蚊に刺されて早朝目が覚め、ちょっとスマホを覗くと
sakkyさんが太宰の「饗応夫人」の感想を聞いてみたいと書いておられた。
感想はまず、「朝、早っ」であった。
もちろん二度寝した。
僕は太宰治のフアンとは言えない。
メロスについて書いたことはあるが、それは授業で教える側として、一応、準備したから、その時感じたことをまとめておいただけだ。
でもけっこう深読みしたんで、時間と関心がおありの方は読んでいただければ幸いである。
それにしても、アニメの影響かドラマの影響か、太宰って若い世代にけっこう流行していて、なんだかんだ十代の子らが、いっぱしに(失礼)その作品や人生を口にしているのは、おもしろい。
(放課後児童デイに集う発達障碍の子らの感想は特におもしろいのは、なーーーーぜ?)
で、唐突だが、せっかくだから、「饗応夫人」についてちょっと書いてみようかと思った。
まず、前提として、僕は小説は、夜見る夢と同じで、登場人物全員が自分の意識や無意識の中のあるロール(役割)を表していると思っている。
だから、登場人物の一人に全面的に肩入れもできないし、誰かを全面的に否定することもできない気がする。
これは自分の中にも部分的にあるよなあと自覚することや、
そうだとしても願わくばこうありたいと思っているよなあとか、
こういう部分はめちゃ大きい、
こういう部分はめちゃ小さい
とか、
あるいは、
こういう部分は表面に出ているから自覚している、
こういう部分は潜んでいて自覚してないだけかも?
とか、
そんなことが言えるだけではないかと思っている。
これは一応メモっておくだけ。
さて、饗応夫人だが、僕は人様をもてなしたいという強い欲動を、
「優しさ」としても「義務的な強迫観念」としても、あまりもってない。
あるいは自覚してないだけかもしれないが、
少なくとも表面上は、知るか!と思うことが多い。
しかし、わざわざ、知るか!とはねつけるのは、けっこう侵入されやすい性格だからという可能性はある。(;゜ロ゜)
だから、つけこまないでください。(;゜ロ゜)
たぶんあまり太宰フアンではないのも、太宰の持つ道化性とか、サービス精神とか、そういうものへの共感が低いからではないかと思っている。
しかし、それでも、一部、太宰と感応するところがあるとするなら、それは上記の「走れメロス」論でも書いた「表現者としての業」であろう。
僕の観察では、
太宰の中では、おもてなしの業と表現者の業が、けっこう複雑に入り交じっている。
だから「饗応夫人」を読んでいても、これ、マジ、おもてなしの話なの?
だとしたら、常軌を逸していて、わけわかんないよ。
となる。
だが、この話を最後まで書き切れる太宰は、
たぶん、おもてなしの業と表現者の業が複雑に入り交じった男なのだ。
僕にしてみれば、
そのまま、おもてなしとして読むとあまりにも共感度が低いので、
この夫人の嗜癖(業)はおもてなしとして描かれているが、
これが芸術家の表現への業なら少しは何か見えてくる。
などということを勝手に思いながら読む。
人の要求することを断れない嗜癖と
自分が表現したいことの表現が止められない嗜癖は
一見、逆のようだが、裏表と言えなくもない。
くださいと言われれば何でも渡してしまう饗応夫人の受動性と
あげるあげると千尋を追い回すカオナシの能動性は
嗜癖としてみれば一枚のCoinをこっちから表から見るか、裏から見るかの
違いだと思えなくもない。
人によっては、それがわけのわからないくらい入り交じって
収拾がつかなくなっている場合もあるだろう。
一方、家政婦の役割は、前頭葉というか理性というか、
合理的に考えて、ここはこれが優先でしょっという感じだが、
この作品では最後にはそれもぶっ壊れてしまうので
太宰が描いたのは、とにかく何らかの嗜癖(プラスにもマイナスにも働くものだが)で
人間が完全にぶっ壊れてしまうプロセスなのだ。
さて、ここで突然、話はモデル問題に飛ぶが、
モデル問題に飛ぶべきタイミングは、ここで正しいと僕は思っている。
初めからモデルは誰で太宰とはどういう関係でとかいう
作者のライフストーリー分析を先に持ってくるのは、作品を無視するよくない態度で、
だからといって、ある時点で、で実際のところ背景に何があるの?
と問うことは絶対に禁じ手というわけでもない。
饗応夫人のモデルは、桜井浜江とされるのが通常である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E6%B5%9C%E6%B1%9F
彼女は画家であり、僕が「生活を壊してでも表現者として生きる、表現者の業の深さを描きたかったのなら、僕にもわかる」と考えたことと照応するのだ。
写生のレッスンをせず、独自の画業を貫いた彼女はむしろ、意志や自我の強さを感じさせるエピソードに満ちている。
実際、残っている写真を見ても、いい感じで眼を飛ばしている。
とてもじゃないけど、ノーと言えずにおもてなしで破滅していく饗応夫人のモデルには見えない。
マジかよ。
性格、逆じゃないの?
と想えるほどだ。
唯一、路上で物乞いする浮浪者に会ったとき「かわいそうだ」と言って、財布まるごと置いていったというエピソードだけは、饗応夫人に似ていなくもない。
しかし、画業の独自性を貫いたところや芸術至上主義は、おもてなしタイプとは違う。
したいことをする女だ。
だから、物乞いには財布をあげたかったからあげただけではないかと僕は思う。
また夫と離婚したのは、夫が皇室に仕える家柄で窮屈で我慢できなかったとされている。
離婚の仕方も、とあるガード下で夫に「あんたはそっち、あたしはこっち、じゃあーねー」と言って去ったとされている。
ノーと言えないどころか、ぶっとんでいる。
反天皇の可能性は少しある。
饗応夫人の家は小説本文によると、都心に近かったから焼け残ったとある。
東京大空襲で燃え残った区域というのを綿密に調べて、饗応夫人の家はこのへんだったのだとする研究は読んだことはないが、
皇居が初めから米軍の空襲から除外されていたのは確かである。
都心だったから助かった自分は周辺区域に住んでいた焼け出された人たちに無限の負い目があると考えた可能性については、皇室に仕えていた夫との離婚という伝記とともに調べてみる価値はある。
私たちは焼け残った。この人らは災いを代わりに被った。
私たちには無限の責務があると考えるというのは、逆に自己を貫くタイプにありそうな発想のようにも思う。
また、東京大学はロックフェラー財団が作った図書館があったので、一部以外は残った。
笹島ら大学病院の廊下などで寝起きしていた、東大関係者が生き残っているのは、小説が虚実皮膜の世界で描かれ、細部は事実ときちんと照応していることになる。
この桜井浜江なら、僕はどちらかというと、好きなタイプかもしれない。
(僕のタイプなど誰も聞いてないか(;゜ロ゜)
しかし、それを饗応夫人として一皮パロって表現されたとたん、紙一重でまるで違う印象になる。
ただ表現者の業を生きた彼女のとった道を、おもてなしの業を生きた饗応夫人のとった道として描き、その業の深さ故に人間としてぶっ壊れるまでの描写がこの小説なのだと言われたら、そうかもしれないと思う。
僕は自分に理解できるものに引きつけて読み過ぎただろうか。
冥界の太宰治は語らず、僕は今自分がALISに書いたのより、詳しい研究を読んだことがないので、知っている人は教えてください。