共産主義(2)
その次の段階の共産主義についてマルクスはa、bに分けて次のように叙述している。
「a 民主的にせよ専制的にせよ、まだ政治的性質を持っている共産主義」
「b 国家の止揚をともなうが、しかし同時にまだ不完全で、まだ相変わらず私有財産すなわち人間の疎外に影響されている本質をもっている共産主義」
現実の世界には、(2)のaまでしか登場しなかった。
しかも民主的でなく専制的なものまでしか登場したことはない。
理念的には、インターナショナルな共産主義bは目指されてはいたが、現実的にはaしかなかった。
しかも、マルクスの考えでは、共産主義は、国家を止揚するだけでは全く不十分である。
マルクスは共産主義を、(人間だけが持つ)私有財産の観念からの解放=人間の自己疎外からの解放であると考えていた。
ここで注意しておかなければならない点は、私有財産からの解放という言葉は、多くの人にまるで共産主義(1)の妬み(ルサンチマン)や均分化の完成のようにしか聞こえないかもしれないことだ。
これが共産主義が誤解されたまま嫌われる理由となっている。
しかし、他の生き物にはない私有財産の観念がどのようにして人間にだけ生じたのかは、極めて精神的な問題としてとらえることが必要である。
「自由な意識活動が、人間の類的生活である」とマルクスは言う。それと対置して「動物はその生命活動から自分を区別しない。動物とは生命活動なのである」と言う。
人間だけが生命活動を対象化するため、自由な意識活動を持っている。
しかし、そのゆえにこそ、人間だけが、今ここにおいてただただ踊るような生命活動から逸脱することがある。
「今ここ」を未来に投影された「目的」(典型的には財産の占有と保持)の「手段」と見なすことがあるのは人間だけである。
「目的」と「手段」が分離したとき、人は、限りなき働きのままの世界から疎外される。
「今ここ」を、限りなき働きのままに、あるがままに踊る境涯を見失うのである。
聖書ではそれを「失楽園」という隠喩で表現している。
仏教で業と言うのも、キリスト教で原罪というのも、最奥の一点では、「意識化による今ここからの自己疎外」という意味において、同じである。
共産主義(2)は、私有財産と自己疎外のこの関係について意識しているが、未だその解決を果たしていない状態である。
真の問題の在処についてなにがしかの直感を有しているのだが、実際には「占有」の観念からは逃れられず、もがき模索しながらも、絶えず共産主義(1)に再び落下してしまう。