同じようなマルチ商法のものが出ているようです。
セミナーのテクニックで感動させて、心と健康と実益を兼ねたムーブメントとして広めようとしている。
ところがその実は、 トップが自分の儲けを考えているだけなのです。
さらには、その小さな団体のトップでさえ、たぶん、もっと大きな企業の利益に奉仕するトカゲのしっぼにすぎない。
トカゲのしっぽというのは、摘発されたら切られてしまうに違いないからです。
一番安全に、一番儲けようとしている者はもっともっと見えない所にいるでしょう。 そういうことの解明は、このマイ トリー瞑想センターの連続講座でも、どんどんやっていくべきでしょう。
誰が世界を操っているのか、をです。
とにかく、僕らはそういう世界に住んでいる。
感動する心は大切ですが、感動ばかりしていたのではいいように操られるだけです。
そして結果的に、資本主義の他民族からの略奪、自然からの略奪に加担していくことになる。
自己啓発セミナーの与える感動は、この資本主義への加担に非常にうまく直結していく。
ライフダイナミクスの経営母体のトップクラスはマルチの神様と言われる島津幸一という人と関係していると上田紀行が『名前のない新聞』 のインタビュ ーで言ってました。
もちろん、誰が何をどこまで意図しているのかは読み取りきれません。
でも僕はこうも疑っているのです。すべては仕組まれているのではないか。
資本主義の延命のために、無限成長幻想をふりまく必要がある。
そこでセミナーの流行が必要だ。
ポストモダン思想の流行が必要だ。 ・・・あの80年代前半の、浅田彰と中沢新一の唐突なベストセラー化も考えてみれば変でしょう。
流行っていると言い出すだけの力があれば、本当に流行るのだから、 ある書物を流行らせるのなんて、力のある人には簡単でしょう。
そういう風に憶測で考えると切りがないので、これはひとつの可能性というだけにとどめて、次に行きましょう。
チャネリングについても少し話をしておこうと思うのです。
自己開発セミナーとチャネリングは表面的な意匠はかなり違います。
セミナーは一応心理学的なセラピーの意匠をまとっていますが、 チャネリングは宇宙存在だとか、歴史上の人物だとかが出てきていかにも神秘主義的です。
しかし、そこに現れている思想的傾向には非常に共通点が多い。
ポジティヴシンキングが好きな所もそうだし、 「すべては自己の選択だ」 という考え方が好きなのもそうです。
先の大川なんかはこの点においても最悪の可能性を示していて、子供が生まれない人は自分の女性性を否定しているからだとか、耳の聞こえない人はコミュニケーションを避けているのだとか、 めちゃくちゃを言っています。
『堕ちた神』 にはオショーのオレゴンのコミュ ーンでは、病気になる人はネガティヴなのだと尻をたたかれ、病気を押してワークを続けてきたことについて書いてありました。
ニュ ーエイジ思想というのは、すべてを精神的な問題であり、自己責任の問題であるとしてしまうのが好きなのですね。
特にチャネリングで語られることには、 その傾向が著しい。
たとえばいつどこにどんな肉体をもって生まれるかということさえ、選択の問題にしています。
障害を持って生まれた者は、過去のカルマを一気に解消するために、それを選んで生まれてきたのだとも言っています。
ここにはインド系の宗教に広く見られるカルマの思想が現れているわけですね。インドではこのカルマの考え方によって、 カースト制度が肯定されてきたわけです。
この 「すべては自分の選択なのだ」 というのは強者の論理です。そして実際にその状態の中にいる人への共感を欠いています。
たとえば、本当に子どもがほしいのに、子どもができないで苦しんでいる人はいるし、本当に人とコミュニケーションしたいのに、耳が聞こえなくて辛い思いをしている人がいるはずです。
それを 「あなた自身が選んでいるのだ」 と言い放つのは、そういう辛酸をなめたことのない人の身勝手な論理にすぎません。
すべてを個人の責任にしてしまう考え方は、資本主義にとって、とても好都合です。
この考え方の中では勝った者が勝ちであり、負けたものが負けということになります。
しかし、勝った者が自分ひとりで勝ったつもりでいる陰でどんなことが起こっているのかはあまり注目されません。
つまり誰かが儲かった陰では誰かが搾取されています。公害が発生して病気になったり死んだりしています。
自然が破壊され、生態系が壊され、現地の人々の生活が破壊されています。
いやそのように物事を対立的に捉えること自体が間違いなのだとチャネリングされた宇宙存在、たとえばバシャールは言うかもしれません。
すべてが調和を持って発展することは可能なのだと言うかもしれません。
言葉は美しいし、そういうレベルの現実もあるにはあるでしょうが、現に今あるこの社会の中では、この言葉は欺瞞であるというほかありません。
これはいわゆる労使協調路線のようなものです。
資本家も労働者も対立しないで協力して互いの利益を高めよう、と。
しかし、これは欺瞞です。
踏みつけられるものがさらに見えない所においやられているだけです。
たとえば今まで日本の中での階級対立だったものが、日本とアジアの関係に転化されるだけです。
今や、アジアの人々が踏み付けられています。さらに地球の自然が踏み付けられています。
バシャールは、あなたがワクワクすることをするなら、宇宙全体があなたをサポートしてくれると言いますが、僕はここにも欺瞞を感じます。
なるほど宇宙というと無限性を感じるが、実際には僕らをサポートしてくれているのはこの惑星の自然です。
