政治・経済で感情抜きにして合理的に考えるとみな同じ考えになる。
一部の既得権益層ではなく、合理的に考えれば現状よりマシな政策もたくさんある。
とはいえそうはならないのが感情の面白いところ。
政治ではそれは面白くない事が起こりうるが、アートな部分や個人の面白さにおいてその合理的でない部分が楽しむポイントになる。
僕はダルマとピアノをもって47都道府県を回る、という企画を個人的にやっている。
「お金に繋がるか?」というと、むしろ出て行く。
「この企画から仕事が入るか?」と言われれば、クオリティも高くないのでそんなことはないと思う。
「なぜやっているのか?」と言われたら自分でもよくわからない。でも自分で楽しいことだけはわかる。
この企画が面白いと感じる人もいれば、意味不明で面白くないと思う人もいると思う。この偏りがそれぞれの人の面白さなのかなと思う。
このバイアスの偏りは情報のみだと偏りがちになってしまうのかも?というのが今回の話。
昨日「辺野古に行った話」を書きました。
ニュースを見ていると「普天間は移設だな」と感じていました。反対派はすこし怖いなぁ、という印象。
実際に行ってみると物腰の柔らかい人が丁寧に説明をしてくれました。そこで気になったことを言っていました。
「移設は辺野古じゃなくてもいいじゃないか」
普天間に行けば移設が必要なことはわかります。過去に事件や事故も起きていて、基地も幼稚園などもある街中にある。飛行機も街の上を通るので危険なのはわかる。
しかし、座り込みをしている人たちには「移設は辺野古ではないといけない」ということが伝わってない。あるいは納得していないのかもしれない。
とするとそこの説明はしなければいけないのだろうなぁと思いました。
ニュースを見ているとだけだと、文字だけだとこの感情が沸き起こらなかったのですが、会って話したことで僕の中でバイアスの偏りが少し修正された瞬間でした。
人に会って話すと自分の感情も変化するというのがとても不思議です。政治家はよく人に会いに行くのがわかる気がします。
ダメなことも「まぁいいっか」と思ってしまう威力すらあります笑
脱線しましたが、議論をするときってマウントを取る必要もないじゃないか、お互いの話を深めて新しいそれぞれの答えを導き、それでも分かり合えないなら選挙。
なんだか世の中の仕組みってよく出来るなあと思いました。
昔なら意見が合わなければ戦や戦争、殺し合いですし。。。
ただし、今回のことはバイアスを少なくして物を見る必要がある場合に関してのみ。
アートなものを作るときは人に影響されず、なんなら人と会わずに好きなものをひたすら見つけ、作り続けると結果的に面白いものができる気もしている今日この頃です。