実はこのレビューには僕もさっきまで気づいてませんでした。
クリスチャンの方が書いてくださったようです。
5つ星のうち5.0キリスト教と重なりあう仏教の神髄2018年9月13日
「超簡単訳」とありますが、内容編集までしてしまう「超訳」ではなく、学問に根ざした、読みやすく丁寧かつ平易な訳です。
「臨死体験」とありますが、SFやホラーのようなものではなく、そういうことならそうだろう、と納得のいくものです。
「そこにはただただ広大な宇宙が広がっていて、無数の星々が集(すだ)いていました。それは完全に透明で静かな『永遠の今』でした。何ものにも碍たげられることのない覚醒が宇宙の隅々まで行き渡っていました。私の覚醒はすべてのものに染みわたり、貫き、透き通っていました」(p.11)
著者によればこの体験は「閑かさや岩にしみいる蝉の声」に通じるとのことですが、それならば、ぼくでも、礼拝堂で天井を見上げたり、目を閉じたりすれば、ときおり経験することです。
ぼくが信仰するキリスト教と重ねあわせることができる記述は他にもいくつもあります。
「浄土真宗では『南無阿弥陀仏』の称名は自らが称える自力の修業ではなく、阿弥陀の無限の働きによって称える他力行であるということが要となる」(p.5)。
キリスト教の祈りも、自分が祈っているようで、じつは、神から与えられたものでもあります。「主の祈り」のようにイエスから与えられた祈りもありますし、個人個人の祈りも、いまその場で神が与えてくれているものと信じることもできます。
ここまでは、著者の地の文からの引用ですが、つぎは、歎異抄の「超簡単訳」からの引用です。
「『無限の働きに身をまかせるしかない』とたのみにする『自らの悪に自覚的な人間』こそが、もともと解放されるべき一番の対象である」(p.49)。
自らの弱さを否応なく知らされ、神に委ねるしかない者を神は救う、とキリスト教では言います。
「自ら犯したどんな悪によっても、その報いによって道を阻まれることはありません。逆に自ら行ったどんな善行によっても、何かが付け加わることもありません」(p.56)。
キリスト教ではこれを、恩寵による救い、と呼びます。
「命が終われば、数々の煩悩がそのまま完全変態し、蝶となって羽ばたき、生じることも滅することもない永遠の今を自覚するのです」(p.84)。
イエスはこれを「神の国」「天の国」「永遠のいのち」と名付けました。そして、それは、今すでにここに来ているとも言いました。
歎異抄でも「宇宙の無限の働きにひたすら身をまかせようという人であればなおさら、今ここにおいて完全に解放されるのだ」(p.49)とい親鸞の言葉が載せられています。
ところで、著者は社会的な問題意識も備えています。「先住民=ネイティブ・ピープル正機説こそ、悪人正機説の社会的側面だと私は考えています。親鸞は蝦夷や隼人、この島に縄文時代から住んでいた狩猟採集民こそが、もっとも先に救済される存在だというのです」(p.27)。
「日本の仏教はそのほとんど悉くが、かつて天皇制帝国主義を補完する役割をし、侵略戦争を思想的に支えたという罪の歴史を背負っているのです」(p.139)。
これらは換言すれば、根本的には救われているからこの世の束の間の生活がどうでもよい、というわけではない、ということです。
「死への恐怖がなくなることは、もういつでも死んでしまってもいいということでは、けっしてありません。逆に、『今、生きている一瞬一瞬を二度と戻らない大切な時として、100パーセント生ききる』という決意を新たにするということだったのです」(p.146)。
自分のだけでなく、他者の生きている一瞬一瞬をも二度と戻らない大切な時とすること。社会的な問題意識の中身がここにあると思います。
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