もちろんこの惑星は太陽のめぐみを受け、月やいろいろな天体の影響も受けています。
けれども、ほとんど僕らはこの地球という惑星にたてこもっているのであって、この星の自然がだめになったら、僕らはもうだめなのです。
そしてこの星の自然は無限の供給源なんかではありません。
いつも人間がワクワクすることをサポートするためにいてくれているわけではありません。
ワクワクすることをすればサポートしてくれるというのは、すべての環境を非常に母性的にとらえ、それに甘えようとしている感覚です。
なるほど、ある規模の範囲内の原始的な社会なら、自然やまわりの人々とのそういう調和的な関係が保てたかもしれません。
しかし、石油を浪費し、原子力まで使っているこの文明の中では同じことはもう言えません。
僕らがたとえば日本で、けっこう自分がワクワクすることをできるお金が回ってくるのは、この日本社会が地球を破壊することによって繁栄しているからです。
だからいつもお金が経巡っている。なるほどワクワクすることをすれば「おもしろい!」 とか言ってスポンサーになる人が現れたりなんかするかもしれない。
けれど、そんなことをしていられるのも、もっと別の所で踏み付けられている人々や自然があって、その犠牲の上にこの国が繁栄しているからなのです。
バシャールの言うことがリアルに思えるのは先進国の、 しかもある程度の経済的余裕のある人を相手にしている場合だけです。
この資本主義社会は、うまくいっている者がますますうまくいくようにできているのです。
話は少し戻りますが、すべては自分の選択だというのは、僕も究極的には真実だと思います。
しかしこの問題は非常に微妙です。僕はある瞑想中に、宇宙の中心までいってしまったことがありますが、 その時に、はっきりと自分がいつどこに生まれるのかは自由だと感じました。
しかし、そこから見れば自由だったのですが、だんだんと意識がせばまっていくにつれて、選択の範囲がせばまっていきました。
そしてふと気がつくと、この僕が座っていました。それはもうどうしょうもなく、そこに座っていたのです。
そのすべてのプロセスは本当は自由だったのだとわかりましたが、かといって、今ここにこうしてあるのは、どうしょうもないことでした。
つまり、宇宙の中心から見ると自由ですが、この僕から見るとすべてどうしようもないのです。
髪の毛一本白くすることも黒くすることもできない(聖書)のです。
だから 「自由だ」 という時には神の位置からものを言っていることになります。僕は人間はできるだけこれをしない方がいます。
なぜならものを言うこの自分はすでに人間であり、ここにこうしてあるのだから。
だからここにこうしてある自分を無視しない限りそんなことは言えないのです。
ここにこうしてある弱くてもろくてどうしようもない自分。
そして目の前にいるやっぱり弱い人間の存在。
そういったものを感じることを拒否するなら、すべては自由だとか、すべてはあなた自身のカルマだとか言えます。
でも純神秘哲学上の真実だけを問題にする時はいざ知らず、普段はそんなことを言ってもしかたないと思います。
それから、僕らの一人一人は必ず関係の中にあります。
だからいつも関係の中でものを考えないといけません。
たとえば僕は日本人です。
日本人である僕が在日朝鮮人の友達に向かって、 「おまえは自分で選んで日本に来たのだ」と言えますか。
朝鮮入従軍慰安婦だった人に 「それはあなたのカルマだったのだ」 と言えますか。
究極的にはそうでも、そんなことは口が裂けても言えないのです。
なぜなら僕は関係の中にあるひとりの人間なのだから。
そして僕はグルも関係の中にある一人の人間だと思います。
バラモン階級に生まれたグルが自分で差別しておきながら、差別されている人々に 「それはあなたのカルマなのだ」と言うのはおかしいと思います。
すべては自分の選択だという論理は強者にとっての、差別し搾取する側にとっての言い訳の論理になります。
いっぺん、部落解放同盟か何かの場所で、チャネリングをやってみてはどうでしょうか。 どんな反応がかえってくるでしょうか。
宇宙存在になりすまして、 「あなたは部落に生まれることを選択しました」 と言ってみてはどうでしょうか。
これは間違いなくたいへんなことになるでしょう。
もちろんその時は宇宙存在の責任ではなく、その発言を自分の口からしたチャネラーの人間としての責任が問われることになるでしょう。
同じことは、グルマイなどのインド系の瞑想思想についても感じます。
ヒンズー系の瞑想思想は、カルマの思想から結果的にカースト制度を肯定してしまっています。
僕はグルマイの眼想では本当にすごい体験をした。 クンダリニーはバンバンあがったし、 ハートのチャクラなんか爆発してしまった。
そして本当に静かな永遠の覚醒を味わいました。
しかし、僕はグルマイとその教団は、乗り越えるべきいくつもの課題を持っていると感じています。
たとえばグルマイが来日した時、スタッフの一人が日本の経済的繁栄について、ほめていた。
しかしその発言は片手落ちだったと思います。
日本がどれだけの略奪と破壊を行ってきたか、今も行っているか。
そもそもこの繁栄は朝鮮戦争とベトナム戦争を利用して築かれてきたということ。
そのようなことを不間に付すのは、平和主義ではなく、権力への迎合主義であり、結果的には暴力主義です。
こういうところに精神主義の卑怯な所がある。
グルマイの師匠のムクタナンダの本を読んでも、カーストの肯定につながってしまうようなところがたくさんあったことを言い添えておきましょう。