・ 浄土真宗のアイヌ侵略
一八六九年に浄土真宗東本願寺は、明治政府の「蝦夷地開拓御下問書」を受けて、北海道開拓・開教を願い出る。
その願書には「彼地土人は申すに及ばず、諸方より出稼ぎの者も、異教に流れ申さざるよういたし」国の恩に報いたいという記述がある。
また一八七〇年に出版され、戦後も何度か復刻された「現如上人巡教の図」(十九枚セット)には、アイヌ民族が、現如という真宗僧侶に土下座、平伏、使役されている姿が描かれている。
そしてその詞書には「物も哀れもしらぬ蝦夷人」を宗教的に救済しようとして、「土人どもに」南無阿弥陀仏の六字の名号を与えたなどと記されている。
これらの資料は浄土真宗が蝦夷とその文化に対して強い差別意識を持ち、一方的教化の対象としていたことを証明している。
ここには「野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつなぐともがらも・・・ただおなじことなり」と言った親鸞の蝦夷に対する朋友意識は微塵も感じられない。
ところで、明治国家のアイヌ侵略を考えるとき、北海道は当時「外地」であったという認識が基本的に重要である。
以下、やや煩雑ではあるが、北海道はいつ日本の領地になったのか。『アイヌ民族の「領土権」と植民地北海道』を参考に整理してみよう。
一九五七年外務省が『外地法制誌』で示した政府見解は「外地とは内地=日本本土に対して、法制上異なる地域、すなわち、日本の領域中憲法の定める通常の手続きで成立される法が原則として施行されない地域」であるとしている。
そうした上で、それに続いて具体的に説明する個所では、「戦前の北海道は内地」であると述べている。
しかしこれでは矛盾している。
明治時代、北海道は、明治憲法の適用除外地域であり、参政権もなかった。
そのため、北海道だけに適用された法律「北海道旧土人保護法」「北海道拓殖銀行法」を定めた当時の帝国議会には、北海道選出議員はいなかった。
さらに一九四七年までは地方自治体としての「北海道」は存在せず、国の特別官庁である「北海道庁」が治めるこの地域には「地方議会」すらなかったのである。
したがって一九五七年の政府見解に照らし合わせるならば、むしろ戦前の北海道は外地であったと言うべきであろう。
「日本」とは何かを考える上で見逃してはならない一点である。
一八六九年、明治政府による「外地アイヌ・モシリ」への本格的な「開拓」が始まる。
その目的は経済的要請よりもむしろ、北海道が日本の領地であることを既成事実化し、その地の「土人」を同化して「皇国の北門」を固めるという軍事的要請が大きかった。
(注・・・小熊英二の『日本人の境界』にも詳細に分析されているように、明治日本は、沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮に対して、軍事的には天皇制日本への同化を、法的(人道的)には差別をという二重構造において支配していった。北海道もその例外ではない。)
「国家」とは何かを厳密に考証していこうとするならば、さらに様々な問題が派生してくるだろう。
だが、私がここでとりあえず北海道が外地であったことをはっきりしておきたかったのは、世界の歴史の中に浄土真宗の侵略的性格を置くという試みの一環である。
このような情勢下で北海道の「土人」に「開教する」ことを明治政府に願い出た東本願寺の行動は、まさしく南北アメリカの「土人」への強い差別意識をもって布教に出向いたキリスト教徒たちの合わせ鏡以外の何ものでもない。
もっとも各時代の世界情勢の中での政策や出来事については、現在の時点で断罪すれば事足りるというものではない。
私の目的は他人事としての断罪ではなく、どのような構造で何が起こったのか、その事実を見定めて、未来に向けての自分自身の責任を考えたいという点にある。