江の島は神奈川県藤沢市にあり、相模湾に浮かぶ陸繋島(りくけいとう)です。陸繋島は陸地と陸続きになった島です。吾妻鏡の健保四年(1216年)一月一五日条に江の島と片瀬の間の海底が隆起し徒歩で島へ渡れる様になったと記録されています。
江の島の奥には海食洞窟「岩屋」があります。元々海中にあって波が侵食していました。それが地震等により隆起して海面上に生じた洞窟です。神秘的な雰囲気から宗教的な意味合いを持たされ、江島神社発祥の地となりました。奈良時代には役小角、平安時代には空海(弘法大師)や円仁が修業したと伝えられています。
源頼朝は養和二年(1182年)に文覚に弁才天を勧請させ、自らは奥津宮の鳥居を奉納しました。この時期は源平の合戦(治承・寿永の乱)中でしたが、養和の飢饉が起きて平家も木曽義仲も頼朝も積極的に動けず、それぞれの勢力範囲を固めていました。
その中で頼朝は江の島に弁財天を勧請し、奥州平泉の藤原秀衡調伏を祈願させました。秀衡は養和元年(1181年)八月に従五位上・陸奥守に叙任されました。これは秀衡に頼朝を追討させるための平家の人事でした。秀衡は平家の思惑に乗らず、中立によって平和と繁栄を守りましたが、頼朝は奥州藤原氏を警戒し続けました。
頼朝は自分が西に軍を進めると奥州藤原氏が関東に攻めてくると考えていました。そのために平家追討に際しても弟の義経や範頼を派遣し、自身は鎌倉から出ませんでした。朝廷からの度重なる上洛要請も奥州藤原氏の危険を理由に断り続けました。奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした後で始めて上洛しました。
鎌倉幕府三代将軍の源実朝は建永元年(1206年)に鶴岡八幡宮寺の僧の良真の勧めで江島神社の辺津宮(へつみや)を創建しました。これで江の島神社には辺津宮(へつみや)、中津宮、奥津宮の三つの宮ができました。それぞれ田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)の姉妹神を祀ります。辺津宮は江の島の中で一番下に位置していることから下之宮(しものみや)とも呼ばれます。
辺津宮の白龍池には白龍王が鎮座しています。白龍王が授ける清浄な水で金銭を洗い清めると、福徳がもたらされるとされます。
青銅の鳥居は江の島の入口にある鳥居です。
朱の鳥居は青銅の鳥居を進むとあります。瑞心門は朱の鳥居の正面にあります。龍宮城を模した楼門です。
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