日本では旅館の料理が食べきれないほど出て、廃棄前提なのかとのツイートがバッシングされました。廃棄前提の飽食を擁護する日本は、フードロス削減がSDGsに掲げられ、グローバルな課題になっている中で後進的です。
中華人民共和国はフードロス削減に本腰を入れます。習近平国家主席は「飲食の浪費行為の断固阻止」を指示し、食べ残しの根絶を目指す方針を打ち出しました(「習氏「食べ残し断固阻止」 食料不足懸念か―中国」時事通信2020年8月16日)。
中国では食べきれない量の食事を出して歓待する伝統的な習慣があります。全部食べてしまうと、まだ満足していないということで、お替わりを持ってくるので少しは残さないといけないと習いました。そのような習慣もなくなっていくでしょう。
日本で廃棄前提ツイートがバッシングを受けたことを踏まえると、日本よりも中国が先進的となります。日本の旅館が食べきれない量の食事を出すことは日本独自の伝統ではなく、中国とも共通する前近代的な習慣です。
高級旅館はフードロスが多いということを意味するならば、高級は虚しい言葉です。飽食の時代から速やかに脱却しましょう。廉価で良いサービスを提供する事業者が増えており、昭和のビジネスモデルは「高かろう、悪かろう」が目に付きます。
日本の旅館の料理の廃棄前提の議論はフードロスという観点が軽視される傾向があります。ツイート主は「到底食べきれない」と発言しており、フードロスの問題です。自分ならば食べられるという主張は相手のことを考えず、自分の基準で判断する主張です。フードロスをなくすために消費者に残さず食べろと苦行を強いるならば、昭和の学校給食ではあるまいし、ホスピタリティ皆無です。
ツイート主が事前申告すれば良かったという批判もありますが、ツイート主は自分が特に小食と言っている訳ではありません。食べきれない量をデフォルトとすることを無駄なサービスとして問題視しています。消費者側の一方的な努力や負担でフードロスが回避されたとなるならば相互主義に反しており、不公正になります。
20世紀前半を生きたメキシコの画家フリーダ・カーロは「何千何万という人が餓死しているときに、金持ちはパーティーに明け暮れている」とアメリカ社会を批判しました(マリア・ヘッセ著、宇野和美訳『わたしはフリーダ・カーロ 絵でたどるその人生』花伝社、2020年)。日本でも子ども食堂など食の課題の課題はありますが、飽食を贅沢とする不健全な感覚が残っています。フリーダが日本を見たら、アメリカ同様批判するでしょう。
旅館の料理は廃棄前提か
『食の歴史』飽食の時代から脱却
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